2024年3月 1日 (金)

オリバー・オドノヴァン「再び問う、人格とは誰なのか」

 

最後の投稿から10日が過ぎた。その間にお祈りくださった方々には心から感謝を申し上げたい。神様のあわれみにより、この度の肺炎は深刻な種類のものではなく、また結核菌も検出されず、急性のものであった。25日の礼拝は欠席させていただき安静に努めている。依然多少の咳が残るものの、快復傾向にあるので、次聖日(3/3)の礼拝から復帰予定だ。

Photo_20240301005801 晴耕雨読ではないが、晴耕病読の日々。聖書をゆっくりしっかり読み、よく黙想し、今年度を振り返った。また、少し古い本ではあるが(2010年刊)、画像の本を読書した。本投稿の表題「再び問う、人格とは誰なのか」とは、本書に収められた論文の一つ、オリバー・オドノヴァン(Oliver O'Donovan)執筆の論文題である。オドノヴァンの文章が日本語で読めるとはとても有難い。しかしオドノヴァンらしく、その思索は大変深く、簡単に読み進められるものではない。

ルカの福音書 10章 25〜37節の一般に「善いサマリア人のたとえ話」として知られる箇所から、「隣人」という語から「人格」とは誰なのか(何なのかではない)を思索して行く。この論文の初出が "Again: Who Is a Person?" in J. H. Channer, ed., Abortion and the Sanctity of Human Life; pp. 125-137. Paternoster Press, 1985 であるので、中絶の問題を取り扱った生命倫理の論文集という背景を押さえておいた方がよい。

本論文の中でオドノヴァンは「批判的実在論」という語は一切使っていなし、初出が 1985年という年代から考えてもイギリスでこの存在論的認識論が広く定着していたとは到底考えられないが、オドノヴァンが到達していた洞察はまさに批判的実在論の見地からの生命倫理であったことが窺われる。それは結語にある次の文章からも明らかであろう。

既に強調したように、人間の人格が網羅的な分析を拒むということは真実である。またその人格が、われわれの名を呼ぶことによってわれわれに固有の存在を授ける、神の召命の神秘のうちにその根を持っているということは真実である。しかし、その秘密の召命には各人が個別に耳を傾けるしかない。われわれは、見かけを通じて展開するその発見によって他者を知るのであり、その見かけが発現させるものに真剣に注意を払うときのみ、その他者を見かけの集まり以上の何ものかとして知るのである。ユダヤ人の隣人であることが明らかになったサマリア人は、あの道にいた、自らが目にした証拠を信頼できると考えていた一人の旅人であったのだ。「彼は、その人を見た時、哀れに思った。」 (『生命倫理における宗教とスピリチュアリティ』 第四章 「再び問う、人格とは誰なのか」 pp. 83-84)  太字はのらくら者による。)

 

オドノヴァンは「還元不可能性」について文中で何度か言及している(例えば pp. 68-69)。また上記引用の文章中の「その他者を見かけの集まり以上の何ものかとして知る」という言及は、部分の総体が創発した複雑系としての人格(生命)と読むことができるであろう。

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ブラックウェル書店にて

 

2024年2月19日 (月)

肺炎と診断されたのでしばらくお休みします。

 

先々週末から続く咳(せき)と高熱。あまりにしつこいので本日、市内のクリニックに行った。各種検査の結果、新型コロナでもインフルエンザでもなく「肺炎」と診断された。

本来ならば即入院で点滴による治療なのだが、病床の状況もあり、本日から当分の間、絶対安静で抗生物質による自宅療養を医者から指示された。来週月曜日に再度通院する。しかしその間、聖研祈祷会も礼拝出席もできない。教会員に迷惑をかけてしまうことを本当に申し訳なく思っている。

ブログ更新もしばらくお休みいたします。

 

2024年2月10日 (土)

小澤征爾さんの訃報

 

指揮者の小澤征爾さんが昨日死去された。88歳だった。

少年時代からの憧れのヒーローの訃報に今は言葉もない。たまたま昨日の投稿でアメリカ留学時代の思い出の投稿を引用した。プロレスとクラシック音楽を愛する少年の他愛もない思い出話だ。

Ishihara-ozawa小澤さんの少年時代、まだ中国大陸にいた頃、父・小澤開作と文芸評論家の小林秀雄に親交があったらしい。ある日、小澤邸の客間に飾ってあった壺をじっと見ていた小林秀雄はそれを床に叩きつけて割った。「何をするか!」と怒鳴った開作に「こんな贋物を置いているからだ!」と小林は答える。「贋物と判っておいているんだ!」と開作は言い二人はそのまま取っ組み合いの喧嘩になった。(田中秀雄著『石原莞爾と小澤開作ー民族協和を求めて』 2008年 芙蓉書房出版 p. 14)

ある人はこの逸話を評して「小澤征爾の中には、一切の妥協を許さない小林の審美眼と、恐らく中国人から贈られたであろうその壺を贋物と知りつつ大事に思う開作の真心の、二つの資質が同居しているのだろう」と述べた。私も、小澤征爾論としてまことに正鵠を射た人物評だと思う。

ご遺族に主なる神様の慰めと励ましをお祈りいたします。

 

2024年2月 9日 (金)

ハルク・ホーガンの受洗

 

昨年の師走、プロレスラーのハルク・ホーガンがフロリダ州の教会で洗礼を受けたとのニュースが世界を駆け巡った。ホーガンは「すべてを明け渡し、イエス・キリストに献身する("Total surrender and dedication to Jesus")」と語っている。

以前の投稿で書いたとおり(「若い日のある感動」)、新日本プロレスで日本デビューを果たす以前のホーガンを私はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで見ている。間近で見た彼の巨体は今でも鮮烈な記憶だ。凶暴なホーガンがクリスチャンになるなどその時はまったく想像できなかった。私はその半年ほど前に洗礼を受けてクリスチャンになっていた。

何はともあれ、人が救われるのは素晴らしいことだ。ホーガンの回心と信仰告白を心から喜びたい。

 

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2024年2月 4日 (日)

神学校教育の本質 

 

以前の投稿でも引用したと思うが、神学校教育の本質はこのユダヤの格言の中にあると思う。

勉強したければ図書館へ行け。神学校とは偉大な教師の前に座ることである。

 

つい最近、敬愛するM牧師がフェイスブックである投稿されていた。題して「松本人志問題が教会とダビデに重なる」。その中の一つでM師は〈師弟関係の大切さ〉を指摘されている。それは松本人志氏について、ミスター吉本と言われる大物OB、木村政雄氏の厳しい意見に言及しての所感である。M師は述べる。

事件の犯罪性の有無は別としても、松本人志が、力を持ちすぎて、「裸の王様になった」と指摘。原因の一つとしてあげられたのは、NSCという養成機関によって、伝統的な「師弟関係」がなくなった事。それによって、注意指導をできる人物が失われていたとの見解。先輩芸人たちも見て見ぬふりをしていたようだったとのこと。

M師は別の文章で、学校などの養成機関が悪いわけではないことはもちろん補足されている。とはいえ「師弟の持つ人格的信頼関係に基づく弟子の逸脱を防止する機能が失われがちとなることは、大きなマイナスだろう」と釘を刺される。

M師は松本人志問題の本質を主に教会の文脈で語られているが、〈師弟関係の大切さ〉という点ではむしろ神学校教育の現場に当てはまるのではと私などは思う。昨今、いろいろな神学校でオンライン(Zoom)によるリモート講義が提供され出した。Zoom の持つリアルタイム性と双方向性を利用して「〜ながら」(地元にいながら、働きながら、教会で奉仕しながら ect.)の学びができるという訳だ。

しかし私は思う。神学校教育の主眼が〈知識の伝達〉ならばそれもよかろう。だが神学校教育の本質は上記のユダヤの格言にあるように、知識の伝達以上に〈師弟関係の大切さ〉、即ち「師弟の持つ人格的信頼関係に基づく弟子の逸脱を防止する機能」ではないのか。人格的信頼関係であるなら、基本は実際に顔と顔を合わせる対面であり、時に寝食を共にする交わりであり関係ではないのか。神学校とは本来そういう場であるべきだ。

Evangelicalismアリスター・マクグラスは『キリスト教の将来と福音主義』が邦訳出版された 1995年の時点(原著は 1993年刊、画像の邦訳新装版は 2003年刊)で、すでに欧米では問題が顕在化していた神学教育の非人格化に警鐘を鳴らしていた。にもかかわらず、日本の神学校はそれから学ばなかったようだ。ユダヤの格言で「偉大な教師」と言われている言葉をマクグラスは ロールモデル(role model)という言葉に置き換えている。ロールモデルとは「自分の行動や考え方の模範となる人物」のことだ。従って、教師とは単なる知識の伝達者ではない。

オンラインによるリモート講義は、当座の働き人育成にはそこそこ貢献しても、長い目で見れば神学校教育の弱体化と問題伝道者の輩出につながると思う。

 

松本人志問題が神学校教育の場に問うもう一つの重大な面がある。

2020年フジテレビ開局60周年記念の新春スペシャルドラマ『教場』。原作は長岡弘樹の小説『教場』シリーズだ。2021年新春には『教場 II』がそれぞれ放映された。警察学校のアメリカ英語訳はポリス・アカデミーだ。アメリカではコメディー映画のシリーズとして知られている。しかし『教場』はそんなおちゃらけた内容ではない。

警察学校は、優秀な警察官を育てるための機関ではなく、適正のない人間をふるい落とす場である。訓練期間中に「警察官としてあるまじき」と判断されれば、容赦なく自主退学へと追い込まれる。他方「ふるい」はあるが「その逆もある。残すべき人材であればマンツーマンで指導してでも残す」(ドラマ中の風間教官のことば)。現場の警察官は一般に小説やドラマ&映画の警察物が現実離れしているので嫌悪しているが、『教場』シリーズは共感を得ていると聞いている。

日本のプロテスタント神学校、とりわけ福音派の神学校の弱点はまさにここだ。ここでは入学時のゆるさ(本人の自薦と教会の推薦があればほぼ誰でも入学でき、入学試験は事実上有名無実化している実態)には言及しないでおくとして、『教場』に描かれる如く教育段階において神学校が「適正がない人物を排除するための機関」としてはまず機能していない。日本の神学校とは要するに、誰でも入学でき、誰でも卒業して行く機関である。換言すれば、牧師や伝道者として不適格な人物が教育機関でふるい落とされることなく教会の現場に送り出されている。(なぜ神学校が「ふるい」としての役目を果たさない/果たせない理由・事情はここでは詳しく触れない。有り体に言えば教会・教派・支援者による「金(カネ)縛り」の問題だ。)

これは私見だけではない。多くの信徒の実感である。実際、私のところにも信徒からの「悲鳴」が寄せられる。

村上 密牧師が述べるように、2010年代は、教会のカルト化の問題が相次いだ。

2010年代、異端やカルトの問題より、教会のカルト化の問題が相次いだのは、信徒がキリスト教倫理や規範を持たない牧師の独裁を許したからである。牧師は牧師に従う信徒を模範的信徒と教え込み、信徒が牧師依存に陥った。教会は、力を失った。牧師は独裁により自己実現を追及した。それははキリストへの愛から離れた生き方である。

問題牧師の独裁を許してしまう信徒の側にも責任はあるが、『教場』の如く「ふるい」として機能しない神学校の責任の方がより大きいと私は考える。もちろん上記のとおり「ふるい」だけでなく「残すべき人材であればマンツーマンで指導してでも残す」情熱が注がれる場も神学校である。

2020年代も半ばに近づいた。神学校教育について全教会的な議論が必要であると思う。

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神学校とかけて便所と解く。その心は・・

 

2024年1月27日 (土)

Pastor-Theologian の問いかける問題

 

Davidatkinson元金融アナリストで小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏が指摘する日本経済の「モノプソニー(monopsony)=労働者が安く買い叩かれる問題」。処方として「小規模事業者の統廃合」→「中堅企業の育成」が不可避とアトキンソン氏は説く。

無能な社長を増やす「給料安すぎ日本」の大問題

 

実はプロテスタント教会にも教職者(牧師・伝道者)のモノプソニーの問題がないか。現実問題として、一部を除き、教職者たちは安く買い叩かれている。上記記事の小規模事業者を小規模教会、中堅企業を中規模教会と置き換えれば分かる。教職者モノプソニーの問題は結局、教会自身にはね返って来る。しかし小規模教会の統廃合は禁句・タブーなのがキリスト教界の現状。かくして問題は先送りされる。この悪循環。

 

Img_6296ここ十数年ほどだろうか、アメリカで(恐らくカナダも含む北アメリカで)"Pastor-Theologian" なるテーマが議論されるようになった。画像はジョン・パイパー(John Piper)とドナルド・カーソン(D. A. Carson)による共著 The Pastor as Scholoar & The Scholoar as Pastor: Reflections on Life and Ministry。2011年に刊行された。

Img_62972015年にはケヴィン・ヴァンフーザー(Kevin Vanhoozer)が共著で The Pastor as Public Theologian: Reclaiming a Lost Vision を世に問うた。

北アメリカの教会土壌から生まれた問題意識なので、一見すると日本のキリスト教会ではピンと来ないテーマかもしれない。しかし上述の「モノプソニー」という消費社会での経済問題が与える影響は日本の教会土壌でも共通していると思われる。即ち、安く買い叩かれる教職者たちの悩みーー専門家として遇されないことで見失う召命とビジョンーーである。上述では教会の側に一考を促したが、ここでは教職者側の課題に触れてみたい。

Pastor-Theologian の問題意識の底流に、教職者たちが直面しているある困難(圧力)がある。これについてはすでに1992年の時点でドナルド・カーソン(D. A. カーソン)が自身の著書(原書)で指摘している。少し長いが以下に引用する。

この祈りのチャレンジにぶつかるとき、私たち西欧世界の牧会者はある種の困難に直面します。みことばと祈りの務めのためにめされていることを知りながらも、いくつかの顕著な圧力がのしかかり、それらの圧力はしつこく続いて私たちの価値観を、ひいてはスケジュールを形成する結果になるということです。

牧師の仕事は多様化しています。私たちはみことばと祈りの務めに没頭していません。カウンセラー、寄付金集め人、管理者、役員会のメンバー、仲裁人、政治家、メディアの有名人になっているからです。

多くの牧師は本当の自分の姿について混乱しており、自分の働きを過小評価して悩んでいることもあります。三十年前そこそこまでは、牧師は西欧の世界で一般に尊敬されていました。台頭する世俗主義、牧師を無能な人かペテン師、あるいはその両方と見なすマスコミのしつこい報道、牧師は(恐竜のように)時代遅れで横柄だという一般的な認識などによる三十年間で、私たち牧師は少々不安を感じているかもしれません。牧師の多くは専門家と共に働き、専門家を教えることさえあるのですが、自分自身は専門家として遇されていないことをやがて知るのです。十字架の道に従う者がこのようなプレッシャーで悩むべきではないと論じられるかもしれません。しかし実際は、多くの牧師は劣等感の埋め合わせをしようとして、あまりにも専門家ぶってふるまうと同時に、あまりにもみことばと祈りの務めを与えられた者でないかのようにふるまっています

かなり多くの牧師は落胆と虚しさを感じています。長年ずっと働きながら、一人も回心者を見ることもない牧師が多くいます。ある牧師たちは明晰な考えをもちつつも、自分に課せられている教職者の伝統的な役割を果たせないと感じます。自分の原点である伝統を高く評価し、気まぐれな新工夫の限りない連続に脅かされているように感じる人もいます。年月は少しずつ過ぎ去り、意気消沈したあきらめが起こるのです。

D. A. カーソン著 今井敦子訳 『祈りの力と霊的改革』(いのちのことば社) 1994年刊 pp. 212-214

 

カーソンが(原著の 1992年の時点で)述べるように、三十年前そこそこまでは(=1960年代までは)」Pastor(牧師) と Theologian(神学者)または Scholar(学者)はひとりの人物として社会的にカップリングされて認識されていた。牧師は専門家として遇されていた。ポストモダン社会の到来で状況は一変した。現在の米中関係ではないが「デカップリング(分断)」の時代になったのだ。大学院で学位を得た神学者は「学者」という専門家として依然遇される反面、牧師は専門家ではない二流の職業と余儀なくされる社会的圧力が生じたとカーソンは指摘する。その結果「多くの牧師は劣等感の埋め合わせをしようとして、あまりにも専門家ぶってふるまうと同時に、あまりにもみことばと祈りの務めを与えられた者でないかのようにふるまっています」と彼は言う。専門家ぶってふるまうために、学位取得による「箔付け」に走る者もいよう。

余談だが、アメリカの神学校(seminary)は自らを "school" つまり大学院と位置づけ、大学学部卒業者(=学士号保有者) であれば神学の最初の学位に「マスター(修士号)」を与える。翻ってイギリスでは、あなたが大学学部卒業者であっても、神学の最初の学位は「バチェラー(学士号)」である。例外的に、オックスブリッジの学芸学士号(Bachelor of Arts, B.A.)は、卒業後4年経つと自動的に学芸修士号(Master of Arts, M.A.)に格上げされる特権がある(古式に則った伝統)。もちろん辞退することもできる。恩師のフィリップ・ジョンストン先生(旧約学)は、ケンブリッジの M.A.を辞退した気骨のある方だった。

話を戻す。圧力と意気消沈の中で、牧師・伝道者たちはどのようにして見失った務め(召命)とビジョンを取り戻すべきなのだろうか。繰り返すが、カーソンの原著は 1992年刊、つまり 20世紀だ。それから四半世紀が経過した 21世紀の現在、状況はより複雑化し、教職者たちの立場はより深刻に分断されている。今日、牧師やその卵が「箔付け」のために留学し無駄に高学歴化していないか。Pastor-Theologian の問いかける問題は根深い。

 

2024年1月23日 (火)

『百万人の福音』2月号

 

いのちのことば社の月刊誌『BIBLE & LIFE 百万人の福音』。2月号の「この町この教会」で私たちの教会が紹介された。

オンラインでのインタビューではだらだらと冗長に答えてしまったが、編集者のTさんは手際よくまとめてくださった。さすがプロの仕事は違う。本や記事は、編集者に支えられてこその著者だ。

実は(申し訳ないことに)本当に久しぶりに『百万人の福音』誌を読んだ。特に信徒にとって読みごたえのある信仰雑誌だと思う。

Bible-life

PS. 『クリスチャン新聞』2024年1月28日号の8面でも紹介いただいた。こちらは文章が少し多め。

 

2024年1月17日 (水)

知解を求める信仰:「減算的知識」としての批判的実在論  

 

James-poskett 池田信夫氏が興味深い本を紹介していた。ジェームズ・ポスケット著『科学文明の起源:近代世界を生んだグローバルな科学の歴史』。東洋経済新聞社から昨年末に刊行された。著者のJ. ポスケット(James Poskett)は、Amazon.com の紹介によれば「英ウォーリック大学准教授。科学技術史が専門。ケンブリッジ大学で博士号を取得し、ダーウィン・コレッジのエイドリアン・リサーチ・フェローシップを取得した。『ガーディアン』『ネイチャー』『BBCヒストリーマガジン』などに寄稿し、インドの天文台からオーストラリアの自然史博物館まで、世界各地を調査のために訪れている。2013年にはBBC新世代思想家賞の最終選考に残り、2012年には英国科学作家協会による最優秀新人賞を受賞している」とのこと。

本書の論点は、近代科学の起源が西洋中心ではないことを明らかにしようとしていること。池田氏は次のように説明する。

1543年に地動説を唱えたコペルニクスは教会の迫害を受けたが、天動説を否定したのは彼が最初ではなかった。11世紀にエジプトの天文学者がプトレマイオスの理論には矛盾があると指摘し、13世紀にはペルシャの天文学者が、惑星が太陽のまわりを公転するモデルを考えた。コペルニクスの著書には、その図が引用されている。つまり科学革命は、コペルニクスやニュートンなどの天才の頭脳から生まれたのではなく、中世のイスラム圏で蓄積された文化が(当時の後発国だった)ヨーロッパに伝わって生まれたのだ。

この言説はしかし、池田氏が他のところで述べた言説と食い違っているようにも感じる。近代「科学」として成立した西洋中心の科学史を否定するのはやはり難しいと思う。本書が指摘するように、西洋以外の他文明からの刺激は間違いない。しかし西洋の近代科学史が実線で描かれるのに比して、他の文明からの刺激による科学発展は点線に過ぎない。すでに16世紀の西洋では宗教改革者たちの思想によってスコラ神学からアリストテレス自然哲学という「不純物」が取り除かれようとしていた。万物が「御子の力あるみことば」という神の自由意志によって保たれているのであれば、その意志を人間が知ることはできない。ただ経験によって推測できるだけだ、と。

不純物が取り除かれたことで、哲学者たちは自由に神の意志を推測できるようになった。その推測を検証する手段として経験を組織化し体系化したのが観測や実験である。コペルニクス(1473ー1543)やガリレオ(1564ー1642)が天体の観測の結果否定したのはアリストテレスの自然哲学であって、キリスト教の教理ではなかった。宗教改革者 J. カルヴァン(1509ー1564)はこのことを正しく洞察していた。

従って、近代科学はカトリック教会に反抗して生まれた「革命」ではなく、むしろキリスト教に混じっていた異教的な要素を取り除き、神学的に純化した結果なのだ。科学の発展の原動力は演繹や帰納のみではなく、試行錯誤して間違いを捨てることなのだ。この「試行錯誤して間違いを捨てる」ことが「減算的知識(Subtractive Knowledge)」である。上記の「不純物を取り除く」ことでもある。アリストテレスの自然哲学を観測や実験によって否定する(減算する)方法論が生まれた点で、西洋の科学は「革命的」だった。

Photo_20240117054501ではなぜ、他の文化圏ではこうした科学が勃興しなかったのだろうか? この問いこそが、ポスケットの所説への疑問である。池田氏はピーター・ディア著『知識と経験の革命―― 科学革命の現場で何が起こったか』(みすず書房 2012年)に言及しながら次のように述べる。

これは自明の問いではない。16世紀の段階で、技術的な知識において圧倒的な最先進国は中国(明)であり、朱子学という形で高度に体系化された自然哲学を理解する「読書人」を科挙で官僚に選抜していた。しかし中国に欠けていたのは、既存の知識を否定する競争だった。いったん確立した学問体系はそれを完璧に習得したものが最高とされ、それを疑う者は排除される。科挙も次第にそういう堕落の過程をたどった。

西洋の大学も基本的に神学校で前例主義が強かったので、イノベーションは大学からは生まれなかった。ガリレオは宮廷つき教師であり、ハーヴェイは医師だった。特に大学以外で知識人が活躍するチャンスを広げたのは、植民地支配だった。これによって従来の自然哲学では説明できない多様な動植物や病気が出現し、他国と競争して海外に進出するためには航海術や天文学や医療などの実用的な科学的知識が必要になった。

このような多くの国々の競争は実用的な知識を必要とし、ビジネスや戦争に応用できるかどうかが学問の基準になった。こうして「使えない知識」が捨てられ、実験や観察に反する理論を棄却する実証主義が植民地時代以降に科学の方法論として確立した――というのが本書の説明である。

タレブの言葉でいえば、多くの人々が信じ続けてきた伝統を疑う否定的(減算的)知識が西洋に初めて科学を生み、今もイノベーションの源泉になっているのだ。彼はスティーブ・ジョブズの有名な言葉を引用している:Innovation is saying no to 1,000 things.

 

Photo_20240117061101ここで、ジョン・ポーキングホーンの言葉を引用する。実在論、とりわけ批判的実在論は「減算的知識」という面も持ち合わせていると思う。(太字はのらくら者による)

科学のすべての学説が生き残るわけではない。ふるいに分けられ、物理的世界をよく説明できた学説だけが、受け入れられていく。そういう意味で、フィリップ・キッチャーの次の言葉はなかなか分別があるというものだ。「われわれの理解は、あとあとそれによって説明される現象が、修正を受けつつ増えていくことによって進歩する」。彼は進化論に関する科学のことを言っているのだが、私は同様なことが、現象的なことだけではなく、概念的なことも含めて、もっと広くあてはまると思う。私は、多くの科学者同様、科学の進歩とはわれわれが物理的世界を操作する能力にではなく、現実の自然の知識を得る包容力にある、と信じている。一口で言えば、私は実在論者なのだ。もちろんそのような知識はある程度部分的であり、訂正もできる。われわれが到達しうるものは、絶対的な真理なのではなく、十分に確からしいというものなのである。われわれの方法は経験の創造的解釈なのであって、経験からの厳密な演繹なのではない。だから私は批判的実在論者である。(『科学時代の知と信』 p. 137)


減算的知識と批判的実在論とイノベーションは互いに関連しているのだ。減算的知識としての批判的実在論が「知解を求める信仰(fides quaerens intellectum)」ではないか。ポーキングホーンは述べる。「信仰へのコミットメントは理解を深め、訂正していく方法である。実在は、われわれのところにやってくる洞察をわれわれが信頼するときに、知られるようになる。(Commitment to belief is the way to deepen and correct understanding ;  reality is made known to us as we trust the insights that comes to us. )」(上掲書 p. 162)

 

2024年1月15日 (月)

ミスター・ベイツ vs ザ・ポストオフィス(Mr Bates vs The Post Office) 

 

イギリスの民間放送局 ITVは、元日から4日連続でテレビドラマ『ミスター・ベイツ vs ポストオフィス(Mr Bates vs The Post Office)』を放送した。

ロンドン在住ジャーナリスト木村正人氏の記事(ニューズウィーク日本版)から引用。

「違法な取り立て」に心折れ、自殺者も...富士通のシステムが招いた巨大「冤罪」事件に英国民の怒りが沸騰

富士通が提供した英国のポストオフィス(郵便事業のうち窓口業務を引き受ける国有非公開会社)の勘定系システム「ホライズン」の欠陥が原因で、民間郵便局長ら700人以上が「現金を横領した」などの疑いをかけられ冤罪になった事件。これについてロンドン警視庁は5日、無実の民間郵便局長らから不足分の資金を違法に取り立てたポストオフィスの行為が詐欺罪に当たるかどうか捜査していることを明らかにした。

ロンドン警視庁の発表は「偽証罪と偽計業務妨害罪の可能性について捜査中だ。これらの犯罪の可能性はポストオフィスによって行われた捜査や起訴から生じたものだ。訴追や民事訴訟の結果として民間郵便局長らから回収された資金についても、これらの訴追によってもたらされた詐欺罪の可能性を捜査している」という。

この事件では元民間郵便局長が集団訴訟を起こし、2019年12月、ロンドンの高等法院でポストオフィスは元局長555人に対し5800万ポンドを支払うことで和解が成立。判事は「富士通社員が提出したホライズンの欠陥に関する証拠の信憑性に重大な懸念がある」と検察当局に書類を送付し、ロンドン警視庁は偽証の疑いで富士通元社員2人を事情聴取している。

 

ITV 放送のこのドラマは、地位も財産も信用もすべて失った民間郵便局長らが無実を証明するまでの約23年に及ぶ闘いを描いている。

実はこの事件、個人的には他人事に思えない原体験がある。ロンドン日本語教会の牧師だった時、テレビライセンス(TV license)未払いのかどで危うく刑事訴追されかけたことがある。これは NHKの受信料のようなものだが、日本と違い強制力が半端ない。家庭にテレビを持ちながらライセンス料を払わないと罰金1,000ポンド(昨日のレートで約18万5千円)が科される。従って、テレビを持っていない人や、持っていても絶対に視聴しない人はわざわざ申請書を提出しなければならない。申請書を出さずに嘘がバレた場合、罰金が科される。支払いを拒否すれば刑事罰の対象となり、有罪判決されれば実刑となって収監される。

私の場合はこうだ。教会の会計担当者は日本に一時帰国する前、牧師館のテレビライセンスをきちんと支払った。なのになぜか支払われていないことになっていて、督促を受けたのだ。英語が母国語の妻が何度か担当者に説明したが埒があかなかった。そしてある日、妻が不在の時についに徴収員がやって来て半ば強制的に私はある文書にサインさせられた。徴収員の説明では、未納の原因を調査する旨の同意書ということだったが、実際は未納そのものを認める書面だった。詳しい後日談は省略するが、幸い、会計担当者による納付が確認されて事なきを得た。しかし問題は、会計担当者が納付した場所が郵便局だったことだ。なぜ納付の実績がシステムに反映されなかったのか、その時は不思議に思ったが、今回の事件の真相を知る中で合点が行った次第である。「ホライズン」を開発・運用した富士通には複雑な思いだ。

ポストオフィスのCEO(最高経営責任者)ポーラ・ヴェネルズ氏が、木村氏の記事にもあるように、イギリス国教会の司祭(牧師)でもあったとは腹立たしいかぎりだ。批判に晒された彼女は大英帝国勲章(CBE)を返上することをチャールズ国王に申し出た。

このドラマ、日本でも放送してほしい。

2024年1月11日 (木)

N. T. ライト神学最大の弱点?

 

煽ったブログ題を大人げないと思っている。と、まず述べておく。

過日の投稿のとおり、年末年始に N. T. ライトの神学方法論(批判的実在論)を検証した論文を何本か読んだ。読みながらかつて「エホバの証人信者を救う会」(正式名称を失念した)でお会いした K牧師の言葉を思い出した。「エホバの証人信者といくら神学論議をしても埒があきません。マインドコントロールされてますから。でもしかし、彼らの教えの内在的矛盾を突き、その矛盾を気付かせた時、初めてマインドコントロールが解けます。」

N. T. ライトの神学の最大の弱点も恐らく、彼の神学方法論に内在する不備や不徹底、そして方法論と本論との矛盾にあるのだろう。その点で、Stanley Porter と Andrew Pitts が共同執筆した論文('Critical Realism in Context: N. T. Wright's Historical Method and Analytic Epistemology' )からは多くの示唆を得た。ライトの批判的実在論は十分に sophisticated ではない。ポーター&ピッツは "To begin with, we must recognize that Lonergan-Meyer-Wright critical realist epistemology that is popular in New Testament studies today is by all standards a version of pre-Gettier internalism." と述べる。Gettier とは、アメリカの哲学者エドムント・ゲティア(Edmund L. Gettier, 1927ー2021)のことである。

ゲティアの問題(Gettier problem)」については、ぜひ ← をクリックして Wikipedia でおさらいしてほしい。論文題は「正当化された真なる信念は知識か(Is Justified True Belief Knowledge?)」であり、問題の所在は「信念が知識になるためにはどのような条件が満たされなければいけないか?」というものである。プラトン以来の「知識とは、正当化された真なる信念である」という定式に対してゲティアが反証した。

つまり、ロナガンーマイヤーーライトの批判的実在論は、「ゲティアの問題」以前の内在主義(internalism)的認識論に基づいており、洗練度が足りないというのだ。Aaron Chidgzey は彼の論文('Subjugating Subjectivity: Why Wright's Critical Realism is Not Critical Enough')において、ライトが 2019年にマイケル・バードと共著で出した本においてですら、ライトの批判的実在論の洗練度は「新約聖書と神の民:キリスト教の起源と神の問題 」第1巻(邦訳あり)からほとんど進歩が無いと断ずる。

そもそも、批判的実在論は「史的イエスの問題」はじめナラティブ(物語)の形式をとる福音書や使徒行伝研究においては威力を発揮するだろうが、文学ジャンルの異なる「パウロ書簡」や黙示録のような預言書においてはどうなのだろう。この辺の疑問にライトがどれくらい答えているのだろうか。

日本での N. T. ライト批判は、上記の K牧師が指摘する、エホバの証人 vs クリスチャンのようなパラダイムのぶつかり合い(どころか、すれ違い)で埒があかない。ライトを切り崩すのは、弱点(と思われる)方法論に内在する問題と、方法論と本論との関係であろう。ライト神学に対するプロ(pro 賛)にせよコン(con 否)にせよ、この分野での論客の登場が待たれる。

 

2024年1月10日 (水)

ミロスラフ・タディッチの「ウォークダンス」(バルカン半島の音楽) 

 

1024pxmiroslav_tadic_solo_performanceミロスラフ・タディッチ(Miroslav Tad , 1959ー )はセルビア出身のコンポーザーギタリスト。母国をはじめバルカン半島の民謡や民族音楽からインスピレーションを得て斬新なギター曲を書き、そして弾いている。バルカン半島の音楽の特徴はまず変拍子のリズム。5拍子・7拍子・11拍子など、我々には普段馴染みない拍子を刻む曲が多い。

Walk-danceタディッチの『哀歌・舞踊・子守歌集(Laments, Dances, and Lullabies)』第1巻に収められた「ウォークダンス(Walk Dance)」が、若いギタリストたちの人気を得ている。マケドニアの民族舞踊に基づいた曲。画像の楽譜をご覧あれ。8分の11拍子の曲である。私は最初、クロアチア出身の名手ゾーラン・ドゥキッチ(Zoran Dukić)によるバルカン半島ギター曲集のCDでこの曲を知った。今日では数多のギタリストたちが弾いているが、私はドゥキッチの演奏が今でも一番好きだ。でも残念ながら YouTube 等の動画サイトでドゥキッチの弾いたものは見かけない。

そんな中で、ドゥキッチの演奏を彷彿させる他のギタリストによる演奏動画を見つけた。ボリス・ベルスキーというウクライナ人のギタリスト。この曲をこんな風に速く歯切れ良くエネルギッシュに弾けたらカッコイイ。

2024年1月 9日 (火)

本当のことを言うと削除される 

 

Miyazawa宮沢孝幸先生(京都大学医生物学研究所附属感染症モデル研究センター准教授)の仙台駅動画を YouTube が削除したらしい。やはり本当のことを言うと削除される。換言すれば、削除されたら真実の証。

Googleの親会社(持株会社)「アルファベット」が製薬会社の株主と聞く。

米アルファベット、医薬 90社に投資

 

尚、宮沢先生は今年 5月に京大を退職予定。月刊 WiLL2024年1月号で、我那覇真子氏と対談し、退職の理由について問われ「真相はまだお話できません」「自分の意志で辞めるわけではないとだけ言っておきます」と答えている

 

2024年1月 6日 (土)

今年の新刊神学書 

 

元日の投稿でジェームズ・K. デュー( James K. Dew Jr) によるアリスター・マクグラスの批判的実在論に関する著書に言及した。今年は、デューとマクグラスのそれぞれの新刊が刊行予定とのこと。

Photo_202401052359014月に、デューともう一人の編集者(Ronnie P. Campbell Jr)による『自然神学:5つの見解(Natural Theology: Five Views)』が Baker Academic から刊行予定。"フォー・ビューズ" とか "ファイブ・ビューズ" シリーズの一環だと思う。アメリカ人はこういう企画が好きだ。因みに編集者の一人、ジェームズ・デューは現在、ルイジアナ州のニューオーリンズ・バプテスト神学校の学長と哲学教授の職にある。サウスイースタン・バプテスト神学校(ノース・カロライナ州)と英国バーミンガム大学大学院からそれぞれ博士号(Ph.D)を授与されている。本書でマクグラスは寄稿者の一人として名を連ねている。

Photo_20240106001501もう一冊はアリスター・マクグラス著の『キリスト教教理の本質:その起源、発展、効用(The Nature of Christian Doctrine: Its Origins, Development, and Function) 』が 6月にオックスフォード大学出版局(Oxford University Press)から刊行予定。すわ『科学的教義学(仮題)』の第1巻か?!と期待したが、そうではないよう。全 220頁ほどの本。書名は明らかにジョージ・リンドベックの『教理の本質:ポストリベラル時代の宗教と神学』(ヨルダン社 2003年刊)を意識していると思われるが、もちろんリンドベックのポストリベラル(イェール学派)の還元主義を批判的に乗り越えた、マクグラス自身の『科学的神学(A Scientific Theology Vols. 1-3)』の方法論に基づいた内容となることは確か(マクグラスによるリンドベック=ポストリベラル批判については『神の科学』教文館  pp. 135-139 を参照のこと)。因みに Amazon.com の宣伝文には次のようにある。

He instead provides a more reliable account of the myriad functions of doctrine, utilising Mary Midgley's concept of 'mapping' as a means of coordinating the multiple aspects of complex phenomena. McGrath's approach also employs Karl Popper's 'Three Worlds', allowing the theoretical, objective, and subjective aspects of doctrine to be seen as essential and interconnected.

イギリスの哲学者メアリー・ミジリー(Mary B. Midgley, 1919ー2018)について予習しておくとよいだろう。またカール・ポパーの 3世界論「世界 1・2・3」(世界 I :物質の諸相(物理的対象)、世界 II :意識の諸相(主観的知識)、世界 III:文化の諸相(客観的知識))を教理の諸相解明の方法論として採用するらしい。

Photo_20240106003301もう1つ、この本で楽しみなのは、マクグラスが 1990年に担当したオックスフォード大学の「バンプトン講義」を書籍化した『教理の起源:教理史発展の基盤についての一考察(The Genesis of Doctrine: A Study in the Foundation of Doctrinal Criticism)』からどのような神学思想的発展を遂げたかを確認すること。『教理の起源』は教理の解釈学的生成についての考察だった。その後『科学的神学』で批判的実在論を方法論として採用する過程で<解釈学的>と<批判的>の用語が持つ「対話性」「会話性」「双方向性」がどう止揚したかの軌跡を辿りたいと思っている。キーワードは<批判的>が持つ「創発(emergence)」という概念だ。新著では、教理をテーマに『科学的神学』原著第3巻「理論(Theory)」で提示されたパースペクティヴがどのように展開されるのだろうか。

こぼれ話だが、「バンプトン講義(The Bampton Lectures)」とは、ジョン・バンプトンによって創設された一連の神学講義で 1780年から続いている。2年に一度、オックスフォード大学で開催されている。アリスター・マクグラスが 1990年の講義担当者(講師)だったが、当時、弱冠 37歳。20世紀最年少の講師であった。そして、私の記憶違いでなければ、その記録は今日に至るまで破られていない。

 

2024年1月 5日 (金)

極楽とんぼ 

 

過日のブログ投稿で「「皆で貧しくなろう」 これも現代の日本人全般に見られる傾向だが、地方では更に拍車がかかる」と書いた。FB で誰かが批判していたと知人が教えてくれた。日本は貧しくなっていないとのことらしい。

論より証拠なので、以下にグラフを紹介しておく。OECD(経済協力開発機構)の統計による「実質賃金指数の推移の国際比較」。1997年を100とした場合、2018年の日本は 90.1。他の先進諸国と比較されたし。憶測で物事は言ってない。

Photo_20240105041201

 

余談だが、厚生労働省の「令和4年(2022) 人口動態統計月報年計(概数)の概況」によれば、2022年の出生数は 77万 747人(前年比で約 4万人の減少)。対する死亡数は 156万 8961人(前年比で13万人弱の増加)だった。出生数が 70万人を切るのは時間の問題。一方、青森県の2023年1月時点の人口は 122万5497人。死亡数が 156万人ということは即ち、毎年、青森県 1県以上の県が消えているということ。

日本が貧しくなっていないなど、極楽とんぼ(事の重大さにまったく気づかず、のんきに構えている者)の戯言に過ぎない。

PS.

Photo_20240203040101 人口減少の問題はまだ何とかなる。しかし日本の労働生産性はついにイタリアよりも低くなったらしい。これは深刻な問題。

 

2024年1月 1日 (月)

謹賀新年

 

新年明けましておめでとうございます。

主による新しい年、皆様のご家庭・お仕事・学業に神様の祝福が豊かにありますように。

青森市に移り住んで早3回目の冬を迎えています。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

年末年始は、少し古い本ですが(2010年刊)積ん読してあった『科学と神学:批判的実在論者アリスター・マクグラスの神学方法論を評価する』(James K. Dew Jr., Science and Theology: An Assessment of Alister McGrath's Critical Realist Perspective, Oregon: WIPF & STOCK, 2010)を晴耕雨読ならぬ晴耕雪読しています。文献表を入れて全220頁ほどの本。

 

James-dew

 

2023年12月26日 (火)

N. T. ライトの批判的実在論の由来 

 

クリスマス(降誕節)は年明けのエピファニーまで続くが、教会の一連の諸行事はひと段落した。恐らく、多くの同僚牧師さんたちもホッと一息ついていることだろう。イギリスでは今日はボクシング・デー(Boxing Day)だ。

Ntwrights-critical-realism-is-not-critic29971

大晦日の主日礼拝を控えるが、今週は多少時間的余裕があるので、画像の論文をじっくり読もう思っている。西オーストラリアにあるモーリング・カレッジのヴォーズ・キャンパス(Morling College, Vose Campus)で教鞭を執る Aaron Chidgzey(名字をどうカナ表記したらいいか分からない) による Subjugating Subjectivity: Why Wright's Critical Realism is Not Critical Enough と題された論文。"Journal for the Study of the Historical Jesus(JSHJ)" という神学雑誌の 2023年 21号に掲載された。要するに、N. T. ライトの神学方法論である批判的実在論(critical realism)の批判性は不徹底となかなか手厳しい。 

まずはざっと目を通したが、一つ興味深いことを発見した。それはライトが『新約聖書と神の民:キリスト教の起源と神の問題 1』上巻で、ライト流の批判的実在論の定義を行っているのだが、その由来が分からなかったのだ。その定義とは次のとおりである。

批判的実在論とは知る人以上の何か(すなわち「実在論」として)、知られるものの実在を了解しているような「知ること」のプロセスを記述している方法である。他方、この実在に対してわれわれが保持している接近法は、知る者と知られるものの間で適宜になされる対話や会話(すなわち「批判的」)というらせん状の道に沿って存在している、そのことを了解している方法でもある。この道は「実在」への探究が産み出したものへの批判的省察へと導いていくのであり、その結果、「実在」に関するわれわれの確信はそれ自身の暫定性を了解している。換言すれば、原理的に、知る人から独立の実在に関係して、知識は決してそれ自身が知る人から独立ではない。(この訳文は、A. E. マクグラス著 稲垣久和・岩田三枝子・小野寺一清 訳 『神の科学 科学的神学入門』 教文館 pp. 183-184 から拝借した。太字は同著のもの。) 

申し訳ないが、訳文より英語原文の方が意味が分かり易いので以下に記しておく。

(I propose a form of critical realism.)This is a way of describing the process of 'knowing' that acknowledges the reality of the thing known, as something other than the knower(hence 'realism'), while also fully acknowledging that the only access we have to this reality lies along the spiralling path of appropriate dialogue or conversation between the knower and the thing known(hence 'critical'). This path leads to critical reflection on the products of our enquiry into 'reality', so that our assertions about 'reality' acknowledge their own provisionality. Knowledge, in other words, although in principle concerning realities independent of the knower, is never itself independent of the knower.

 

Aaron Chidgzey によると、N. T. ライトによる批判的実在論の定義の由来は、カナダ出身のイエズス会(カトリック)の神学者バーナード・ロナガン(Bernard J. F. Lonergan, 1904ー1984)と、同じくカトリックの神学者ベン・F. マイヤー(Benjamin F. Meyer, 1927ー1995)らしい。特にマイヤーから大きな影響を受けたようで、Wikipedia にも "Meyer's works deeply influenced major scholars, such as Bruce Chilton, N. T. Wright, John P. Meier and Ben Witherington III." とある。マイヤーは、ロナガンの解釈学(即ち批判的実在論)のスペシャリストであった。

ロナガンとマイヤーの批判的実在論に関するそれぞれの代表的な著作を以下に紹介しておく。

Bernard Lonergan, Method in Theology(London: Darton, Longman & Todd, 1971)

Ben F. Meyer, Reality and illusion in New Testament Scholarship: A Primer in Critical Realist Hermeneutics(Minnesota: The Liturgical Press, 1994)

Porter-pittsN. T. ライトの批判的実在論がロナガンやマイヤーの大きな影響下にあることは近年、Jonathan Rowlands の論文('The Theological Lineage of N. T. Wright's Historical Method', Journal of Theological Interpretation 16:1(2022): 110-131)や、ライトの批判的実在論に批判的な論文(Stanley E. Porter and Andrew W. Pitts, 'Critical Realism in Context: N. T. Wright's Historical Method and Analytic Epistemology', JSHJ 13:2-3(2015)274-304.)で明らかにされている。(余談だが、上記論文の著者の一人、スタンリー・ポーターのギリシャ語中級文法の本が伊藤明生教授(TCU)の翻訳で刊行されている。) スコット・マックナイト(Scot McKnight, Jesus and His Death: Historiography, the Historical Jesus, and Atonement Theory, pp. 26-27)はベン・マイヤーの、ジェームズ・D. G. ダン(James D. G. Dunn, Jesus Remembered, pp. 110-111)はバーナード・ロナガンの批判的実在論からそれぞれ影響を受けている。

Aaron Chidgzey は、ライトの方法論を知る上で彼の『新約聖書と神の民:キリスト教の起源と神の問題 1』共に、ライトがオーストラリアの新約学者マイケル・バード(Michael F. Bird)と共著した The New Testament in its World: An Introduction to the History, Literature, and Theology of the First Christians(London: SPCK, 2019)が肝心と指摘する。彼の論文も実際、これら二つの著書を中心に検証している。論文の後半では、ライトの『新約聖書と神の民:キリスト教の起源と神の問題』原著第3巻である The Resurrection of the Son of God(London: SPCK, 2003)をケーススタディとして検証する。

アリスター・マクグラスの批判的実在論はロイ・バスカーのそれに大きく依拠するが、N. T. ライトは B. ロナガンやベン・マイヤーから影響を受けたようだ。

以上のように、英語圏では方法論の検証が盛んだ。これに比べると、日本でのライトの評価はまだ相当ビハインドしている感がある。評価とか批判は、まず、著者が表明した方法論に従って本論が忠実かつ効果的に展開されているかどうかを検証すべきなのだ。

 

2023年12月17日 (日)

辞めろと言われても 

 

ヒロさん(岡本裕明氏)のブログから。

岸田総理の心境。
西城秀樹の「激しい恋」の節で。

「♬ 辞めろと言われても…♬」by Fumio Kishida
辞めろと言われても、今では遅すぎた
激しい向かい風に 巻き込まれた最後さ
辞めろと言われても  一度決めた心
この身を引き裂くまで 首相にこがれてしがみつき

 

2023年12月15日 (金)

神学研究における批判的実在論の使用 

 

Photo_20231214230101医学書院から刊行されている看護専門雑誌『看護研究(The Japanese Journal of Nursing Research)』2022年3月-4月号(Vol. 55 No.2)。特集は「批判的実在論とは何か」。

批判的実在論の社会科学や自然科学(科学哲学)の分野での研究と展開は以前から知っていたが、医学や看護学の分野でも活発に研究されていることを知って驚いている。それに比べてキリスト教神学の分野での探究と展開はなんと遅々たるものか。。そもそも、Google で「神学 批判的実在論」と検索すると、本ブログ記事が上位に検索結果されること自体、神学の分野での情けない状況を反映している。本来なら、専門家による活発な研究成果で素人のブログ記事など埋没して然るべきなのだ。

3-2それにしても、『看護研究』誌の特集は読み応えがあったし、実際、多くのことを学ばせてもらった。特に特集冒頭の、木下康仁氏(聖路加国際大学大学院看護学研究科特命教授)による「批判的実在論と看護研究 科学と人間理解の新たな可能性へ」は、批判的実在論、特にロイ・バスカーの批判的実在論の入門として大変有益かつ有用だ。すべての神学学徒にもお勧めしたい。

本ブログで何度となく指摘してきたが、批判的実在論は N. T. ライトの神学方法論で採用されている(『新約聖書と神の民 上下巻:キリスト教の起源と神の問題 1』 新教出版社)。にもかかわらず、日本での N. T. ライト神学の評価で批判的実在論を神学方法論として真剣に取り上げた論文や書籍は(私の知る限り)皆無だ。換言すれば、山口希生著『ユダヤ人も異邦人もなく: パウロ研究の新潮流』(新教出版社)も、ネット上に公開されている日本長老教会による検証論文も、この点においてはすべて片手落ちと私には映る。(日本の福音派で、この分野を掘り下げられるのは科学哲学に造詣の深い新約学者・山﨑ランサム和彦師であると思う。山﨑ランサム師のような本当の専門家による参入を期待している。)

欧米の神学著作では、神学方法論(プロレゴメナ)に傾注し過ぎて「講義の前に聴衆がうんざりするほどうがいをするのは如何なものか」、つまり講義(本論)の前のうがい(方法論)の冗長さを皮肉られる傾向にある。しかし日本では逆に、方法論についての関心がむしろ薄過ぎると私などは感じるのだ。本論は確かに重要だが、方法論も同じく大事である。N. T. ライトの上掲書は、1巻(邦訳では上下の2巻)まるまるプロレゴメナなのだ。

数日前の投稿記事の「万有引力」の発見で言及したように、批判的実在論とは、実証主義(基礎付け主義)と解釈主義(反基礎付け主義)乗り越えて、経験的及び現実的事実とは違う種類の、しかも直接には観察不可能な「引力」という「超越論的実在(transcendental reality)」を捉えることだ。つまり、従来の神学方法論の単なる帰納法や演繹法では辿り着けない、遡及推論を通じて背景にある目に見えない構造を捉えることを目指す。

Murakami-harukiもしかすると、N. T. ライトには見えている超越論的実在が、従来の神学方法論に固執する者たち(私自身もそうかもしれない)には見えないのかもしれない。これで思い出すのが村上春樹著『1Q84 BOOK3 <10月 - 12月> 後編』の次の箇所だ。

やがて牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から少し離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。それは昔ながらの月よりはずっと小さく、苔が生えたような緑色で、かたちはいびつだった。でも間違いなく月だ。そんな大きな星はどこにも存在しない。人工衛星でもない。それはひとつの場所にじっと留まっている。

牛河はいったん目を閉じ、数秒間を置いて再び目を開けた。何かの錯覚に違いない。そんなものがそこにあるわけがないのだ。しかし何度目を閉じてまた目を開いても、新しい小振りな月はそこに浮かんでいた。雲がやってくるとその背後に隠されたが、通り過ぎるとまた同じ場所に現れた。
これが天吾の眺めていたものなのだ、と牛河は思った。(村上春樹 上掲書 新潮文庫 p.129) 

 

これを承けて佐藤 優氏はこう述べる。

青豆、天吾、深田らには月が2つ見える。これは1984年の世界には月はひとつしかないのに、1Q84年の世界には月が 2つあるということではない。実際に月がいくつあるかは、誰も知らないのである。日中、太陽が出ていると月は見えない。しかし、それは星がなくなってしまったということではない。星は昼も夜も輝いている。それがわれわれには見えないだけである。月ももしかしたら 2つ、あるいは 3つあるにもかかわらず、それが普通の人には見えていないだけかもしれない。(中略) 多数派にはひとつしか見えない月が、少数派には 2つ見える。こういう現象は現実に存在する。(佐藤 優 『読書の技法』  東洋経済新報社 pp. 229, 231)

因みに、1Q84年の世界は「パラレル・ワールド(1984年の世界と並列的に進行する世界)ではない」と、カルト集団「さきがけ」の教祖・深田保は言っている(村上春樹 上掲書 p. 10)。

神による被造世界の探究の一環である看護学において「人間理解の新たな可能性」に批判的実在論を真剣に取り上げるのであれば、神の啓示という実在を知る方法論においてキリスト教神学においても開拓があってよいのではないか。

関連記事

「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8章32節)

 

2023年12月12日 (火)

キリスト教対抗文化はどうなった? 

 

Christian-countercultureジョン・ストット師はかつて、自身の「山上の説教」講解の著書に「キリスト教対抗文化(Christian Counter-Culture)」の書名をつけた。そしてこう述べた。「長く波瀾に満ちた歴史を歩んできた教会の最大の悲劇は、キリスト教的対抗文化を発展させるどころかむしろ時代の通俗文化に絶えず追従する傾向にあったことであろう。("Probably the greatest tragedy of the church throughout its long and checkered history has been its constant tendency to confirm to the prevailing culture instead of developing a Christian counter-culture.")」

Photo_20231212001501対抗文化で思い出すのが、毎年この時期に受け取る「喪中につき年賀を失礼したい」という挨拶状である。今年もすでに何通か受け取った。それもクリスチャンの友人知人たちからなのだ。毎年、毎年、同じような挨拶状を受け取る中で「これはいったいどういうことなのか」と思うことしばしばである。出してくださった方には申し訳ないが、皆が皆、まるで判で押したような内容である。服喪(喪に服する)という慣習自体は普段の生活の中でほとんど無くなっている。が、年賀状を出すことは控えるということにおいてだけは、はっきり残っている。語弊があるかもしれないが、形骸化したこの社会的慣習こそ、ジョン・ストットが言うところの「時代の通俗文化」ではないのか。クリスチャンが果たして、その通俗文化に思考停止状態でただ追従するだけでよいのだろうか? 日本のクリスチャンや教会には「対抗文化」がないのだろうか。

この問題意識を共有するのが加藤常昭牧師である。マタイの福音書講解説教集の中で加藤師は次のような異議を申し立てる。少し長いが引用させていただく。ぜひこの説教集を購入して前後の文脈と共に読んでいただければと思う。

しかし、その喪中の挨拶の中に、多くのキリスト者、あるいは牧師の名前を見出します時に、私は正直申しまして、どこか心の中で疑問を抱いている自分を感じます。なぜなのだろうか。年賀というのは、新しい年を迎えて、皆が「おめでとう、おめでとう」と言って挨拶を交わし合うことです。そういう皆が「めでたい、めでたい」と言っている仲間に入るのには、自分の悲しみは大きすぎる。自分の親を失った悲しみ、自分の子を失った悲しみは大き過ぎるというのであろうか。あるいは、人びとが喜んでいる中に、死の影をあまりにもはっきり宿した自分が悲しげな顔をして立ち混じるということは、これは許されないことだというふうに考えるのであろうか。そこにはさまざまな説明が可能であろうと思います。

しかし私が心の中で問うのは、いったい信仰を与えられている人間が、喪中、それゆえに年賀欠礼、おめでとうとは言えません、と言うのは、どういう信仰の筋道によるのかということであります。そんなことは何も改まって考えることはないと言われるかもしれません。しかし、私はそうではないと思うのです。そういうところにも、私たちキリスト者が何を考え、何を知っているかということがよく現れてくのではないかと思うのです。一年の間喪に服さなければならない。悲しいことです。しかし、その悲しみの中に、いったい父なる神の祝福は、突き通ってこないのであろうか。悲しみを体験した人間は、神の祝福を語ってはいけないのか。「自分は、この年、こんなにも悲しいことを体験しました。しかし、まさにそこでこのような祝福を味わいました。このようにして慰められたのです。これは他のいかなる年にも勝って、今年こそ皆さんにお伝えしたいことなのです」。そう言って、自分が知った祝福を一人でも多くの人に分けようとすることを、なぜしてはいけないのでしょうか。

正月のこと、年賀のことは、これはどうでもよいことかもしれません。今、私どもはクリスマスを祝っています。そのクリスマスを祝う時にも、たとえば「自分は喪中だからクリスマスを祝う資格がない」とか、「クリスマスの喜びは自分にはない」ということが言えるのか。同じことです。(加藤常昭説教全集 6 「マタイの福音書 1」 ヨルダン社  pp. 48-50)

 

マタイは、福音書の2章冒頭で東方の博士たちの来訪を告げたそのすぐ後、13〜23節において、ヘロデ王がベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を皆殺しにした記事を記している。福音書記者が「悲しみのクリスマス」を語っているのだ。そうのような悲しみの中でこそ聞き取るべき、また聞くことができる神の祝福があるのではないか。悲しみの中へ入り込んできて、その悲しみそのものを喜びに変えてしまう、力ある喜びがクリスマスの喜びではないかと思う。そしてクリスマス(降誕節)は、年明けのエピファニー(公現日・顕現日)まで続くのだ。年賀状だってクリスマスの一環である。大切なのは、クリスマスが終わってその後にお正月が来るのではなく、大晦日も元旦も松の内も「降誕節(クリスマス)」の輝きの中に位置づけられるべきことだ。クリスマスは「年末の行事」ではない。(この点で、12月25日が終わるとそそくさとクリスマスの飾りを片付けてしまう日本の教会の習慣はどうかと思う。年明け 1月6日のエピファニーまでクリスマスツリーを片付けない対抗文化があってもよいと思うが。。)

私の父は、2014年に他界した。当時、私は三重県の教会の牧師だった。私は友人知人だけでなく、教会員にも年賀状を出した。そして加藤師が教えられたような、悲しみと喪失感を突き通すその年の神の恵みと祝福を年賀状で証しさせていただいた。キリスト教対抗文化は「先ず隗(かい)より始めよ」である。対抗文化は実践なのだ。


あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(新約聖書 ピリピ人への手紙 4章9節 「聖書 新改訳 2017」)

 

2023年12月 8日 (金)

「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8章32節)

 

キリスト教系出版社の原発関係の書籍を調べてみると、ほぼすべてが反原発または脱原発の内容だ。著者が誰で、書名は何かにいちいち言及すると角が立つのでここでは触れない。率直な印象は、最初から結論が決まっていること。最初から持っている結論(先入観)を事実で確認する手法はほぼ共通している。

原発をめぐる議論は往々にして不毛な罵り合いになる。原発推進派と反対派が各々の「宗教」で最初から結論が決まっているからだ。キリスト教界での議論は差し詰め「宗教の中の宗教」であろう。そもそも現在のキリスト教界にはネット上以外の公共の場での自由な議論の機会すらない。それはキリスト者や教会が創発していない、福音が社会・文化と真に創発したことによる自由がないからだ。

Photo_20231206173201イマヌエル・カントは、D. ヒュームの懐疑論に触発されて彼の『純粋理性批判』で認識のコペルニクス的転回を提唱した。素朴実在論が提唱するところの「認識は存在の反映」ではなく、むしろ「認識が存在を作り出す」とした。「物自体」は認識できないが、それがどのような状態で存在するかは人間の主観で決まるのだ。カントは認識のコペルニクス的転回によってニュートン力学の正当性を証明しようと試みた。

その主観的認識を決める思考形式をカントは「先験的カテゴリー」と読んだ。世界を理解するのに必要な条件はカテゴリーを共有することである。ニュートン力学が地球上のどこでも普遍的なのは、それを構成している空間・時間などのカテゴリーが普遍的だからだ。カントはその根拠を超越論的主観性と呼び、経験に先立つアプリオリ(先験的)なものと考えた。こうしてみるとカントの哲学は観念論というより、今でいう科学哲学を目指したものであった。

この「存在は意識(認識)によって作られる」というカント以来の近代哲学の常識は日常でも観察される。例えば、新型コロナの感染拡大時によく「コロナで経済が止まる」とマスコミが騒いだが、コロナウイルスを直に見た人はいない(医学的には専門家ですら従来型コロナ(風邪)と新型コロナの「差異」が認められるというのがせいぜいだ)。コロナウイルスの存在(つまり脅威)は、実際には人々の意識(認識)によって作り出されていたのだ。意識が存在(コロナウイルス)を作り出した状態を「コロナ脳」と言うのだ。従って、コロナで経済が止まるのではなく、コロナ脳で経済は止まったのである。処方は簡単で、コロナウイルスはあなたの脳内(意識)にしか存在しないのだから、それを忘れればコロナは消える。もちろんこれは一種のジョークだが、真面目に考えてもらいたいジョークでもある。

原発に関連する放射能ならぬ「放射脳」も基本的には同じだ。反原発派を揶揄したりバカにした言い方なのではなく、近代哲学の常識を醒めた目で見てみようということなのだ。

 

ご承知のようにカントの認識論には問題がある。なぜなら彼の言う認識の普遍性の根拠とは、単にカテゴリーの普遍性に置き換えられただけだからだ。実際、ヒュームはそのカテゴリーの普遍性すら懐疑した。カントによるニュートン力学の正当性とは「太陽があすも昇るという先験的主観性があるから昇る」という循環論法だった。

世界が存在することは自明だが、カント以来の近代哲学はこれを証明できない。カントは「物自体」の存在を前提しただけでその証明を放棄し、ヘーゲル以降は存在を「括弧に入れて」そのありようを論じるのが哲学の仕事になった。その後 20世紀初頭には「言語論的転回」のムーブメントが起こり、「意識」を主題とする哲学から、「言語」の分析を中心に据える哲学へと変貌した。言語論的転回は超越的な存在を否定する傾向がある故にポストモダンへと行き着いた。

この潮流からするとカント哲学は時代遅れと思うかもしれないが、形式(カテゴリー)が内容に先行するという洞察(コペルニクス的転回)は依然重要だ。トーマス・クーンは自身の思想を「歴史的カント主義」とし、科学理論にとって重要なのは内容より形式(パラダイム)と主張した。当初は科学の客観性を否定するものとして反発を受けたが、今日ではパラダイムの概念は常識だ。

 

近代哲学の基礎付け主義による実証主義または論理実証主義も、言語的転回による反基礎付け主義の解釈主義(ポストモダニズム・ポスト構造主義)も、存在の自明性を証明できない。多くの人にとって物が落下する万有引力の存在は自明である。リンゴが木から落ちることは直接観察できるが、こうした経験データを積み重ねても(リンゴの落下を何回観察しても)、それだけでは万有引力という実在の領域に辿り着くことはできない。同様に、風や木の状態などが実際にどのように作用してリンゴ を落としているのかはその時々で異なるため、こうした 現実の領域にある情報を集積したとしても、必ずしも実在レベルの知見を得られるわけではない。

ロイ・バスカー流に言うなら、観察という直接データを集積できる経験の領域(empirical)だけでなく、りんごの落下をもたらす多様な変化(風や木の状態 etc)は観察データからは把握できない別の領域(現実の領域 actual)にあり、その背後にあるそれら経験的及び現実的事実とは違う種類の、しかも直接には観察不可能な「引力」という作用を想定する仮説的な思惟は更に異なるレベル(実在の領域 real)にある。実在の領域にある構造には、経験の領域における知を集積・分析しただけではたどり着けない。批判的実在論が要請される所以である。帰納的・演繹的な推論ではなく、結果から原因へ遡及する「遡及推論(リトロダクション retroduction)」または「アブダクション(abduction)」と呼ばれる推論が重視される。批判的実在論は、遡及推論を通じて背景にある目に見えない構造を捉えることを目指すのだ。存在論が認識論に先行するが、存在は先験的(アプリオリ)に決定づけられているのではなく、観察者(行為者)は実在を知って行く程度に応じて(階層化された実在を)多元的な仕方で認識して行く。

それにしても「遡及推論を通じて背景にある目に見えない構造を捉える」ことは、マイケル・ポランニーが言うところの「暗黙知」、即ち人間の認識の基礎に非言語的コミュニケーションがあることに通じる。言語論的転回のドグマは「意識は言語で構造化される(意味に先行する記号)」であったが、暗黙知はそれを逆転し、意味は身体と事物の衝突から生まれる「創発(emergence)」だと言う。つまり複雑系だ。「複雑」とは各要素が渾然一体となった結果、要素という下位レベルが持ち得なかった特徴を有する状態である。このある要素を集めた複合体が新しい性質をうみだすことを「創発(emergence)」と呼ぶ。要素に還元すれば、その特質が失われてしまう。よって、還元主義の否定を意味する。「全体は部分の総和以上のもの」であるからだ。この創発するシステムを「複雑系」と呼ぶ。従って、創発と批判的実在論(実在の階層構造と階層間の還元主義の否定)は密接な関係にある。

さてここで、アラスデア・マッキンタイアの「伝統に媒介された合理性(tradition-mediated rationality)」の概念が問う「伝統Aがその歴史において十分に答えることができなかった問題を伝統Bが答えることができる、と伝統Aは認識できるか(Can tradition A recognize that tradition B is able to answer a question that tradition A has been unable to answer satisfactorily in its own history? )」の問題提起である。伝統Aと接触した伝統Bが、その本質を変えることなく「伝統B'」と創発して行くことで伝統Aの中で認知される。伝統Aとは日本の文化であり社会、伝統Bはキリスト教の福音(キリスト教的伝統)である。

創発した「伝統B'」 は、日本社会やキリスト教界内の観念論に対しても適切に応答できると思う。「脱原発が国を守る(ゼロリスク)」という理想としての観念を否定はしないが、「リスク・トレードオフ」を議論する "自由" も保証する。「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8章32節)。イエス・キリストは宗教的真理そのものであり、同じ真理によって宇宙も世界も人間も創造された。私たちは、一方では真理によって精神が解放されて自由になるという面があるばかりでなく、他方では私たちが真理を探究するためには言論と思考と表現の自由が必要であり、自由闊達な議論の中から真理に到達するという面もある。公共の場における自由な議論の結果、場合によっては観念が修正されるかもしれない。「原発に断固反対」という自由の選択は尊重されるべきだが、「反原発がクリスチャンだ」との主張は観念論のドグマだ。創発したキリスト教伝統の必要を感じる。反原発/脱原発一辺倒のキリスト教系出版社にも考えていただきたい課題である。

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2023年12月 5日 (火)

アドベントの不可抗的恩寵(Irresistible Grace) 

 

今週はアドベント(待降節)第一週。ろうそくが灯され、クリスマスの輝きの中に招き入れられたことを実感。礼拝説教ではルカの福音書1章の「マリアの賛歌(マグニフィカート)」を取り上げた。

Photo_20231205020801御使い(天使)ガブリエルならぬガブリヨリ。ところで誰が作画したのか分からないが(以前にSNS上で発見)、この絵には爆笑させられるとともに、説教に多大なインスピレーションをいただいた。作者の方には感謝申し上げたい。青森県は大相撲力士の出身県として全国の上位にランクインする。会衆に天使ガブリヨリは大いに受けた。

大相撲のがぶり寄りとは、相手の廻しを自分の方へ引き付けて腰を上下に揺り動かし揺さぶりながら土俵外へと前進する技のこと。通常の寄りに腰の上下が加わり、相手の重心を崩す技と言える。元大関・琴奨菊(昨年10月に引退)の得意技として知られている。

福音書での天使ガブリエルとマリアのやり取りに関して、多くの注解書や説教ではマリアの側の信仰に焦点が当てられ、それを賞讃する傾向が見られる。しかしどうだろうか、見方を変えれば、むしろガブリエルによる怒濤のがぶり寄りがマリアを押し切ったようにも見える。正確には、ガブリエルを介した神の圧倒的な恵みがマリアをがぶり寄ったのだ。マリアはそれに抗せなかった。

ここで思い出すのがカルヴァン主義の教理の一つ「不可抗的恩寵(Irresistible Grace)」である。一般にこの教理はアルミニウス主義の「先行的恩寵」の教理の対立軸として理解されている。即ち、人間が先行的恩寵に抵抗してキリストを拒むことができる可抗的な恵みであるのに対し、不可抗的恩寵の教理は神が選ばれた人に与えられる救いの恵みは生来の人間が持つ抵抗を克服する効力があるため、人はその恵みに抵抗できない。つまりカルヴァン主義では「神に選ばれた人は救いの恵みを拒否することはできない」と教えていることになる。恵みに働く効力とはもちろん聖霊によるみわざである。

不可抗的恩寵の教理は、罪人(未信者)の救いにおける聖霊の超自然的な働きに関してではあるが(エペソ書 2章5節)、同時に、聖霊による信者への召命(有効召命)にも適用し得ると言われる(e.g. ヨハネの福音書6章37-40節)。その意味で、天使ガブリエルによるがぶり寄り(神の選びに基づく恵みの効力)にマリアは抗し切れなかったとの解釈の根拠を不可抗的恩寵に認めるのはあながち的外れではなかろう。


しかし不可抗的恩寵の教理の本質は、人が神の選びに基づく恵みに抵抗できるか否かの点にあるのではなく(実際、人間は神の恵みや聖霊の働きに抵抗する)、神の恵みには人間が持つ神に対する敵意や福音に対する抵抗を克服する力があるのかどうかという点である。つまり論点は飽くまで「恵みの有効性」であり、これを切り離して「人間は神の恵みに抵抗できるかできないか」を議論しても意味はない。

大相撲の「がぶり寄り」で誤解してはならないのは、これは決まり手ではないということだ。飽くまで土俵上の技の一つである。実際「決まり手八十二手」の中にがぶり寄りはない。同様に、ガブリエルは恵みのがぶり寄りでマリアを揺さぶったが、決まり手はマリアの信仰だったと言えるかもしれない。だがこれを「神人協同説」のように語るつもりはない。なぜなら信じる信仰を含むすべてが神の恵みによる行為であるからだ。

不可抗的恩寵の教理の肝とは従って、神は主権者であること、そしてご自分が望まれる時にはあらゆる抵抗を克服することができるという聖書の教えである。霊的再生と信仰は切り離すことができない。

その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。

その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。

地に住むものはみな、無きものと見なされる。この方は、天の軍勢にも、地に住むものにも、みこころのままに報いる。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もない。 (ダニエル書 4章34ー35節 「聖書 新改訳 2107」)

 

マリアはガブリエルによるがぶり寄りで神の恵みの大きさに圧倒されたことであろう。彼女の賛歌マグニフィカート(私のたましいは主をあがめる)とはまことに相応しい応答であると思う。あがめる(大きくする、拡大する)とは「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。」(ルカの福音書 1章49節)への応答だ。天使ガブリエルを介した神の不可抗的恩寵を見るのは穿ち過ぎた解釈だろうか?

 

2023年11月30日 (木)

アミリャ〜ト放談(名古屋弁)

 

金鳥(大日本除虫菊株式会社)「アミライト」のCM。

私の母方の実家は何代も続く生粋の名古屋人。私も今から60年前の3月に名古屋市緑区鳴海で生まれた。物心つく頃から11歳になるまで父の転勤の関係で名古屋以外の土地で暮らしたが、母の帰省で緑区大高の実家に戻ると名古屋弁を話す親族やご近所さんが大勢いた。まさにこの金鳥のCM(特にご近所編)の世界だった。11歳(小6)から名古屋暮らしが始まったが、違和感は全然なかった。十分に名古屋弁の免疫がついていたからだ。母も、このCMのおばちゃんたちほどなまってはいなかったが、「●●だがね〜」の語尾は十分に名古屋弁だった。

アミライト放談(ご近所編)

 

アミライト放談(戦国尾張編)

2023年11月28日 (火)

神学パラダイムの通約(共約)不可能性

 

日本での N. T. ライト論争は日が浅いからネット上でも神学界でも喧しい。別に威張るわけではないが、30年近く前のイギリス留学時代から英語圏での論争に接してきた身としては、特にライト批判を展開する方々については「やるだけムダ」と思うのだ。英語圏の福音派ではすでに各々の陣営(キャンプ)は棲み分けている。例えば福音派がどれだけバルトを批判しても、バルト神学を信奉するクリスチャンや教会教派が決して絶えないように、どれほどライトを批判してもその追随者を駆逐することは不可能であろう。それは神学パラダイムの通約(共約)不可能性による。

独断による "のらくら者史観" であるが、キリスト教として絶対に誤ることが許されない重要教理については、神の摂理により、教会公会議の場で正統と異端の問題は決着をみた。三位一体やキリストの二性一人格などの教理である。しかし東西教会の分裂後は、正統と異端の問題は基本的にパラダイムが競合する「通約不可能性(incommensurability)」の問題となり、勝敗は客観的真理への距離(論理的整合性)ではなく、いかに信者間で多くフレームを共有するかの勝負になった。11世紀のフィリオクエ論争は決着を見ず、東西教会は未だ分裂したままである。見方を変えるなら、双方がフレームを共有する信者を多数囲っていることの証左だ。

教会公会議が公認した教理が国際規格としての ISO や JIS などとしたら(デジュリ・スタンダード(de jure standard)」) 、義認論(西方教会)も神化の教理(東方教会)もバルト神学も N. T. ライト神学もデファクト・スタンダード(de facto standard)」、つまり市場における競争で広く採用された「結果として事実上標準化した基準」なのだ。国際規格によって決められた規格ではなく、プラットフォーム競争において顧客(信徒)とフレームを共有する言語ゲームで競争優位に立った結果、標準化した基準である。インターネットの通信規格である TCP/IP やキーボード配列の QWERTY、古くは家庭用ビデオ規格のVHSなどはデファクト・スタンダードである。

パラダイム(フレーム)が競合する通約不可能性においては、相手を論理で言いくるめるだけでは顧客(信徒)を囲うことはできない。

ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人をみたので、やめさせようとしました。その人たちが私たちについて来なかったからです。

しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。

わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。

マルコの福音書 9章38ー40節(「聖書 新改訳 2017」)

 

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正統と異端の新しい局面

 

2023年11月22日 (水)

MT車こそ高齢者のためのクルマ 

 

初めに近況を少し。教会堂に隣接した牧師館の老朽化と隣家への落雪対策で来週から取り壊しが始まる。それで一昨日、牧師館(教会)から50mほどの賃貸物件に引っ越した。2017年から今年の6年間に今回を含め計4回の引越の荷造りを経験した。毎度大変なのが蔵書の箱詰め(妻がひたすらやってくれた)。ロンドンに赴任する際に蔵書の約半分を処分したが、それでも依然6畳分の部屋が段ボール箱で占拠される量。新居は 3LDKの間取りだが(やはり青森は賃料が名古屋に比べ安い)、1部屋は完全な物置となっている。もう還暦になったので、これから思い切った断捨離を実行せねばと思っている。

 

さてタイトルの話題に戻る。

最近のニュースだが、スズキがワゴンRの5速マニュアル仕様を復活させた。併せて、しばらく中断されていたスイフトスポーツのマニュアル車(MT車)の販売が再開された。中断されていたのはマニュアル車にも自動ブレーキやクルーズコントロール等の安全装備を付加するためだった。いずれにしてもマニュアル車の復活を喜びたい。ワゴンRと同じスズキの軽自動車アルトにも今後マニュアル仕様が追加されるかもしれない。

但し、車両価格はオートマ車(AT車)とほぼ同じ。一昔前はAT車の方が割高だったが、今やMT車は絶滅危惧種。だから立場が逆転してしまった。メーカーからすれば「作ってやるだけ有難く思え(=価格の文句を言うな)」ということなのだろう。時代の趨勢なので仕方がない。しかし私はMT車の復権を願っている。特に高齢ドライバーによるAT車での交通事故が社会問題化している昨今、MT車こそ高齢者のためのクルマと信じるからだ。


ご存知のように MT車は左足によるクラッチペダルと左手のシフト操作が必要。これは老化による衰えを判断する一種のテストになる。某モータージャーナリストは「高齢者はマニュアルを運転できなくなるほど身体の機能が落ちたならクルマを降りるべきだと思ってます。クラッチを操作できないくらい筋力落ちたら危ない」と述べている。つまりMT車であれば、免許返納のタイミングをより客観的に判断できるのだ。

Colt-ralliart-versrそもそもMT車は両手両足を使って運転するから老化防止になる。また発進時でも逆進時(バック)でも必ず半クラッチ操作(右足のアクセルペダルと左足のクラッチペダルの同時操作)が必要なのでアクセルとブレーキの踏み間違いも起こらない。クラッチでペダルの位置をアジャストできるからだ。エンジン始動時も以前のMT車、例えば個人的に乗っていた1989年製トヨタ MR2(AW11)などはギアが入ったままでエンジン始動すると動き出す欠点があったが、現在の愛車(2008年製の三菱コルト・ラリーアートVersion-R スペシャル 画像参照)はクラッチペダルを踏まないと(つまりクラッチを切らないと)エンジンはかからない。より安全になった。また上記のスズキ車のように、MT車にも自動ブレーキ等のフェールセーフ機能が追加されれば更に安全となろう。

だが MT車でも過信は禁物。なぜなら両手両足の操作は脳の「無意識」の領域によって可能となっている面もあるからだ。無意識の領域とは要するに「慣れ」のことだ。慣れには油断が生じる。だから過信は禁物。しかしAT車の操作に比べれば油断の確率はぐっと下がると思う。

音楽再生の分野でも CD等のデジタル一辺倒からレコードのアナログが見直されている。クルマもアナログ回帰があってよいのでは? 私も還暦に達して身体の衰えを実感している。高齢者にはアナログが向いているとますます感じる。末永くクルマの運転を楽しむため、また他方で免許返納のタイミングをより客観的に判断するため、MT車こそ高齢者のクルマと私は思うのだ。

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MT車の復権を願う

 

2023年11月14日 (火)

ハマス・イスラエル戦争 雑感 

 

Wikipedia では「2023年 パレスチナ・イスラエル戦争」との見出しになっているが、イスラエルは国連が承認したパレスチナ暫定自治政府と戦争しているわけではない。イスラエルの敵は飽くまでハマスというテロ組織だ。ガザ地区を実効支配し、住民を人間の盾とすることなど何とも思わない連中である。「戦争」とは国家間の武力紛争のことなので、ハマス・イスラエル戦争と表記するのも本来はおかしい。

ここに来て日本を含む国際世論は、当初のハマスによる奇襲とイスラエル人犠牲者及び捕虜たちのことを忘れて反イスラエルに傾きつつあるが、イスラエルは地上侵攻の手を緩めることはないと思う。それにしても国際世論とはトンチンカンだ。イスラエルに対してならともかく、ハマスの側にも「人道措置」を求めるなど、意味論的に辻褄が合わない。"正義の味方の悪漢" や "黒い白馬" などは意味論的に成立しない。同様に、ハマスはテロ組織だ。テロリストとは無差別殺戮も厭わない人間のことだ。そんな集団に何の人道措置を期待できると言うのか? 

イスラエルがガザ攻撃を直ちに中止する方法がある。国連安保理が「国連軍がガザに介入して人質を全て解放し、ハマスの幹部を逮捕して国際裁判にかける」とイスラエルに保証すればよいのだ。しかしそんなことを安保理が決議するわけがないから(無責任な国連が火中の栗を拾うようなことはしない)、イスラエルは自分たちでやるしかないと考えている。

最大の戦犯は、ヤセル・アラファトPLO議長(当時)だと私は思っている。1993年の「オスロ合意」の後がパレスチナ国家を建国する最大のチャンスだった。イスラエルのイツハク・ラビン首相の和平に賭ける意気込みは本気だった。だから彼は同胞の極右(和平反対派)の青年に暗殺された。対してアラファト議長の平和ポーズは自分の地位や資産を守るのに汲々とするためであった(アラファトが秘密裏に管理してきたとされる「パレスチナ資産」は総額40億〜60億ドルにのぼり、個人資産は4452億円あったとされている)。当時、それでもアラファト議長しかパレスチナ人諸派をまとめるカリスマはいなかったが、彼はパレスチナ人のための国家樹立に奔走し命を賭ける気などさらさら無かった。国家間による和平の千載一遇のチャンスを逃してしまった。パレスチナが国家になっていれば軍隊や警察力を持ち、テロリストたちにみすみす領土を実効支配されるようなこともなかったろう。

当事者のパレスチナ人、そして大国や国際社会の無責任の押しつけ合いが現在に至っている。むやみにイスラエルの肩を持つ気などないが、無知と偏見に基づく反イスラエルの風潮にはひとこと述べておきたいと思う。

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"イスラエル vs パレスチナ" ではない

アイアンドームの実力

 

2023年11月10日 (金)

米大統領選がブリンケン vs. ニッキー・ヘイリーになったらおもしろい

 

と思うのは私だけ?

 

老人同士の大統領選などまっぴらごめん!

 

2024年1月20日 記

その後、ニッキー・ヘイリーの歴史認識(というより見識)には失望した。トランプ氏がアイオワの党員集会で圧勝。共和党候補は事実上決まった。アメリカはどうなってしまったのか。

 

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2023年11月 7日 (火)

地方の問題 負の無限ループ

 

青森に来て 2年が過ぎた。以前に三重県津市で 11年暮らしたことがある。子ども時代や青年時代は別として、いわゆる地方での生活もそれなりの年数になる。

青森でも、三重でも、地方の暮らしで思わされることは「日本の縮図の縮図」ということ。大都市圏が日本の縮図なら、地方はまたその縮図ということだ。

縮図の縮図で最も感じる問題、それは「自分より優れた人間が許せない」という感覚の強度だ。この感覚は日本人全般に広く見られるが、地方では更に根強く凝縮された形で現れる。一種のどす黒い嫉妬であり、足の引っ張り合いだ。キリスト教会の文脈で言うなら、また有り体に言うなら、地方の教会に優秀な牧師は不向きということ。必ず足を引っ張られる。

この足の引っ張り合いがもたらす結果は「皆で貧しくなろう」である。これも現代の日本人全般に見られる傾向だが、地方では更に拍車がかかる。たちが悪いのは、この「皆で貧しくなろう」の結果が「自分より優れた人間が許せない」の感覚を更に助長することだ。つまり一種の無限ループである。やる気のある人、優秀な人ならこの無限ループに絶対ウンザリすることだろう。唯一、地元出身の優秀な人であれば故郷への愛着で踏ん張れるかもしれない。が、よそから来た大都市圏出身者には耐えがたいと思う。

地方が貧しいのは、上記の2つのドライビング・フォースによる。私はそう断言できる。最近の日本伝道会議は、地方での福音宣教の課題をプレナリー・セッションとして真面目に取り上げようとしない。大都市圏のキリスト教会ですらこの無限ループによる閉店セールを延々続けているからかもしれない。地方はその縮図である。

繰り返すが、地方の教会に優秀な牧師は不向きだ。がしかし、優秀な人が来なければ無限ループは断ち切られず状況はもっと悪くなる。問われるのは召命感である。

 

2023年11月 3日 (金)

人気者がそんなにいいか 

 

人気者とは、即ち、普通の人ということ。なぜなら一般人がその考えを理解できるから。人気者が「えっ」と驚く発言をすれば大炎上して人気は落ちる。だから人気者は無難なことしか言わない。フォロワーが多いとはつまり普通過ぎるという意味。

キリスト教界の文書伝道(出版)にも人気者たちがいる。福音派の某出版社はマーケティングに基づいてその時代その時代の人気者(著者)を仕立てる。そしてそれは時代ごとに変わる。だから 20年以上価値の続くロングセラーは滅多に生まれない。

人気者に対して「変な人」の発言は賛否両論。下手をしたら炎上するため、ポピュラーにならない。変な人の代表格は、例えば、故スティーヴ・ジョブズやイーロン・マスク。日本人では誰だろうか(ご想像にお任せする)。「変な人」とは社会の一般許容枠からはみ出るが、そのはみ出し方に妙な説得力がある人たち。「妙な説得力」は一部の人たちにしか分からないが、一部の人たちは時代を跨ぐ。

辻 宣道著『教会生活の処方箋』(日本キリスト教団出版局)は別名「辻斬りの書」と呼ばれるが、1981年の初版から今日まで20刷り以上の重版出来を重ねている。

因みに「変な人」を日本語で "ユニークな人" と言うが、英語のユニークの元々の意味は「唯一無比(の)」。どうせ世に問うならユニークな書に限る。

Kyoukai-seikatsu

 

2023年10月31日 (火)

間テキスト性(インターテクスチュアリティー)

 

今から13年前に書いた記事を、少し修正し補足した形で再掲載する。ようやく最近、リチャード・B. ヘイズ著『パウロ書簡にこだまする聖典の声:パウロは「旧約」聖書をどう読んだか』をひととおり読み終えた(関連記事 →「投稿はもうしばらくお休みします。」)。多くの示唆に富んだ有益な書であることは間違いないが、著者の《間テキスト(テクスト)性》への依拠とそれによる旧新約聖書間の解釈については留保事項もある(特にp.264ー271の著者の纏めと本書第2章 p.65ー134での実践を参照)。ヘイズの間テキスト性の理論と実践は大変高度なレベルであるが、以下では一つの極端な例を紹介する。ところで最近のクリスチャンたちの中ではアレゴリー(寓喩)とアレゴリカル(寓喩的)と予型論(タイポロジー)の解釈の区別はできているだろうか? 榊原康夫著『聖書読解術』(いのちのことば社)で復習しよう。

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Fukuin-to-sekai新教出版社から刊行されている『福音と世界』3月号に、ある牧師(女性)が寄稿された説教があった。「食卓から落ちるパン」と題された、士師記19章1ー30節とマタイによる福音書15章21ー28節をテキストとした説教で、「聖書の中の女性たち」というシリーズ内の説教のようだ。説教を一読した印象は、「これは典型的な【間(かん)テキスト性(intertextuality)】の説教」だった。

近代言語学の知見とは、今や公理ともなっている言語研究における「共時性」の優先性のことだ。近代言語学の分水嶺は、スイスの言語学者フェルディナント・ド・ソシュール(1857ー1913)の提唱した「構造主義言語学」であると言われている。詳細は省くが、ソシュールの貢献には次の事柄がある。

1)言語の恣意性
言語と意味、特に単語(記号)とその指し示す対象物(指示対象)との関係は恣意的なものであって、論理的必然性はない。(日本語で犬のことは「イヌ」であるが、それは「イヌ」それ自体に犬という意味があるのではなく、意味「犬」と単語「イヌ」との関係は恣意的である。<意味>と<指示対象>との区別は重要で、「イヌ」の指示対象とは、実在する「犬」という動物のことであり、「犬」と「イヌ」を結びつけているのは、日本語使用者間での合意という慣習以外の何ものでもない。ソシュールにとって大事なことはむしろ、「イヌ」と「ネコ」、「ニワトリ」との<差異>である。このような記号の総体を【言語】と理解した。

2)言語の相互依存性
言語とは、相互に依存している体系である。単語の意味とは、類義語との相違や反意語の特定によって明らかとなる。

言語の恣意性と相互依存性の主張は、必然的に言語における通時的(歴史)的研究よりも、共時的研究の方が重視されることになる。ソシュール以降、言語の研究において、時間の流れの中ではなく一つの時点における言語の構造と体系(横軸)を記述する「共時的研究」と、時間の流れという縦軸での変化を扱う「通時的研究」とが区別され、前者の優先性が一つの公理となってきた。この共時的研究の優先性は、いわゆる「歴史的」批評学での文学前史や発生史な通時的拘泥に対し、聖書釈義や聖書解釈における「あるがままのテキスト」から出発する構造主義的研究となり、健全な神学の構築に大きく貢献することとなった。

しかし他方で、「歴史性」と「通時性」が混同され、共時的研究において歴史的「変化」(=通時性)を扱わないことが、テキスト自体の持つ時間的・空間的脈絡(歴史性)を排除することとはき違えられるようにもなった。(津村俊夫師は、「・・通時的「変化」は、時空における現実の歴史とは異なる。例えば、語源研究は、語の歴史(=通時的変化)を扱うが、その語の使用者の置かれていた時空的脈絡を扱わない。」と述べている。伝統的な歴史批評学の「歴史」(=通時性)と、時間的・空間的な歴史性との区別が不明確になっている訳だ。) 行き過ぎた構造主義はやがてポストモダン的「脱構築」へと至り、共時性イコール反歴史性という風潮となって、「今や、《共時性=反通時性》という図式が、反歴史主義という「ポストモダン」の思想と相まって、テキストの持つ時空的脈絡ー歴史性ーに対する不可知論を助長している感がある」(津村俊夫 『ポストモダンの聖書解釈』 「福音主義神学」 第30号 p. 24)。それゆえ行き過ぎた共時性が、「あるがままのテキスト」の表現レベル(文学構造や修辞・文体)にのみ集中し、テキストとそれを生み出した「著者」の歴史性(時空性)に無関心となる新たな文芸批評を生み出すことになった。【間テキスト性(インターテクスチュアリティー)】 とは、この新しい文芸批評の延長線上に生まれたポストモダン的聖書解釈のことだ。

間テキスト性について、津村俊夫師は次のように説明されている。

複数のテキスト間の関係を扱う「インターテクスチュアリティー」の考え方は、宗教改革以来の「聖書を聖書で解釈する」という原則とは似て非なるものである。例えば、予型論的解釈は、過去の歴史的出来事を「型」として現在/将来のことを説明する方法であるが、インターテクスチュアリティーは、どちらの情報が時間的に先行しているかを問うことをしない。聖書の他の箇所の引用(quotation)や言及(allusion)も、新約の旧約引用やサムエル記における出エジプトへの言及の場合のように、明らかにそれより以前の事柄や情報に関するものである。これら、言及とインターテクスチュアリティーは多くの学者によって混同されていると、ソマー(Sonmer 1996)は指摘する。言及(allusion)は、二つのうちどちらが先行しているかを問題にする「通時的」な現象である。それは、限られた数のテキスト間の特定の繋がりを問題にし、著者/テキスト/読者の関係に注意を払う。(中略) 他方、インターテクスチュアリティーは、終始「共時的」で、「あるがままのテキスト」への関心があるだけで、背後にどういう資料があったかということなどは問題にしない。そこでは、「いかなるテキストも、単独のものとして存在するようになったのでもなく、そのようなものとして聴かれることもない。全てのテキストは、複数のテキストからなるネットワークの構成要素(網のひも)である。」 インターテクスチュアリティーは、この複数のテキスト間の多様な結合関係や、テキストとそれが存在している文化にありふれた表現との間の繋がりに焦点を当てる。(中略) しかし、これらのテキスト間の繋がりの度合いがどれほどまでのものとするかは、読み手の判断に委ねられる。   (津村俊夫 『ポストモダンの聖書解釈』 「福音主義神学」 第30号、1999年 pp. 26-27)

 

『福音と世界』3月号に掲載された「食卓から落ちるパン」と題した説教は、士師記19章1ー30節とマタイによる福音書15章21ー28節間の「間テキスト性(インターテクスチュアリティー)」の説教であろう。そこでは、士師記19章に登場する「悲惨で、衝撃的で、痛ましく、残酷」(著者のことばによる)な最期を遂げた女性の「無念の復讐」と、「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」(マタイ 15章25節)のカナン人女性の思いとが 《唐突に》 結びつけられる。そこでは「(パンを)ちぎる」という言葉と士師記19:29 の「切り離し」が結びつけられ、「パン屑」と「切り離された側女の体」が結びつけられる。その後、この牧師は、切り離された女の体とパン屑、更に聖餐式のパンと主イエスのからだを次々結びつけて行くのだが、「(聖餐式において裂くパンの)このパン屑こそ、彼女の裂かれた体です」と語るに及んでは、もはや健全な聖書解釈を逸脱していると言わざるを得ない。そういえば同じ号には、(非受洗者にも開かれた聖餐式を行っている)北村慈郎牧師の日本基督教団教師委員会による「免職」戒規執行の事件が報じられている。この出来事を「統制色を強める日本基督教団」と銘打って報じる仕方に、新教出版社編集部の姿勢が現れているように思われる。上記牧師の「間テキスト性」説教も、「開かれた聖餐式」に通じることはほぼ間違いないであろう。しかし、このようなポストモダン的聖書解釈が、聖餐を「安価な恵み」(ボンヘッファーの言葉。アリスター・マクグラス著『聖餐 ーその歴史と実践ー』を参照)へと変質させてしまわないだろうか。

神学的・解釈学的には、この牧師の、ある種フェミニスト神学的な思想前提によるテキストの再解釈と診断することができようが、釈義的にはしかし、文脈の全く異なるこれら二つのテキスト間において、とにかく何らかの相互関係を見出そうとするこのアプローチは、安易な「連想ゲーム」に堕する危険性がある。先に述べたように、共時性が、テキストの持つ時空的歴史性の排除であってはならない。そのためには、テキスト(本文)のコンテキスト(文脈)のスパンを、必要以上に広くとらない、拡大しないことが肝心である。また、聖書の独自性とは、言語の表現形式にではなく、その内容にこそあることを認識しなければならないであろう。聖書テキストは、ポストモダン的脱構築の「閉じた記号体系」ではなく、著者の「同時代」資料から得られる文化的・言語的情報が無視されるべきではない。

「間テキスト性」解釈学と、パソコンの技術革新との関係も見過ごせない。それは「検索機能」の充実によって、コンコルダンス能力が飛躍的に発展した結果、今までは不可能であったテキスト間の言語的関連性が検索できるようになったからである。その意味で、この解釈法はテクノロジーの徒花(あだばな)と言えるのかもしれない。

Francis-watson個人的には、一般信徒も読者に持つ『福音と世界』のような雑誌に、「間テキスト性(インターテクスチュアリティ−)」の説教が堂々と掲載されていることに少々驚いた。というのも、このような説教ではあっても、感情的・情緒的には訴えてくるものがあるからだ。そこに横たわる解釈上の問題を見抜くことはなかなか容易ではない。著者/テキスト/読者の関係について、注意深い学びが必要であることを思わされた次第。画像のフランシス・ワトソンによる著作は有益な視点を与えてくれる。おすすめしておく。

 

2023年10月25日 (水)

言っちゃいけないことはたいてい正しい 日本伝道会議について 

 

「言っちゃいけないことはたいてい正しい」。成田悠輔氏の『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(SB 新書 2022年刊)の本の帯にあった言葉だ。氏はその後、発言の揚げ足を取られてマスメディアから姿を消した(ネットでは健在)。もともと大変優秀な人だから、学者の本分に戻るきっかけができてむしろ良かったと私は思っている。

 

さて日本伝道会議についても「言っちゃいけないことはたいてい正しい」。

駆け出しのKGK主事だった頃、新人研修を兼ねて先輩主事と一緒に某牧師を訪ねたことがあった。主事会の大先輩にあたる方だ。戦後福音派の枠組みを作った功労者のお一人であり、牧師として引退が近かったその当時も JEA(日本福音同盟)の働きに携わっておられたと記憶している。KGK関係者の内輪の気安さもあったのか、その某牧師が我々若手主事に語った本音が今でも鮮明に思い出される。すでに故人の方だし、時効だからバラしてもいいだろう。

伝道会議やったからって、これで本当に伝道が進むなんて誰も思ってる訳じゃないんだ。お祭りなの、お祭り。牧師たちの同窓会なんだよ。久しぶりに会って、やあやあ元気にしている?と旧交温たためるわけ。久しぶりに会って何をするかといえば、牧師仲間の噂話や日頃の教会や信徒の愚痴、先輩牧師の悪口、要するにガス抜きだよ。開催場所が観光地なら牧師たちもプログラムサボッて観光や息抜きをしている。まあ何年かに一度、そういうのが必要なわけ。

 

伝道会議やったからって、これで本当に伝道が進むなんて誰も思ってる訳じゃない」。これが最大のダブー、言っちゃいけないことだ。でも言っちゃいけないことはたいてい正しい。

その後私は、沖縄で開催された日本伝道会議(2000年)と神戸で開催された前回会議(2016年)の 2回にそれぞれ全日参加しているが、上記の某牧師の本音は「当たらずとも遠からず」の確証に至った。特に沖縄での会議では、プログラムの出席をサボってビーチや観光に繰り出す牧師・伝道者・信徒を何人も見かけた(見かけなくても本人からそう聞いたりもした)。教会や教派のお金で送り出されているのになーとは思ったが。。今回の伝道会議は開催地が東海地方だったので、帰省がてらの参加を考えなかったわけではないが、同窓会や息抜きにかけるお金や時間の余裕は無かったので見送った。

でも私もお堅い人間ではないから、目くじら立てるつもりもない。ただ気になるのは「日本伝道会議」という名称だ。「これで本当に伝道が進むなんて思っていない」のであれば、思い切って本当の名称に変えればよいと思う。同窓会や息抜きだって必要だろう。「日本福音派コミケ」なんてどうだろうか。ブースもたくさん出ていたようだし。

 

2023年10月17日 (火)

「おわり」から「はじめる」とは

 

先月、「第7回 日本伝道会議(JCE7)」が開催された(らしい)。本州最果ての地・青森県では空恐ろしいくらい一般信徒の間では認知されていなかった。先月行われた所属教派の運営委員会(牧師たち)でもほぼ全く話題に上がっていなかった。少なくとも私の周囲ではそうだった。恥ずかしながら私も SNS上の友人知人牧師たちのやりとりで辛うじて様子を掴むことができた程度だった。

「おわり」から「はじめる」宣教協力』がテーマだったとのこと。「おわり」は "終わり"(終末? 新型コロナ明け? 完成?)と、開催地域に因んだ "尾張(おわり)" を引っかけていると思うのだが(知らんけど)、会場の長良川国際会議場は岐阜県、つまり尾張ではなく美濃だ。どちらも濃尾平野には違いないが。。

今回の伝道会議の特色として、 4人の主講師たちが全員50歳未満だったとか、舞台では互いに「〜先生」と呼ばず「〜さん」だったとか、エラい先生たちの挨拶を省いたとか聞いている。確かに今までに比べて進歩だとは思うが、「画期的」と賞讃するほどのことでもないと思う。

伝道会議だから宣教協力が主題となるのは致し方ないが、テーマの神学的な煮詰めは正直なところ物足りないものを感じている。

そして JCE7 が終わり、今月に入ってからハマスによるイスラエルへの大規模襲撃が起こった。イスラエルの報復空爆ですでに戦争状態だ。報復の連鎖で双方に多くの犠牲者が出ていることに心を痛めている。

J-moltmann「おわり」が主の復活による終末的希望と完成を意味するとしたら、本当の「はじめる」とは復活された方の十字架に向かうことのはずではと、最近再び読書しているユルゲン・モルトマン著『十字架につけられた神Der gekreuzigte Gott: Das Kreuz Christi als Grund und Kritik christlicher Theologie 』を読みながら思う。モルトマンは述べる、

Kreuzestheologie ist, wie ich zeigen will, nichts anderes als die Kehrseite christlicher Hoffnungstheologie, wenn anders diese in der Auferweckung des Gekreuzigten auf ihren springenden Punkt kommt. ・・・・Setzte die ≫Theologie der Hoffnung≪ mit der Auferweckung des Gekreuzigten ein, so kehrt sich jetzt der Blick zum Kreuz des Auferstandenen herum.  Ging es damals um die Erinnerung Christi im modus der Hoffnung auf seine Zukunft, so geht es jetzt um Hoffnung im modus der Erinnerung seine Todes.  Standen dort die Antizipationen der Zukunft Gottes in Verheißungen und Hoffnungen im Vordergrund, so geht es hier um das Verständnis der Inkarnation jener Zukunft durch die Leidensgeschichte Christi in die Leidensgeschichte der Welt. 

十字架の神学とはーーこれが、私が以下で示そうとする点であるがーーもしも、希望の神学が、十字架につけられた方の復活の中に、その出発点を見出すとすれば、希望の神学の裏面にほかならない。・・・『希望の神学』が、十字架につけられた方の復活と共に始まったとするなら、今や、視線は逆転して、復活した方の十字架へと向かうのである。かつては、キリストの未来を希望するという形でキリストを想起することが問題であったとするなら、今やキリストの死を想起するという形で希望することが問題なのである。あの本では、約束と希望における神の未来の先取りが前面に出ていたとするなら、この本では、キリストの苦難の歴史を通じての、この世の苦難の中へのあの未来の受肉を理解することが問題なのである。(喜田川 信・土屋 清・大橋秀夫訳)

 

モルトマンは『十字架につけられた神』が『希望の神学』の継続でもあり留保でもあると主張する。希望の神学はキリスト論的な「基礎(「十字架につけられた神」の副題の Grund)」が必要だ。そしてそれは「十字架の終末論(eschatologia crucis)」へと発展しなければならない。M. ルターによれば「十字架がすべてを試す(Crux probat omnia.)」なので、『十字架につけられた神』の副題(Das Kreuz Christi als Grund und Kritik christlicher Theologie)の Kritik は「批判」ではなく「基準(英語の criterion)」と訳されるべきであろう。基準とはつまり始めであり原点だ。

「おわり」から「はじめる」とはモルトマンによれば、「キリストの将来への希望の形態におけるキリストの想起」から「キリストの死の想起の形態における希望」へと発展することだ。JCE 7 が終了し、パレスチナで戦争が始まった今、モルトマンの「キリストの苦難の歴史を通じての、この世の苦難の中へのあの未来の受肉」との洞察を黙想しつつ、彼の地での和平の実現を切に祈る。

 

2023年10月12日 (木)

新幹線の札幌延伸は2030年度末で変更なし 

 

4日前の投稿をもう訂正せねばならない。

札幌市が2030年の冬のオリンピック・パラリンピック招致を断念したことについて、JR北海道の綿貫社長は12日、2030年度末の開業を目指す北海道新幹線の札幌延伸の時期に変更はないという認識を示した。

JR北海道 綿貫泰之社長
「(2030年冬季五輪は)もともと新幹線の開業時期とはずれていて間に合ってはいないので。事業全体ではオリンピックの延期が影響を受けることはない」

 

但し、JR北海道の言うことを信じられるのは「信仰の勝利」と揶揄する人もいる。真偽の程は分からない。

 

余談だが、青森県に存在する民放局は、

・RAB青森放送(日本テレビ系)
・ATV青森テレビ(TBS系)
・ABA青森朝日放送(テレビ朝日系)

つまりフジテレビは映らないのだ。但しこれは主に津軽地方。青森市も含まれる。これに対して太平洋側の八戸市などではフジテレビの番組がリアルタイムで視聴できる。でもこれは岩手県二戸市の中継局の電波を拾っているにすぎない。他に津軽海峡沿岸地域(下北半島の大間町、津軽半島の今別町など)では北海道のUHB北海道文化放送が受信できる。大間から函館は距離的には目と鼻の先だ。

フジテレビ系列の番組を視聴したい人は私のように、地元のケーブルテレビを契約する。するとTVh テレビ北海道(テレビ東京系)とUHB北海道文化放送(フジテレビ系)の番組をリアルタイムで視聴できるのだ。青森にいながら、北海道の地元ニュースを毎日視聴している。

因みに動画は HBC北海道放送配信のもの。

 

2023年10月 8日 (日)

新幹線の札幌延伸は延期に 

 

北海道新幹線の札幌延伸計画。現在の終点は新函館北斗駅。札幌までの延伸計画は延期になるだろう。理由は冬季オリンピックの誘致が無くなったから。開催の立候補は2034年または2038年にしたいと考えを改めた。

トンネル掘削中に巨岩が見つかって中断したこともあった(約4年)。この度の冬季オリンピック誘致計画の延期は、JR 北海道にとって「渡りに舟」だったのではないか。2024年から建設業界の残業規制が強化され、人手不足が深刻となる「2024年問題」も控え、工事はさらに遅れる可能性もある。

個人的には、まだ当分は終点が新函館北斗駅のままであってほしいと思っている。理由は風情ある並行在来線が残ってほしいから。特に函館駅ー札幌駅間を運行する特急「北斗」に引退してほしくない。噴火湾(内浦湾)の海岸沿いの車窓風景が大好きなのだ。新幹線札幌延伸による新函館北斗駅から札幌駅までの 8割はトンネルと聞いている。冬季の雪対策もあるのだろうが、実に味気ない車窓だ。

Map_of_hokkaido_shinkansen因みに、青森市内にある新幹線駅「新青森駅」は、東北新幹線(JR 東日本)の終点であるともに、北海道新幹線(JR 北海道)の起点でもある。北海道新幹線は青森県内から始まっているのだ。今の北海道新幹線はまさに現代の「青函航路」だ。

北海道関連の余談だが、津軽海峡フェリーが今月から青森ー室蘭線を就航させた。北海道へのアクセスがまた一つ便利になった。

 

2023年10月 4日 (水)

散歩

 

Img_7408教会から3分歩けば陸奥湾と合浦公園の白砂青松。

Img_7406秋風が心地よい。癒される。

Img_7407水平線の彼方に津軽半島と下北半島がそれぞれ左右に見えるのだが、画像では近くに夏泊半島、その向こうに下北半島が見える。この海を毎日、青森と函館を結ぶフェリーが往復している。2社の内の津軽海峡フェリーは今月から青森ー室蘭線を就航させた。北海道へのアクセスがまた便利になった。

 

2023年9月29日 (金)

THE 世界大学ランキング 2024  

 

英国の教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)は2023年9月27日、世界の大学のうち108カ国・地域の1904校を研究力や国際性などの基準で順位付けした「世界大学ランキング」の2024年版を発表した。世界トップは8年連続でオックスフォード大学(英国)

The-u-ranking-2024世界のトップ 20校は表のとおり。注目すべきは 12位に中国の清華大学(昨年 16位)、14位に同じく中国の北京大学(昨年 17位)がランクアップしたこと。日本のトップは東京大学で世界ランキング 29位。昨年の 39位より順位を上げたが、清華大学などには及ばなかった。

アジア勢としては他にシンガポール国立大学が世界ランキング 19位でトップ 20校入りしている。因みに、カナダのトップは世界ランキング 21位のトロント大学、オーストラリアのトップは世界ランキング 37位のメルボルン大学だった。

トップ 20校以降の英国の主だった大学では、UCL が 22位、エディンバラ大学が 30位、LSE が 46位、マンチェスター大学が 51位、ブリストル大学が 81位、ダラム大学が 174位、セント・アンドリューズ大学が 193位だった。

The-ranking-2024-japan日本の上位校は表のとおり。順位は世界ランキングの順位。東京大学や京都大学以外で 200位以内に入ったのは、東北大学の 130位、大阪大学の 175位、東京工業大学の 191位である。いずれも昨年より大きく順位を上げている。THEは「教育」「研究環境」「研究の質」「産業への貢献」「国際性」の 5分野を設けて細かく指標を設定している。今回、基準を一部変更し、特許取得を指標に加えたり、より重要な研究に影響を与えているかを測る指標を工夫したらしい。日本の大学の順位上昇には基準の変更も影響しているとみられる。


私学では慶應義塾大学が 800位以内、早稲田大学が 1000位以内である。これら私学の雄ですら世界ではこのランキングなのだ。私学間の序列(MARCH とか
日東駒専とか大東亜帝国 etc.)など、世界の視野で見るならどうでもいいコップの中の嵐に思える。

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2023年9月28日 (木)

異色の卒業生ウィルバート・オードリー 

 

私の母校の神学校はウィクリフ・ホール(Wycliffe Hall, Oxford)だ。1877年創立。卒業生は数多いるが、日本でも知られた人たちではドナルド・コッガン(第101代カンタベリー大主教)、 J. I. パッカー(組織神学者)、N. T. ライト(元ダラム大聖堂主教・新約学者)、オリバー・オドノヴァン(元オックスフォード大学倫理学教授)、ニッキー・ガンベル(「アルファ」コース)、ヴォーン・ロバーツ(『神の大いなる物語(ストーリー): 聖書の全体像がわかる』の著者)などがいる。卒業生の大半は牧師や宣教師や神学者だが、中には変わった経歴の者もいる。


Audry画像の本は、ブライアン・シブリー(Brian Sibley)著の The Thomas the Tank Engine Man: A Biography 。1995年にイギリスで出版された。シブリーの著書はすでに何冊も邦訳され、日本でも知られた方である。とりわけ、すぐ書房から出版された『影の国よ、さようなら』(中尾セツ子訳、後に『永遠の愛に生きて』と改題)で、クリスチャンの間でも知られるようになった。シブリーは C. S. ルイスやトールキンの児童文学についてのガイド本なども著しているが、一般には伝記の著者として知られている。

Thomasl上記シブリーの本は、日本でも『汽車のえほん』シリーズの著者として知られる、ウィルバート・オードリー牧師Rev. Wilbert V. Awdry)の伝記である。『汽車のえほん』シリーズの第2巻は『機関車トーマス(Thomas the Tank Engine)』といい、絵本だけでなく、テレビ番組として日本でも子どもたちの間で根強い人気がある(アニメの題は『きかんしゃトーマス』画像参照)。『汽車のえほん』シリーズは息子クリストファーとの共著だが、息子さんの求めに応じてオードリーはトーマスの物語を作ったそうだ。

私がシブリー著のこの伝記を知ったのは、在英中のウィクリフ・ホールの学生の時だった。ある卒業生の伝記が出たということで、ホールのニュースレターにそのことが載ったのであった。その卒業生こそ、ウィルバート・オードリー師のことだった。オードリー師は 1932年にオックスフォード大学セント・ピーターズ・コレッジ(St Peter's College, Oxford)を卒業後、イギリス国教会の司祭(牧師)になる教育を受けるためにウィクリフ・ホールに移り、翌年に Diploma を取得し卒業している。それからエルサレムの学校で教えるためにイスラエルに行った。帰国後の 1936年にイギリス国教会の教職に叙任された。その後、1965年に引退した。因みに、オードリー師の父親も国教会の司祭だった。

我が家の子どもたちも好きだった『機関車トーマス』(アニメ『きかんしゃトーマス』)の作者がなんと、ウィクリフ・ホールの卒業生だったのだ。当時、シブリーの伝記の出版を聞いて初めて知った。ウィクリフ・ホールは J. I. パッカーや N. T. ライトやニッキー・ガンベルたちだけでなく、オードリー師のような異色の卒業生も輩出していることをちょっぴり誇りに思ったものだった。それにしても、オックスフォードにはおもしろい人たちがいる。オードリー師は牧師であり、鉄道マニアだった。現代なら「鉄オタ(ヲタ)」か。

以前このブログで紹介したフレデリック・ホープ師も牧師であり昆虫マニアだった(F. W. ホープは、イギリス国教会の司祭(牧師)だった人で、オックスフォード大学のチャプレンであり、また大学の昆虫学科(The Hope Department of Entomology) の創設者。日本産オオクワガタの学名ドルクス・ホペイ・ビノドゥロスス Dorcus hopei binodulosus のホペイ hopei はホープ Hope に因む)。これもオックスフォード流アマチュアリズムの世界なのだろうか。

Awdry1オブザーバー紙に掲載されたオードリー師の肖像画。パイプをくゆらせている。そういえば、C.S.ルイスやカール・バルトもパイプをくゆらす写真があった。私が育った福音派ではクリスチャンがパイプや煙草なんて(言語道断)!という雰囲気であるが、そういえばこれで思い出したことがある。武田清子著『出逢い 人、国、その思想』(キリスト新聞社 2009年)の中に彼女のこんな逸話が紹介されている。カール・バルトの山荘を訪ねたときのことだ。

・・・彼女(秘書のフォン・キルシュバウム)に案内された部屋に荷物を置き、リビングルームに行ってみると、バルトとその取り巻きのドイツの神学者たち数名がテーブルを囲んでお酒を飲みながらおしゃべりをしていた。その光景が面白かったので、スナップを撮ろうとカメラを向けると、彼らは、「日本ではキリスト者はお酒を飲んではいけないんでしょ。日本のキリスト者のつまずきになるといけないから」と、お酒のビンもコップも机の下に隠したので、映った写真にはお酒のビンは一つもなかった。「我々はヒポクリット(偽善者)だからね」と大笑いしながらまたお酒を飲み始めた。これはユーモアに満ちたほほえましい一場面であった。バルトが「日本のバルティアンは、バルト自身よりももっとバルティアンらしいですね」とユーモラスに語ったのも意味深長で興味深く思えた。 (武田清子著 上掲書 pp. 108-109)

 

私の信仰は、福音派とヨーロッパのキリスト教のハイブリッドだ。ヒポクリットなのかもしれない(笑

 

2023年9月25日 (月)

創世記 11章1〜9節のキアズム(集中構造)

 

イギリスの旧約学者ゴードン・J. ウェナム Gordon J. Wenham に Rethinking Genesis 1ー11: Gateway to the Bible(Cascade Books, 2015)という著書がある。この本はウェナムがイギリス北西部の都市マンチェスターにあるナザンレン神学大学 Nazarene Theological College の「ディズベリー講義(The Didsbury Lectures)」に招かれた2013年の特別講義がベースになっている。ウェナムはその30年近く前、Word Biblical Commentary シリーズで上下巻の創世記注解書を執筆している。本書は、30年前の自身の研究成果を再考する意図が込められているらしい。余談だが、恩師 R.T. フランス先生も1995年のディズベリー講義に招かれ、後日に Women in the Church's Ministry : A Test-case for Biblical Hermeneutics という題で出版されている。

本書でゴードン・ウェナムは創世記 11章1〜9節のいわゆる「バベルの塔事件」の記事にキアズム(文学的な集中構造)が見られることを指摘している。「聖書 新改訳 2017」の翻訳でキアズムを置き換えた PDF を添付するのでご覧いただければと思う。物語は A から順に B → C, と進み、G 以降は F' → E' → D' と逆進し、最後は A' で終わる。A と A' が対応し、B と B' 、C と C' が対応する。F と F' が対応した後に 中心点 G に集中する。

ダウロード - chiastic20structure20of20genesis2011.pdf

ウェナムのキアズムによれば、5節の「そのときは、見るために降りて来られた」という文が中心点になる。私たちはともすれば物語を起承転結の筋で理解し、全地の話しことばが混乱した結末(9節)が神のさばきのメッセージと捉える。しかし文学構造によれば、(神が)降りて来られたことが中心メッセージということになる。神が「降りて来る(下る)」とは従って、ただ罰するためだけでなく何かもっと別の深い意味があることを、創世記 10章からの文脈や他の聖書箇所から探してみる必要があろう。以下の聖句引用はすべて「聖書 新改訳 2017」である。新改訳聖書では、神やキリストが自称する箇所は「わたし」と平仮名で、人間の場合は漢字の「私」と訳し分けている。

「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」(創世記 18章21節)

「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、・・・彼らを導き上るためである。」(出エジプト記 3章8節)

は雲の中にあって降りて来られ、彼らとともにそこに立って、の名を宣言された。」(出エジプト記 34章5節)

「予期しないことをあなたが行われるとき、あなたは降りて来られ、山々はあなたの御前で揺れ動きます。」(イザヤ書 64章3節)

「寝床で頭に浮かんだ幻の中で見ていると、見よ、一人の見張りの者、聖なる者が天から降りて来るではないか。」(ダニエル書 4章13節)

「見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。」(ミカ書 1章3節)

「すなわち、号令と御使いのかしらの声とラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、」(テサロニケ人への手紙 第一 4章16節)

上記は聖書中の一例だが、神が「降りて来る」とか「下って来る」とは、救いのみわざと深く結びついていることが分かる。では神は誰を救われるのか? ご自身の選びの民である。創世記 10章〜11章の文脈では、ノアの息子たちの中でもとりわけセムの子孫をご自身の選びの民として救われるようとされたのがバベルの塔事件の神の意図であった。話しことばを混乱させ、「人々を地の全面から散らされた」(11章9節)ことによって、セムの子孫たちがハムの子孫たちから分離されるよう仕向けた "荒療治" であった。さばいて罰することが第一義的な目的ではなかった。換言すれば、神のさばきには常に私たちへの悔い改めと救いの機会が織り込まれている。

新約に入ると、主イエスは人としてお生まれになるために天から下って来られ(クリスマス e.g. ヨハネの福音書 1章14節)、十字架の死後は「よみにくだり」(使徒信条)、ペンテコステの日に聖霊は弟子たちに下られ(使徒行伝 2章)、キリストはやがて再臨のために下って来られる(I テサロニケ 4章16節)。ついでに言うなら、神の国が完成するとき、ヨハネは「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、・・・・神のみもとから、天から降って来るのを見た。」(黙示録 21章2節)。

三位一体の神が降りて来られるとか下って来られるとは、ご自身の選びの民を救われるみわざと関係しているようだ。

G-wenham-genesis

 

2023年9月16日 (土)

あっぱれ、本田宗一郎さん その2

 

今年2月14日の投稿「あっぱれ、本田宗一郎さん」の続き。

いわゆる「牧師 2030年問題」とは、てっきり若い世代の献身者(キリスト教界の業界用語で「フルタイムの牧師・伝道者を志す人」くらいの意。聖書的には本来すべてのクリスチャンが献身者)が全然足りていない状況にフォーカスする用語かと思っていたら、実は団塊世代(1947〜1949年生まれ)やポスト団塊世代の前半(1950〜1955年生まれ)の牧師たちが一斉にリタイヤするカウントダウンを心配する意味だそうな。つまりそれで牧師の数が半減すると。(それに呼応して信徒の数も半減するかもと言われているようだがそれは大袈裟だ。)

私は逆に驚いた。団塊世代の牧師たちは本気で2030年まで現役を続ける気なのか?と。「眉雪(びせつ)の老僧」の滋味を否定する気はないが、しかしこれとて状況によりけりだ。恐らく多くの教会で、信徒たちは心の中でもうこの辺で辞めた方がいいと思っていても「先生、元気ですよ、まだやれますよ、辞めないでください」と本音半分、お世辞半分で引き留めているのが実状ではないか。

牧師を辞めさせる気力のない教会、辞めて新天地に赴く勇気のない牧師。これは教会にとって不幸なばかりか、実は牧師本人にとっても不幸と私は思う。何より、上の世代が居残ることで、下の世代が育たない。換言すれば、下の世代は、上の世代がいなくなることで育つのだ。

キリスト教会は本田宗一郎氏の言葉から学ぶべきだと思う。

「(戦後の経済成長で日本人を)一生懸命にさせたのは何かと言うと、上の人の小言がないということね」

「マッカーサーが来て、上の連中をほとんどパージして、財界は解体した。誰も文句を言う人はいないですよ」

「だから自分の思うことを精一杯にやれた。命令されて仕事をやったんじゃない」

「そろそろ僕らみたいな上の指導者が辞めないと、また同じ事をやりはしないかと心配」

 

繰り返して言う。「若者の過失より老人の跋扈(ばっこ)」だと。してみると、2030年問題とは「危」よりむしろ「機」かもしれない。

 

2023年9月11日 (月)

カール・バルト生涯最後の言葉 

 

エバーハルト・ブッシュやカール・クーピッシュらのバルトの伝記によると、バルトの生涯最後の言葉は「しかし、意気消沈しちゃ駄目だ!《主が支配したもう》のだからね!("Lass nur nicht die Ohren hängen !  Denn es wird regiert.") 」だったらしい。六十年来の親友エドゥアルト・トゥルナイゼンとの電話での会話だったという。バルトの死の前夜だった。

E.ブッシュの伝記によれば、「《主が支配したもう》のだから」とは奇しくも「クリストフ・ブルームハルト」の最後の言葉であったとしている。この名で普通に想起するのは子ブルームハルトの方だ。一方、彼の別の本でははっきりと「ヨハン・クリストフ・ブルームハルト」(父ブルームハルト)の最後の言葉であったとしている。父も子も「クリストフ・ブルームハルト」なのでややこしい。息子にはフリードリッヒというミドルネームがある。いずれにしても真相は分からない。恐らく父ブルームハルトの言葉だったのではないかと思っているが、父も子も「神の国の証人」(井上良雄氏による書名)だったので、どちらであったかはそれほど重要ではない。神の国または天の御国とは即ち、神の支配・統治のことだ。

しかし私はむしろ「意気消沈しちゃ駄目だ!」の言葉に関心が向く。Lass nur nicht die Ohren hängen ! の直訳は「耳を垂れてはいけない!」である。英語なら "Don't let your ears droop down." くらいの意味だろう。ブッシュは例えて「犬が見張りをするときには、耳をピンと立てている。("Wenn ein Hund wachsam ist, hat er aufgerichtete Ohren.")」と述べる。バルトはトゥルナイゼンとの電話の前、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」(マルコの福音書 12章27節)の聖書箇所から講演原稿を書いていた。生きているとは、耳を垂れた犬ではなく、耳をピンと立てて見張っている犬のことだ。因みに、バルトは翌日に召されたので、この原稿は中断されたままだった。

耳を立てて見張ることができる根拠が「《主が支配したもう》のだから」であろう。K. クーピッシュの伝記ではバルト最後の言葉の全文が記されている。電話でトゥルナイゼンと暗い世界情勢を語る中でバルトはこう告げた。

「ただし、意気消沈だけはしないでおこうよ。絶対に。なぜなら、支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけでない。

支配していたもう方がおられる、しかも、この全世界においてだよ。しかし、まったく上から、天上から支配していたもうのだ。神が支配の座についておられる。だから、私は恐れない。最も暗い瞬間にも信頼をもちつづけようではないか。希望を捨てないようにしようよ。すべての人にたいする、全世界にたいする希望を。神は私たちを見捨てたまいはしない。私たちのうちのただの一人も。私たちお互いみなを見捨てたまいはしない。支配していたもう方がおられるのだから」。

 

上記の言葉の最後の箇所を取り上げて、バルトを万人救済論者と疑う人がいるかもしれないが、そうではないと思う。バルトが言わんとすることは、天国で再会するのはあなたが愛する人たちとともに「確かなところ、きっとあなたの《愛する人たち》だけではないですよ!("Machen Sie sich darauf gefasst : gewiss nicht nur Ihre 'Lieben' ! "」(未発表の(noch ungedrunckt)バルトの言葉 --E. ブッシュ談--)の意であろう。バルトのこの応答は「神の愉快なパルチザン」の面目躍如だ。強烈な皮肉とともに見捨てられた人々、忘れられた人々へのバルトの深い眼差しが窺われる。「《主が支配したもう》のだからね!」と。

 

2023年9月 8日 (金)

秋本衆院議員の逮捕 / ジャニーズ事務所の会見 

 

政府の洋上風力発電事業をめぐる汚職事件で、東京地検特捜部は7日、衆院議員の秋本真利容疑者(48)=比例南関東、自民党を離党=を受託収賄の疑いで逮捕した。

秋本議員逮捕などほんの入口。今後、河野太郎・現デジタル相、萩生田光一・前経産相、菅 義偉前首相などにも捜査は及ぶだろう。

今年2月9日投稿の記事

特捜部の次なる標的

今年3月8日投稿の記事

再エネ事業の闇 終わりの始まり?

 

ところでジャニーズ事務所の会見。呆れて物が言えない。藤島ジュリー景子社長が 100%株式を持ったままでの社長交代。こんな体制でガバナンスが効くわけがない。新社長の東山紀之氏は現社名を残す意向を示した。いったい何考えとんねん!? 英BBC が制作したドキュメンタリーは全世界に配信された。「ジャニーズ」の社名とは、忌まわしい性加害のイメージ以外の何物でもないのだ。それを後生大事に残すなど狂気の沙汰だ。

いわゆる「エプスタイン・スキャンダル」の折、同氏から寄付を受ける深い関係だったということで、伊藤穰一元マサチューセッツ工科大学教授・元MITメディアラボ所長は辞職に追い込まれ、事実上の永久追放処分だ。好むと好まざるとにかかわらず、これが現実の世界標準である。ジャニー喜多川事件とは、要するに "日本版エプスタイン事件" なのだ。

何だかんだ言いながら結局「ジャニーズ」を容認しているテレビ局関係者・CM業界関係者の脳天気ぶりには開いた口がふさがらない。我が国は相変わらず、外圧でしか変われない情けない国なのか。。

 

2023年9月 5日 (火)

【再掲】「神の領域」とは?

 

2022年5月12日の投稿。昨日『ミステリと言う勿れ』の再放送を視聴して思い出した。

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ミステリと言う勿れ』は、田村由美による日本のミステリー漫画。2022年1月期にフジテレビ系「月9」枠にてテレビドラマ化された。私は原作の漫画を読んだことないが、テレビドラマは視聴した。

その第2話で、バスジャックで人質となった主人公・久能 整(くのう ととのう 演:菅田将暉)が、犬堂家のリビングで同じ人質の一人 柏めぐみ(演:佐津川愛美)と交わす会話がある。人質たちがバスジャック犯に、人生で犯した最大の罪を一人びとり告白するよう強要される場面だ。(太字はのらくら者による)

柏めぐみ:「私が犯した最大の罪は子どもを堕ろしたことです。夫との子どもです。まだ結婚前で体裁が悪いからってお義母様に言われて仕方なく。。でもその後なかなか妊娠できなくて。。だから私、どうしても子どもがほしくて不妊治療クリニックにがんばって通っているんです。そこで体外受精なら可能性があるって言われました。でもお義母様にも親戚の人たちにも「それは神の領域だ。不自然なことはするな」って反対されてしまって。。そんな不自然なことですか・・? いけないことですか?!」

 

久能 整 :「人は自然の生き物なので、人がすることはすべて自然の範疇だと思います。人に一から蜂蜜を造れと言っても多分無理でしょう。植物のように光合成で酸素を造ろうとしてもまず同じようには行かない。そんな神の領域みたいなことを彼らは自然にやっているわけです。だとしたら、人間がその発明や革新的技術を生み出すこともまた自然の範疇だと言えるのではないでしょうか。だからあなたも、できることでしたいことはしたらいいとボクは思う。 ただ柏さん、苦しいことを薄めるためにより悪いことを望むのはマズいです。それがどうなって行くのか、ボクは知っているので。」

 

ブログ読者は驚かれるかもしれないが、私は久能 整の考えに基本的に賛成だ。「神の領域」、少なくとも科学的探究における「神の領域」って何だろうと私はしばしば思う。先日、フェイスブックでとあるクリスチャンのコメントが目に留まった。「神の領域に人間が土足で勝手に踏み込み、神の領域を人間の知りうる儚い科学的根拠のみで封じ込めようとする愚かさに悲しみを覚えます」。この文の後半「人間の知りうる儚い科学的根拠のみで封じ込めようとする愚かさ」は私も同感だ。私も還元主義には反対だからだ。だが前半部分「神の領域に人間が土足で勝手に踏み込み」で意味されている「神の領域」とは何だろうか。それは「聖域」「禁断の地」の意味なのだろうか?

科学的探究における「神の領域=聖域」というのはあるのだろうか。私はないと思う。実はこのことを私の前ではっきり断言されたのは恩師・有賀 寿先生だった。

上記の久能 整の言葉は再生された「心」、つまり罪から自由にされ聖霊のみわざによってこの世界が神の創造による被造物(自然)と見て取る心で解釈されなければならない。一方、世の人々(時としてクリスチャンも)が使う「神の領域」とはしばしば、被造物たる人間が神に成り代わり他の被造物をコントロールしようとする際に自分の思い通りにならない領域を「神の領域(超自然)」と称するのだ。被造世界を「自然」と「超自然」とに恣意的に分割する二元論的思想は聖書にはない。スコラ神学が「自然」と「恩寵(超自然)」という二つの領域を設定するのは非聖書的だ。聖書の世界観は「罪」という破壊された世界と、「恩寵」というキリストのみわざによって回復された世界のみである。

クリスチャンは聖霊によって再生された「心」で久能のことばを理解するが、科学の自由(学芸・学問の自由)は非再生者にも保証されている。ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』の中でしばしば異教の学問の有用性に言及している(I・5・14、II・2・9、II・2・14、II・2・18)。「なぜならそれは人間性の賜物ではなく、神の聖霊(聖化の聖霊ではなく、「一切のものを満たし、動かし、生かす」聖霊)の賜物でありかつ「創造の法によって 与えられたそれぞれの種属の固有性」によっているから(II・2・15,p. 50- 52)」(稲垣久和 「キリスト教哲学と現代思想(IV) ─ アブラハム・カイパーと自由の問題─」 p.12)だ。

スコラ神学的「恩寵(超自然)」の世界観では蜂が蜂蜜を造る営みや植物の光合成は「神の領域」となろう。しかし聖書的世界観(「罪」と「回復」の世界観)ではそれらは神の創造のわざ(自然)であり、人間の観察と探究の対象だ。同様に、人間の生命の起源の探究もだ。不妊治療の医学的探究そのものはいわゆる「神の領域」でもなければ「不自然」でもない。

但し、久能が柏めぐみに「苦しいことを薄めるためにより悪いことを望むのはマズいです」と語る時、探究結果の適用が自分の栄光や願望ではなく「神の栄光」のため(I コリント 10:31)かどうかを吟味する「従順」(II コリント 10:5 )と「へりくだり」("霊と心において新しくされ続け" エペソ4:23)が求められるだろう。この吟味を「倫理」とか「道徳」と呼ぶなら私はそれで構わない。

クリスチャンの思惟にもしばしばスコラ学的二元論が忍び込む。聖書の御言葉に絶えず戻ることが肝要だ。

 

2023年9月 2日 (土)

【再掲】デービッド・アトキンソン氏の最新刊 

 

2021年5月28日の投稿の再掲載。

青森に赴任して以来、何人かのOMF新米宣教師夫婦を紹介されてお会いしたが、「最近のOMFの宣教師はレベルが落ちているのではないか。派遣される本国で本当に適切なスクリーニングを受けているのか?」と疑問に思うことしばしばだった。彼らに対しては率直に助言した。「日本語を、あなたのセカンド・ネイチャー(second nature)になるくらい修得してください。例えば、デービッド・アトキンソン氏くらいに日本語を操らなければ、本当の意味で日本人に福音を伝えることなど不可能ですよ」と。アトキンソン氏の日本語は YouTube 等の動画サイトでたくさん聞ける。

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デービッド・アトキンソン
小西美術工藝社代表取締役社長。元ゴールドマン・サックス社のアナリスト。裏千家茶名「宗真」拝受。
1965年英国生まれ。オックスフォード大学で日本学専攻。アンダーセン・コンサルティング、ソロモン・ブラザーズを経て、1992年にゴールドマン・サックス入社。日本の不良債権の実態を暴くレポートを発表し、注目を集める。98年に同社マネージングディレクター、06年同社パートナーを経て07年退社。09年に小西美術工藝社に入社し、11年から同社会長兼社長に就任。15年から対外経済政策研究会委員、京都国際観光大使、16年から「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議委員、行政改革推進会議歳出改革ワーキンググループ構成員などを務める。

アトキンソン氏の最新刊は自伝である。だから大変興味深い。

 

Atkinson-1氏が日本の一般読者に広く知られるようになったのは2014年刊行のこの本によってであろう。容赦のない日本経済の分析であった。「事実関係の確認」「真摯な分析」。アトキンソン氏が「日本人に足りないもの」として挙げる2点だ。本書に例示されている。最新刊においても日本での半生を振り返りながらこの点は繰り返されている。

しかし本書が氏のデビュー作ではない。実ははるか昔のバブルが弾けた時代、1994年に日本経済新聞社から『銀行 不良債権からの脱却』が出ている。このデビュー作について、私は以前に本ブログで記事をアップしている。今にして思う。このデビュー作を知らずして最新刊の自伝を本当の意味で理解することはできないと。

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デービッド・アトキンソン著 『銀行 不良債権からの脱却』 (日本経済新聞社 1994年 1500円+税)

画像の本は、1994年10月に刊行されたデービッド・アトキンソン氏 の著書である。当時のアトキンソン氏はゴールドマン・サックス証券東京支店調査部金融調査室長のポジションにあった。各種アナリストランキングで1位を独占していた辣腕アナリストだった。池田信夫氏は昨年11月29日のご自身のブログで『徳政令のすすめ』と題して以下のように述べ、1990年代バブル崩壊後の邦銀の不良債権処理において、アトキンソン氏の洞察と主張に先見の明があったことを告白し認める。本文での太字以外の太字や下線(_)はのらくら者による。

90年代前半、すでに日本の建設・不動産業界はほぼ半分が倒産状態で、資本金の数百倍の債務を抱える業者も珍しくなかったが、不動産取引は手形ではないので形式的には存続していた。これを銀行が「破綻懸念先」といった形でごまかして延命していた。   

1995年にNHKの番組に出てもらったとき、アトキンソンは「建設・不動産業界の債務を一括して免除しろ」という徳政令を主張した。これに対して銀行業界は猛反発し、そのとき出演していた大蔵省の長野証券局長も「特定の債務者だけ債務免除することはできない」と否定した。   
当時は(私を含めて)マスコミも「バブルで儲けた銀行を救済するのはおかしい。ましてバブルを作り出した不動産業者を救済するなんてとんでもない」ということで一致していた。経済学者にも、決済機能には外部性があるので預金者を救済することは仕方ないが、銀行は破綻処理すべきだという筋論が多かった。   

もちろん資本主義の原則からすると、リスクを取った企業が失敗の責任も取るのが当然だが、それを実行すると、金融危機のときは債権者の銀行まで破綻し、取り付けによって社会全体にパニックが拡大する。銀行はそれを恐れて債務者を生かさず殺さずの状態に置くので、不良債権の全容がわからないまま地価が下落し、損失がふくらむ。 
 
今ふりかえってみると、あのとき徳政令を出しておけば、銀行の損害はネットで20兆円ぐらいですんでいた。それを2000年代まで引っ張ったため、損害は100兆円にふくらんだ。不動産業者は結局、破綻処理で債務が免除され、銀行の損害46兆円を公的資金で埋めた。結果的には銀行融資が返ってこないのは同じで、損失が5倍になり、納税者がその半分を埋めたのだ。   
破綻処理というのは約束を破るメカニズムなので、何らかの形の徳政令(債務免除)は不可欠だ。そのとき大事なのは責任追及ではなく、損害の総額を減らすことだ。そのために損害を早く確定して負担の配分を決めることが破綻処理のポイントで、かつてのメインバンクは、そういう residual claimant の機能を果たしていた。それが債務が大きすぎて機能しなくなったことが、不良債権問題の根本原因である。

アトキンソン氏が当時算出した不良債権の総額「20兆円」は、大蔵省(現・金融庁)や銀行の試算を大きく上回るものだった。しかしそれは「事実」に基づいた試算であった。日本人は、官民ともに「事実」に目を背けたのだ。20兆円ほどであるなら、徳政令を発動すれば損害は小規模で抑えられたはずであった。しかし結果として100兆円まで膨らみ、その約半分に公的資金(=税金)が投入された。アトキンソン氏がその後の著作で再三指摘しているように、日本には依然、「Fact(事実)」をベースにして議論するという発想がない。この体質はキリスト教会(教界)も同じであろう。

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2023年9月 1日 (金)

全然ゆるくない北海道のゆるキャラたち   

 

Photo_20230902040601 泣く子も黙る、もとい、黙る子も泣くメロン熊(夕張市)。

Photo_20230902040602 人に噛みつくホーンテッド時計GUY(札幌市)。

Photo_20230902040701 目がイッてるシュールなずーしーほっきー(北斗市)。

Photo_20230902040801 函館市と紋別市のゆるキャラも怖い。。

 

Photo_20230902041001青森県のゆるキャラたちは可愛い!

 

2023年8月26日 (土)

11 弦ギターで聴く「フォー・ノー・ワン」(For No One)

スウェーデン出身の 11弦ギターの名手イョラン・セルシェル(Göran Söllscher)が自ら編曲して弾いたビートルズの「フォー・ノー・ワン」。1966年に発表されたアルバム『リボルバー』に収録された一曲。公にはレノン=マッカートニー名義となっているが、ポール・マッカートニーによって書かれた楽曲。実際、彼が歌っている。ポールの当時の恋人ジェーン・アッシャーとの恋人関係の終わりを題材とした言われる切ない曲。

バロック・ポップ(クラシックの要素をロック・ミュージックの作曲や録音にもちこむこと)の曲なので、11弦ギター用の編曲によく合っている。最後の一音の第11弦をセルシェルはお茶目に左人差し指で弾いている。

 

2023年8月24日 (木)

ルカの福音書 11章 5ー13節 説教メモ 

 

昨今、シンガポール出身の新約学者テ・リー・ラウ(Te-li Lau)のルカ文書における「恥」のレトリックの研究が新約学界で注目を集めていると聞く。彼はエモリー大学大学院で博士号を取得。現在はトリニティー神学校の新約准教授らしい。D. A. カーソンも恐らくラウの研究あたりから示唆を受けたのではないか(知らんけど)。このような学問的進展は説教の準備の上でも大変役に立つ。牧師・説教者も学界にアンテナを張っておくべきだろう。

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1. このたとえ話は難解である
たとえ話の中心点はどこか?
 → 5節から13節がまとまりであることは明らか。多くの人はこのたとえ話の中心ポイントを10節(「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます」)と解する。即ち、祈りの熱心さをたとえ話の教えとみる。しかしそれでは 11〜13節の言葉に繋がらない。つまり、5〜10節と11〜13節の内容が分断されてしまう。統一的な読み方をするためには中心点が別にあることに気付く必要がある。

 

2. このたとえ話の統一的な読み方のために
 a. たとえ話の中心点
 → 8節の翻訳
 「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。(聖書 新改訳 2017)

 「あなたがに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう。」(新改訳聖書 第三版)

 → パンを求める側、つまり友人を起こす側の熱心に焦点があるかのように見える。中心点を理解するためには、「しつこさのゆえ」(2017年版)または「あくまで」(第三版)と訳されたギリシャ語「アナイデイア(ἀναίδεια)」をどう釈義するかがポイント。

 b. ドナルド・A. カーソン教授(Prof. Dr. Donald A. Carson)による 8節の私訳
 →「あなたがに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、恥を受けたくないと願うゆえに、起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」(太字及び下線_はのらくら者による)
  “ I tell you, though he will not get up and give him the bread because he is his friend, yet because of his desire to be without shame he will get up and give him as much as he needs.”

→ カーソンによる私訳の解説
(ギリシャ語「アナイデイア」)の意味には論議がある。字義どおりには、アナイデイアは「恥知らず」を意味するが、この恥知らずという言葉を、戸の前に立っている男に当てはめる人もいる。(中略)ある人々はこの意味を拡大して、この言葉が男の「ずうずうしいしつこさ」に言及するものであると論じるのである。(中略)これはほとんど不適当と言える。たとえ話のポイントは戸を叩き続ける男の態度にではなく、家の中にいる男の態度にある。ギリシャ語のアナイデイアが、少々異なった意味合いの「恥知らず」をし得ると認識することによって、道が開ける。英語で「恥知らず(shameless)」の人々とは、恥を受けても気にしないゆえにどんな卑劣な行為もやりかねない人々であるのに対し、ギリシャ語で「恥知らず」の人々とは、その行為によって恥を免れるような人々である。つまり、まったくどんな恥も知らない、文字どおり「恥のない(shame-less)」人として行動することである。この読み方では、問題の言葉(アナイデイア)は家の中の人間に言及する。英語の(日本語でも)「恥知らず」はすでにこの肯定的な響きを帯びないので、私訳では「恥を受けたくないと願う」と訳した。(太字及び下線_はのらくら者による)

The meaning of the Greek word is disputed. Literally, anaideia means “shamelessness,” and some assign this shamelessness to the man at the door. ・・・Some extend this meaning to argue the word refers to this man’s “unblushing persistence”. ・・・This is almost certainly incorrect. ・・・, and the point of the parable turns not on the attitude of the man doing the knocking, but on the attitude of the man inside the house. The way forward comes by recognizing that in Greek anaideia can mean “shamelessness” in a slightly different sense. Whereas in English “shameless” people are those who are potentially capable of any foul deed because they do not care if they incur shame, in Greek “shameless” people can be those whose conduct ensures that they will avoid shame : they act in such a way that they are literally “shame-less,” utterly innocent of any shame. On this reading the word refers to the person inside the house. Because “shamelessness” in English does not readily carry this positive overtone, my rendering is paraphrastic : “desire to be without shame.” (斜体と下線_ はのらくら者による)

 

3. たとえ話の真意
 a. たとえ話の文化的背景
 →「恥を受けたくないと願うゆえに(desire to be without shame)」の「恥」の文化

  「パレスチナ文化でそうしないこと(起きてパンを与えないこと)は、その人自身と家族に恥をもたらすのです。その人は戸の前に立っている人を助けたくないかもしれず、ベッドから起き上がることを不愉快に思っているかもしれませんが、恥の文化では、その人が最終的に拒むことは断じて考えられません。」(ドナルド・カーソン)

  Not to do so in that (first-century Palestinian) culture, would bring shame upon himself and his family. He may not want to help the man at the door, and he may resent the prospect of getting out of the bed, but it is simply unthinkable, in that shame culture, that he would finally refuse.(Donald A. Carson)

 b. パンを求められた友の「恥」の理解から探るたとえ話の真意
  →「すなわち、怠惰で身勝手な仲間さえ、自分の名と家名に泥を塗りたくないという理由だけで最終的に正しいことをするなら、神はそれよりどれほどご自分の民の祈りに答えてくださるだろうか、と。何とは言っても、神はご自分の名誉を保たれるのです! 神は恵みの契約の中で、ご自分の民の必要を満たし、ご自身が完全に信頼できて当てになることを示すと誓っておられます。当てになることを証明しないわけにはいかず、さもなければご自分の名に恥をもたらすことになるのです。ですから、求め、たたき、捜しなさい。」(ドナルド・カーソン教授)

 ・・・if even a lazy and inconsiderate neighbor finally does the right thing for no other reason than that he does not want to bring shame on his name and house, how much more will God answer the prayers of his people? After all, he has his own name to keep up! He has pledged himself in covenant grace to meet the needs of his people, to prove utterly reliable and trustworthy. He cannot be less than trustworthy, or he would bring shame on his own name. Therefore ask, knock, seek.(Donald A. Carson)

 c. 5〜10節と11〜13節を繋ぐキーワード
 →「それならなおのこと」(13節)
  怠惰で身勝手な男でさえ(恥を受けたくない理由だけで)最終的に友人の求めに応じるなら、なおのこと神は求める者に応えてくださらないことがあろうか。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を・・・」(13節)

 

4. たとえ話の結論
 ① このたとえ話は祈りでの熱心さそのものを説くたとえではない。主イエスはこのたとえによって、祈りの熱心がどこから出て来るべきであるかを教えておられる。→ 神への信頼。
 ② 神は求めに応じることに消極的なお方ではないが、時として、私たちが求めたものとは違ったものを与えられることがある。それは、私たちにとって最良と思われるものを与えようとなさる神の答えである。

 

2023年8月23日 (水)

【再掲】リーダーにとって最も大切な仕事 

 

定点観測している某ブログから。

誰でも知ってるような、世界的大企業の採用トレーニング部門の責任者であるミスターB氏(Mr ビーンに似てるらしい)のことば。

リーダーにとって最も大切な仕事は?

 

後継者を育てることです。
 
そして
 
最適なタイミングで
 
その地位と権限を
 
後継者に委ねること。
 
これが出来るかどうかで
 
そのリーダーの価値が決まると言っても過言ではありません。
 
実力のあるリーダーと言うのは
 
いつでも
 
その地位と権限を手放す覚悟があるものです。
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2023年8月22日 (火)

送り手の変化に受け手が気付かず 

 

Northern-japan私が属する教派では北海道地区が東北地区より教会数で圧倒しているが、OMFの宣教の歴史としては青森県の方が古い教会が多い。北海道地区では加盟教会数に比して1950年代から開拓が始まった教会は案外少ない。

問題は、宣教の歴史が(比較的)浅い北海道で教会数が増え、なぜ青森県はじめ東北地区では停滞したのか、だ。OMFの本部が青森市から札幌市に移転したこと等諸事情あるが、私はやはり地域性の違いが大きいと見ている。だがこのことについては別の機会に触れたいと思う。

では北海道の教会が順風かと問われればそうでもないように思われる。いや北海道だけでなく同じOMFの宣教師たちによって開拓された青森県の教会も共通の問題に直面しているように思う。それは「送り手の変化に受け手が気付いていない」ということだ。この場合「送り手」とは福音宣教をした側、つまりイギリスの宣教師たちのことだ。そして「受け手」とは青森県や北海道の教会のことである。

戦後間もない頃に来日したイギリス人宣教師たちは当然、自分たちのバックグラウンドである当時のイギリスの教会の伝統や様式を背負って日本での宣教活動を行った。日本人に伝えられ教えられた福音とは、当時の宣教師たちが本国で教えられ、吸収し、彼らの五臓六腑にしみわたったところのキリスト教伝統であり価値観であり様式だ。以来、青森県や北海道の諸教会は教えられた伝統・価値観・様式を後生大事に守って今日に至っている。中にほとんど「墨守」に近い教会もあるようだ(某中堅OMF宣教師談)。問題は、福音の送り手であった宣教師たちの本国での教会とそれを取り巻く社会がその後大きく変化したにもかかわらず、受け手たる日本の教会がその変化にほとんど気付いていないことだ。福音のコア(中心・本質)はいつの時代も変わらない。だが、福音を収める容器やその伝達方法は時代によって変化するし、また変化しなければならない。そうしなければ、福音とこの世の「世界観の接触点(point of contact)」が生じないからだ。

私は1990年代半ばにイギリスで暮らした。それから約20年後の2017年〜2020年にかけて再びイギリスで生活した。(最大公約数としての)教会の礼拝様式も伝道・宣教方法も以前と最近で大きく変化していた。であるなら、1950年代〜1970年代にかけて開拓伝道した宣教師たちがもたらした伝統・価値観・様式は尚更大きく、それも激変とも言える変化を遂げていることは推して知るべしと私には思われる。しかし送り手側の変化を受け手側たる青森県や北海道の教会が気付いてない状況が続いているように見える。そしてそれはある種の硬直化をもたらす。

 

2023年8月20日 (日)

四の五の言わずに海外の大学へ行け! 

 

書いてはみたがボツにした投稿はいくつもある。今回のもその一つ。2021年4月に書いたのだが、そのままボツにしてあった。一部の読者には嫌味に映るかなと思ったからだ。しかしそれから2年以上が経過して、世の中も少しづつ情勢が変わってきていることを実感している。だから敢えてアップロードすることにした。最近 YouTubeでアップロードされた次の動画も併せて視聴されることをお薦めする。

【世界で戦う教育法】日本の「学歴」「偏差値」はもはや無価値。我が子をグローバル社会でキャリア形成させるには?【東京大学教授・鈴木寛×元ハーバード大学准教授・柳沢幸雄】

 

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今週日曜日から16年振りにTVドラマ『ドラゴン桜』(TBS系 日曜劇場)が始まった。オリジナルは三田紀房氏による漫画作品。2005年にテレビドラマ化された。今回のドラマは漫画版『ドラゴン桜2』を原作とする続編だ。有名過ぎる漫画でありドラマだから今さら説明も不要であろう。

第1話を鑑賞したが、TBS の日曜劇場らしく『半沢直樹』デジャヴ(既視感)のような回であった。俳優たちも結構かぶっているし。それもそのはず。演出は、池井戸作品でおなじみの、あの福澤克雄氏だ。これが今後、吉と出るか凶と出るか。。

それにしても16年前ならいざ知らず、今回のキャッチコピーも阿部 寛さん演じる桜木健二弁護士の「おまえら四の五の言わずに東大へ行け!」では感心しない。相変わらず「東京大学」がエリートの頂点との認識は、世界の潮流を俯瞰すれば時代錯誤の感がしないでもない。日本人の東大信仰こそ岩盤規制だ。

昨年3月まで3年間ロンドンに暮らしてみて日本人留学生(学位取得を目指す長期留学生)の激減ぶりに驚いたものだ。私が留学していた頃から20年以上が経過したが、欧米の大学及び大学院に留学する東アジア人は今や中国人であり韓国人だ。彼らのハングリー精神には瞠目させられる。更に、エリートが伝統的に英語圏の大学・大学院に留学する香港及びマレーシア&シンガポールの中華系留学生が加わる。

ここ10年ほどで、世界大学ランキングで信頼の厚いTHE(Times Higher Education)のアジア地域上位校を中国(含 香港)・シンガポール・韓国の諸大学が占めるようになった。留学生たちが母国の政財界で頭角を現したり、母国の大学の教壇に立つようになって大学教育への認識が劇的に変化しているからだろう。日本の大学シーンはガラパゴス化の一途だ。因みに東大は昨年今年と2年連続で36位であった(その前年は42位)。世界トップは5年連続で英国のオックスフォード大学。(以前に何度も書いたが、私は世界大学ランキングを「当たらずとも遠からず」と捉えている。)

Kaigai_20230822010001ところで日本人留学生の数は減っているが、その反面、日本の優秀な高校生が卒業後にそのまま海外の一流大学に進学するケースが急増しているのもここ10年ほどの傾向。彼らは東大よりハーバードやスタンフォード、MIT 、オックスブリッジ等々を選ぶのだ。そんなご時世に「四の五の言わずに東大へ行け」とは、私には世界の潮流から「周回遅れ」と映る。

ハリウッドで大ヒットしたロマンチック・コメディ映画『クレイジー・リッチ!』(原題:Crazy Rich Asians, 2018)。本作は主要キャストにアジア系の俳優のみを起用していることが話題になった。私はこの映画がお気に入りで、今まで飛行機の機内や自宅のCS放送等で計20回は鑑賞している。起用された俳優たちの顔ぶれ、そして映画が醸し出す雰囲気は、国籍を問わず今後将来どのような種類の人たちが世界の政治・経済・文化・芸術等の分野で活躍し主導権を握るかを暗示しているように思われてならない。(余談だがこの映画は単なるラブコメではない。)

もし10年後に『ドラゴン桜』がリメイクされるなら、桜木が「四の五の言わずに海外の大学へ行け!」と学生たちにチャレンジしている様を期待する。もっともその頃では「時すでに遅し」かもしれないが。。

2023年8月18日 (金)

イギリスの21世紀型階級社会 

 

Photo_20230818033601画像のとおり、イギリス社会での階級分類は20世紀型から21世紀型に変わった。

Photo_20230818034301年収ベースなら日本の牧師・伝道者の多く(福音派では大半)は「新富裕労働者」と「伝統的労働者階級」の間に分類されると思う。要するに高等教育を受けた知的労働者ではないということだ。中には修士号や博士号を持っている牧師もいるのにね。皮肉なものだ。イギリスではほぼ絶対にあり得ないけど(因みにイギリス国教会の牧師は通常「確立した中級階級」に属するとされている。主教にでもなればもちろん「エリート」)。でもこれが日本の現実。余談だが、故マイケル・グリフィス先生から聞いた話だが、日本への宣教師になると親に伝えた時、「ケンブリッジ大学を卒業してなぜそんな階級に身を落とさなければならないんだ。お願いだからやめてくれ!」と泣きつかれたとのこと。

日本では幸い「ボロは着てても心は錦」はありだ。欧米では「貧相な奴は貧相」が一般的。特にアメリカでは "There is no second impression."(第一印象には二度目がない → 第一印象がすべて。見た目がすべて)。ところが最近は日本でもこの傾向が。若い牧師夫婦の生活にショックを受けた未信者のご両親がキリスト教に躓いたという話を時々耳にする。「牧師 2030年問題」は目前だ。どうするキリスト教会。

 

2023年8月16日 (水)

悲しくてやりきれない

 

悲しくてやりきれない思いが続いている。残念ながら、どのキリスト教讃美歌より、この曲が心情を表してくれる。「このもえたぎる苦しさは 明日もつづくのか」。

 

作詞:サトウハチロー

作曲:加藤和彦

オリジナル歌唱:ザ・フォーク・クルセダーズ

 

胸にしみる 空のかがやき

今日も遠くながめ 涙をながす

悲しくて 悲しくて

とてもやりきれない

このやるせない モヤモヤを

だれかに告げようか

 

白い雲は 流れ流れて

今日も夢はもつれ わびしくゆれる

悲しくて 悲しくて

とてもやりきれない

この限りない むなしさの

救いはないだろうか

 

深い森の みどりにだかれ

今日も風の唄に しみじみ嘆く

悲しくて 悲しくて

とてもやりきれない

このもえたぎる 苦しさは

明日もつづくのか

 

«民主主義が機能する国家規模 

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