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2020年2月24日 (月)

NHK交響楽団ロンドン公演

 

管弦楽: NHK交響楽団

指 揮: パーヴォ・ヤルヴィ

曲 目:・武満 徹  『ハウ・スロー・ザ・ウィンド』

    ・R. シューマン  『チェロ協奏曲 イ短調 Op. 129』

              (チェロ独奏:ソル・ガベッタ)

      <休 憩>

    ・S. ラフマニノフ 『交響曲第2番 ホ短調 Op. 27』

日 時: 2020年2月24日 午後7時30分

会 場: ロイヤル・フェスティバル・ホール(ロンドン)

 

Img_6197 N響のロンドン公演。ヨーロッパ演奏旅行の一環だが、2年前のツアーでヨーロッパでの名声を不動のものとしたようだ。皮肉な言い方で申し訳ないが、日本での定期演奏会では見せない彼らの全力投球ぶりを海外公演では見ることができる。日本でも毎回全力で演奏したらベルリン・フィル級になれるのに・・と悔やまれる。(ベルリン・フィルの超一流性とは、プロフェッショナリズムに徹する彼らの姿勢だ。プロとは、いつも全力投球する人(団体)であることを彼らから教えられる。) 今回のロンドン公演、結論から言えば、NHK交響楽団という日本のオーケストラが世界第一級レベルのオケであることをロンドンっ子たちに見せつけた。大成功だったと思う。

Img_6176Img_6178日本のオーケストラの演奏会ということで、当日は新型コロナウィルス風評での客足を心配したが、(満席ではなかったものの)客席はいい具合に埋まっていた。演奏は武満 徹の作品から始まった。ロンドンの聴衆は日本のオケによる日本人作曲家の作品演奏を期待しているからだろう。今年は武満生誕90年の年でもある。私は曲云々については語れないが、N響木管群の優秀さに舌を巻いた。実は今回の発見とは、ドイツ音楽の伝統が深いN響であるが、私が瞠目したのは弦楽群よりむしろ木管楽器群の縦横無尽さだ。正直、意外であった。武満の世界をたっぷり奏でてくれた。翻って篠崎コンマスに注文したいのは、第一ヴァイオリン群の音色に<艶やかさ><色っぽさ>が欠けている点だ。続くシューマンの協奏曲やラフマニノフの交響曲を聴きながら(特に後者)、つい「このメロディーラインをウィーン・フィルの第一ヴァイオリン群だったらどれほど色っぽく聴かせてくれただろうか」と何度も思ってしまった。なんとかしてほしい。

シューマンのチェロ協奏曲で独奏したのはソル・ガベッタ(Sol Gabetta)。ロシア系フランス人の両親の元、南米アルゼンチンで生まれた逸材。「現代のジャックリーヌ・デュ・プレ」と呼ばれているらしいが、私はむしろ「チェロ界のパトリツィア・コパチンスカヤ」と表現したい。名前のソル(Sol スペイン語で「太陽」)のとおり、演奏もステージマナーも天真爛漫で明るい。アンコールで弾いた不思議な曲(Pēteris Vasks’ Dolcissimo from Gramata Cellam )は、ヴァイオリンのコパチンスカヤがやるような「弾き歌い」の箇所があった。ガベッタはなかなかの美声でもある。ロイヤル・フェスティバル・ホールというデッドな音響のホールで弦楽器の独奏は正直キツい。ましてや冬場は聴衆の厚い衣服が音を吸収してしまう。ガベッタもシューマンの冒頭は奏法に苦慮した模様だったが、徐々に響かせ方を工夫。後半は速いスケール箇所も朗々と響かせることに成功した。この点で指揮者パーヴォ・ヤルヴィのオケ・コントロールによるサポートも絶妙だったと思う。

Img_6186休憩後は今晩のメイン、ラフマニノフの交響曲第2番。以前の投稿でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏会をレポートした。交響曲第1番の酷評で精神的にダウンしてしまったが、N. ダーリ博士の治療と家族の励ましで立ち直ったラフマニノフ。交響曲第2番はその後に作曲された。初演から大成功だった。人生の絶頂で作曲された曲だけに素晴らしい内容となっている。特に第3楽章のメロディーは映画やいろいろな場面で用いられてきたし、最終楽章もしっかり盛り上がりをつくって終わってくれる。オーケストラにとっても演奏効果の高い曲である。

Img_6189N響首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィは、就任から5年を経てオーケストラとは昵懇(じっこん)の仲になったようだ。篠崎コンマスが「英国ニュースダイジェスト」紙のインタビューで明かしたように、指揮者とオーケストラの「化学反応」を堪能する実にスリリングな演奏となった。まさに丁々発止という感じだった。篠崎コンマスは指揮者ヤルヴィの素晴らしい女房役である。野球の投手と捕手のバッテリーのような掛け合いだった。

Img_6192 Img_6193今回の演奏会、日本のオーケストラの貫目を見せてくれた。NHK交響楽団のメンバーには心からの拍手を送りたい。イギリス人に混じって、我々日本人の聴衆も鼻が高かった。今後の課題は「常に全力投球で演奏すること」そして「第一ヴァイオリン群の更なる音色の追求」だ。ヨーロッパ音楽界の常連となる日はそう遠くないと思う。

アンコールは弦楽セクションによって、ヤルヴィの母国エストニアの曲(Heino Eller’s ‘Homeland Tune’ from ‘Five Pieces for String Orchestra’ )が演奏された。演奏前、ヤルヴィはこう聴衆に語った。「本日は、エストニア独立102周年を記念する日です(エストニアの帝政ロシアからの独立は1918年2月24日)。ロンドンという場所で、日本のオーケストラとお祝いできるのはうれしいことです。」

 

2020年2月20日 (木)

アンファン・テリブル

 

管弦楽: フィルハーモニア管弦楽団

合唱団: フィルハーモニア管弦楽団 合唱団(合唱指揮:Gavin Carr)

指 揮: ヤクブ・フルシャ

曲 目:・G. マーラー  『交響曲第2番 ハ短調 <復活>』

               ソプラノ独唱:Camilla Tilling

               メゾソプラノ独唱:Jennifer Johnston

   

日 時: 2020年2月20日 午後7時30分

会 場: ロイヤル・フェスティバル・ホール(ロンドン)

 

Img_6164フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者ヤクブ・フルシャ。彼については以前の投稿で紹介した昨年12月のベルリン・フィル定期で彼の指揮を見る予定であったが、諸事情で叶わなくなってしまった。それゆえに、今回のフィルハーモニア管定期演奏会は楽しみだった。

私は真に感動した演奏会についてはくどくど書かない。今回がそうだった。ヤクブ・フルシャは「アンファン・テリブル(恐るべき子 → 若くして成功した天才)である。断言できる。私見では、グスターボ・ドゥダメルより才能があるのではないかと思う。マーラーの2番は一昨年12月に A. ネルソンス指揮のベルリン・フィルでも聴いたが、今晩の演奏の方がオケ・合唱団とも優れていた。 

今年はもう一回、ロンドンで彼の演奏を聴く機会がある。ベルリン・フィルのデジタル・コンサート・ホールでのインタビューによれば、独バンベルク響の首席指揮者でありながら、チェコ人の彼はなんと家族とロンドンに住んでいるらしい。確かにロンドンなら、北米にも大陸ヨーロッパにもアクセスは良い。日本にも直行便で12時間だ。益々の世界的な活躍を期待している。

 

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2020年2月18日 (火)

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』

 

Maxresdefault 前回の投稿でサイモン・ラトルがベートーヴェンのオラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』を振ることに触れた。今年はベートーヴェン生誕250年記念の年である。各地で意欲的なプログラムが組まれているが、サイモン・ラトルも積極的だ。

ベートーヴェンがオラトリオを作曲していたなんて知らなかった人も多いだろう。かく言う私もそうである。この曲は1803年に作曲され、翌1804年4月にベートーヴェン自身の指揮でウィーンで初演された。同じ日に交響曲第1番&第2番が演奏され、ピアノ協奏曲第3番も初演されたそうなので(全部で4時間以上!)、当時は猛烈音楽会が普通だったのだろう。聴衆の評判がよかったのがこの『オリーヴ山上のキリスト』だった。実際、ベートーヴェンの生前には80回以上演奏されている。しかし彼の死後、今日まで滅多に実演されることがない曲になってしまった。作曲から何回かの改訂を経て8年後の1811年に最終稿の楽譜が出版されている。原題のChristus am Ölberge は、『オリーヴ山上のキリスト』の他に『橄欖(かんらん)山のキリスト 』等にも和訳されている。「橄欖(かんらん)」とはオリーヴのことである。

サイモン・ラトルはベートーヴェン生誕250年記念の目玉として、この曲をすでにロンドン交響楽団と今年1月19日と2月13日の定期演奏会で演奏している。そして来月の3月5日〜7日にかけて3日連続でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に客演して振ることになっている。ロンドンでは聴き逃したので、ベルリンで聴ければと願っている。

全曲で約60分の規模。「第九」や「荘厳ミサ」に比べれば小規模だ。ただ残念なのは、オラトリオでありながらベートーヴェンは歌詞を聖書から引用していない。フランク・フーバーという台本作家のオリジナル作品を用いたのだ。音楽的には間違いなくベートーヴェンだ。特に最終曲 "Welten singen Dank und Ehre 世界は賛美と感謝を(dem erhab’nen Gottessohn 神の全能の御子に)歌う" はまさにベートーヴェンのハレルヤ・コーラスだ。英訳版ではWelten singen Dank und Ehre の部分を Halleluiah ハレルヤと訳している。マエストーゾからアレグロへと盛り上がって曲を結ぶ。ぜひ聴いてほしい。動画(音源のみ)はオリジナルのドイツ語版のもの。

 

 

2020年2月16日 (日)

サイモン・ラトルの「第九」

 

管弦楽: ロンドン交響楽団

合唱団: ロンドン交響楽団合唱団(合唱指揮:Simon Halsey)

指 揮: サー・サイモン・ラトル

曲 目:・A. ベルク  『ルル組曲』

              (ソプラノ独唱:Iwona Sobotka)

      <休 憩>

    ・L. ベートーヴェン 『交響曲第9番 ニ短調 <合唱> Op. 125』

               ソプラノ:Iwona Sobotka

               メゾソプラノ:Anna Stephany

               テノール:Robert Murray

               バリトン:Florian Boesch

日 時: 2020年2月16日 午後7時

会 場: バービカン・ホール(ロンドン)

 

Img_6171 引っ越しのための荷物搬出を翌日に控えながら、少し遅いバレンタインのデートも兼ねて礼拝後に妻と出かけた。任期の最後はヨハネの黙示録2章〜3章の「小アジアの七つの教会」の講解説教を行っている。本日は第3番目の教会「ペルガモンの教会」であった。ジョン・ストット著 "What Christ Thinks of the Church" は七つの教会についての優れた講解説教集だ。いろいろ示唆をいただいている。余談だが、かつてペルガモンには「ゼウス大祭壇」という巨大な祭壇があった。今は現地(トルコ西部の都市ベルガマ)にはその土台しかない。20世紀初頭にドイツが上部を持ち去ってしまったからだ。現在は首都ベルリンの「ペルガモン博物館」に展示されている。今月末に見学に行く予定。

 

Img_6139 先月16日の演奏会と同様、アルバン・ベルクとベートーヴェンの作品。今宵は『ルル組曲』(オペラ"ルル"からの交響的小品』)と『第九』。ルル組曲での独唱はイヴォナ・ソボトカがつとめた。彼女は「第九」でもソプラノを歌った。彼女は来月、ラトル指揮のベルリン・フィル定期でもベートーヴェンのオラトリオ『オリーヴ山上のキリスト(Christus am Ölberge, Op.85)』を歌う。以前にはラトル&ベルリン・フィルのアジアツアーでも『第九』を歌っていることから、ラトルと相性が良いようだ。今晩も豊かな声量とテクニックでこの20世紀音楽を歌い上げた。

Img_6140ロンドン交響楽団合唱団はプロの合唱団。声量が半端ない。これに比べたら昨年12月の『メサイア』コンサートは学芸会レベルだった。350名のコーラスというふれこみだったが、実際はおじいちゃん・おばあちゃん合唱団の学芸会。フィルハーモニア管弦楽団は彼らに雇われたのだろう。そういえば聴衆のかなりが合唱団メンバーの一族郎党のようだった。お金を払って学芸会に付き合わされた感じ。

Img_6144 Img_6153結局『第九』も先月16日の『交響曲第7番』と同様の疑問を感じながらの鑑賞であった。ラトルはオケには古楽式に弾かせながら、合唱団には結構ダイナミックスを激しく歌わせていた。従って、オーケストラの奏でる音楽は古典派、合唱団の歌はロマン派という感じで、聴覚的に違和感があったのも正直なところ。

それにしても毎度思うのだが、ロンドンの聴衆は淡泊というかドライというか、他の国だったらまだまだ拍手と舞台コールが続くであろう雰囲気の中で皆さっさと帰り始める。ラトルはこんな国に帰って来たことを後悔してないのだろうか??(ベルリンだったら聴衆にもっと温かく遇してもらえるのに。。)

 

2020年2月15日 (土)

『マチネの終わりに』を観た

 

Img_6133 映画『マチネの終わりに』をようやく観ることができた。日本では昨年11月1日が封切りだったから3ヶ月半が経ってしまった。

「略奪愛(不倫小説)」と「大人の愛」のギリギリの境界線は、(誰かが言っていたが)「業(カルマ)を背負う恋愛」かどうかということなのだろう。結末で、蒔野が(早苗と子どもを捨てて)洋子を選ぶのかどうか、それは観客の想像に委ねられることになる。友人として過ごすのか、それとも二人は結ばれるのか、それは劇中で繰り返される「未来が過去を変える(変え得る)」との言葉で各自が解釈すればよいのではと思う。

平野啓一郎氏の原作小説にはルカの福音書10章38ー42節の「マルタとマリア」の物語などが引用されているが、映画では言及されていなかった。私の浅薄な解釈では、愛の表現の形としてマルタが早苗でマリアが洋子ということなのだろうか。聖書の中での主イエスの示唆には別にもっと深い意味があるのだが。

Img_6135 この映画の特長は何と言っても、全編を通して流れるギター音楽である。エンド・クレジットによれば、演奏のほとんどはギタリストの福田進一氏が担当しているようだ。日本を代表する世界的ギタリストだから当然の起用であろう。一方、画像にある巨匠アンドレス・セゴビアを記念する演奏会のシーン。蒔野が弾いている曲はアグスティン・バリオスの『大聖堂』。史実として、セゴビアはバリオスの音楽を嫌悪していたから、記念演奏会の選曲としては??と思う(もっとも、蒔野は途中で演奏を止めてしまうが)。

 

きれいな映像を見ながら美しいギター音楽を聴くだけでもこの映画を観る価値はあると私は思った。

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2020年2月11日 (火)

スイス訪問

 

Img_6051 今週の聖日(2/9)は「スイス日本語福音キリスト教会」での礼拝説教奉仕であった。ロンドンから約1時間15分のフライトでスイス・バーゼル空港に到着。バーゼルは、スイスとドイツとフランスの国境が接する都市。スイスの空港でありながら、空港ターミナルはフランス領土にある。従って税関出口はフランス側とスイス側の2つがある(画像参照)。フランス側はフランス語で、スイス側はドイツ語で表示されている。因みにスイスの主な公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語である。その他、ロマンシュ語という言葉が一部地域で話されている。

礼拝に先立ち、先週の金曜日から日曜日にかけてバーゼル近郊にあるマエストロ今村のご自宅に妻と共にお招きいただく光栄にあずかった。マエストロそして奥様のY夫人と二人のお子さんたち(成人のS君とNさん)の歓迎を受けた(あと猫ちゃんの「はな」も)。実に、実に、濃厚でプライスレス(priceless)な時であった。毎晩、明け方近くまでご夫妻&お子さんたちと語り合った。クリスチャンの素晴らしい交わり。

Img_6108 土曜日はスイス中部の都市ルツェルンの近くにあるピラトゥス山の山頂付近まで、ロープウェイの旅にお誘いいただいた。因みに Wikipedia によれば「ピラトゥスの名前はイエスを処刑したとされる古代ローマの司令官、ポンティウス・ピラトゥス(ピラト)にちなんでおり、ピラトゥスの亡霊がたどり着いたという伝説がある」とのことである。

 

Img_6082_20200211023001 Img_6104 スイス・アルプスの雄大な景色と眼下に広がるルツェルン湖そしてルツェルンの町並みに魅了された。ご家族と一緒の写真もあるが、勝手にアップする訳にも行かないので、ここはマエストロと私共夫婦の写真のみで。

 

Img_6109 Img_6117 ルツェルン駅前にて。そしてルツェルン湖をバックに。ここは夏の保養地であり、有名なルツェルン音楽祭が開催される。

 

Img_6659 おかげさまでスイス日本語福音キリスト教会(礼拝場所はチューリヒ近郊の教会堂)での奉仕は守られた。留守を守ってくれたロンドンの教会員に感謝したい(特に礼拝説教の奉仕をしてくれた教会員のB姉に)。聖日の晩は、ロンドンの教会の役員M兄のご両親のご自宅(在バーゼル)にお招きいただいた。マエストロ今村宅でのお交わりと同じく、実に濃厚で貴重な一晩であった。翌朝、Mご夫妻は私共をバーゼル空港まで送ってくださった。別れが名残惜しかったが、3月下旬にロンドンの教会にお越しくださるとのこと。再会を心待ちにしている。また、いつかご夫妻と「カール・バルトの足跡を訪ねる旅」をご一緒したい。バーゼル大学神学部は、あのバルトが教鞭を執った大学であり、バーゼルはバルトとその家族が暮らした街である。

 

 

2020年2月 6日 (木)

グッド・リダンス!

 

2月4日付の『フィナンシャル・タイムズ』紙の記事。

‘Thanks, goodbye and good riddance’ — EU’s parting words to UK

 

Irene-andrassy EU 議長国クロアチアイレーナ・アンドラーシ駐 EU 大使。1月29日の大使級会合でやらかしてしまった。この日は英国が加盟国として出席する最後の会合。英国のバロウ駐 EU 大使に対して誤って「グッド・リダンス(good riddance)」と別れの挨拶をしてしまったのだ。

good riddance とは "a phrase to express your relief of a troublesome person or thing"、即ち「厄介払い」という意味だ。要するに、挨拶で使うと「(厄介払いができて)せいせいした」という意味になる。彼女は「グッド・ラック」つまり「(離脱後の)成功を祈る」の意味のつもりだったと釈明するが、実際のところ EU 側の本音であろう。因みに、英国側は特に問題視しなかったらしい。でも、やらかしちまったー。

 

2020年2月 5日 (水)

ピアノ版 連合王国国歌

 

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland

国歌 "God Save The Queen"

 

Vs 私が最初にこの曲に魅せられたのは、1975年12月11日、蔵前国技館(当時)で行われたアントニオ猪木 vs ビル・ロビンソンのタイトルマッチであった。試合前の国歌吹奏で英国国旗ユニオンジャックとビル・ロビンソンの顔が重なった映像が忘れられない。試合の立会人は鉄人ルー・テーズと "神様" カール・ゴッチ。そして試合をさばくのはアメリカ・マット界の名レフェリー、レッドシューズ・ドゥーガン。なんとも豪華な顔ぶれだった。試合は60分3本勝負、フルタイムに戦っての時間切れ。プロレス史上屈指の名勝負だった。

 

2020年2月 3日 (月)

ピアノ版 イスラエル国歌

 

見事な編曲と演奏。

イスラエル国歌。「ハティクヴァ(希望)」

国際政治や神学がからむとややこしいが、純粋に音楽として良い曲だと思う。

この曲は、実は前奏部分が優れていると思うのだが、このピアノ編曲ではいい味を出している。

またメロディーのところどころに装飾音のプラルトリラ—をさりげなく散りばめているのがバロック風でよい。

 

え、ブレグジットのこと? その話題はまたいつか。

 

2020年1月27日 (月)

キリル・ペトレンコのマーラー6番

 

管弦楽: ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

指 揮: キリル・ペトレンコ

曲 目: ・G. マーラー 

     『交響曲第6番 イ短調 <悲劇的>』

日 時: 2020年1月23日 午後8時

     2020年1月24日 午後8時

会 場: フィルハーモニー・ホール(ベルリン)

 

Img_6048 今シーズンから首席指揮者兼芸術監督(シェフ)に就任したキリル・ペトレンコ。しかし昨年はほとんどベルリンには登場しなかった。バイエルン州立歌劇場の音楽監督も兼任しているし、今や世界中で引っ張りだこの人気だ。あちこちで客演しているのだろう。当ブログでもイスラエル・フィルに客演した模様を報告した。ペトレンコが本格的にベルリン・フィルの定期公演に登場するのは年明け以降だ。まずは年明け早々にダニエル・バレンボイムをソリスト(ピアノ)に迎えての公演があった。第二弾が今回の G. マーラーの『交響曲第6番』である。3日間続く演奏会の内、初日と中日の公演に行ってきた。

Img_6047 マーラーの6番はペトレンコにとって2つの意味でチャレンジングだ。1つは名誉挽回の点である。ベルリン・フィル2014年12月公演への客演の際、彼はマーラー6番をひっさげて登場する予定だった。しかし、リハーサル開始直前に雲隠れ。もちろん公演は実現しなかった。音楽評論家・舩木篤也氏によれば「持病の腰痛がその理由らしいが、『ディ・ツァイト』紙などは、「次期首席候補であることに怖気(おじけ)づいているのは明らか」」と断じたとのこと。今回の公演はその雪辱を果たし、汚名返上する機会としてチャレンジングだった。もう1つは、前任者サイモン・ラトルとの関係においてである。ラトルのベルリン・フィル・シェフとしてのキャリアはマーラー6番で始まった。そしてシェフとしての最後もマーラー6番で締め括った(因みにこの演奏会の模様は豪華な DVD & CD セットとしてベルリン・フィルから発売されている)。つまり前任者のキャリア集大成の曲に、新任者が挑戦する意味でチャレンジングであったのだ。

Img_6027 音楽ファンは当然、こうした経緯を熟知している。従って前評判はうなぎ登りとなり、実際、3日間の演奏会チケットは発売初日に完売した。私は運良く2日分のチケットを入手できた。初日は舞台中央から右よりの座席(5列目)、2日目は左よりの座席(4列目)であった。場所を変えることでホール内の音響の違いを体感することができた。コンサートマスターはベテランのダニエル・スタブラーヴァ。他にもベテランとしてチェロ首席のルードヴィヒ・クヴァントやオーボエ首席のアルブレヒト・マイア—などが顔を揃えた。

Img_6024初日の聴衆の期待の高まりは演奏前からひしひしと感じられた。第1楽章冒頭の有名な行進曲風第一主題。チェロとコントラバスが刻む重厚なリズムの上にヴァイオリンと管楽器が跳躍下降のメロディーを奏でる。聴衆の期待を一身に受けたベルリン・フィルの音圧が凄い。前の週にロンドン交響楽団を聴いたが、音の立ち上がりの迫力が全然違う。オケの格の違いを思い知らされた。この曲は大編成かつ緻密に書かれているから、ベルリン・フィルのようなヴィルトゥオーゾ集団、銀河系軍団にまことに相応しい。冒頭の10小節ほどでペトレンコ&ベルリン・フィルは聴衆の心を鷲掴みにした。第1楽章フィニッシュの直後、舞台上に設けられた座席に座る若い人から「ワオ!」の歓声が上がる。「御意!」とばかり聴衆から笑いが漏れる。恐らく、オーケストラの演奏会に初めて来た若者だったのではないか。若い世代にクラシック音楽が感動を与えることができたなら何よりである。

358c19ccd1eb4c92b765eed08e630be1 Photo_20200127225901 この曲は様々な打楽器が用いられていることでも有名だ。作曲当時、画像のような風刺画も描かれた。鞭や牛鈴、果てはハンマーの打撃(終楽章)まで採り入れられている。前作交響曲第5番の勝利の終結から一転、闘争的な悲劇性に満ち、絶望的な破局で終わる第6番。悲劇的表現としてマーラーが求めた音楽語法だったのだろう。ペトレンコは、楽曲の極めて古典的な形式(4楽章構成の交響曲)と斬新な和声のコントラストを強調。その矛盾を際立たせることで形式を凌駕する音楽を抽出。音楽(悲劇性)が運命の束縛(形式)を乗り越えて行く様を描き出した。中間楽章については、従来のスケルツォ(第2楽章)→緩徐楽章(第3楽章)の順ではなく、最近の全集版に準拠してその逆の順(緩徐楽章→スケルツォ)で演奏された。この順序の入れ替えが、上記の解釈を際立たせると見ている。最終楽章のハンマーも従来の3回ではなく、2回であった。

Img_60402日間を通じた印象。ペトレンコは見事に雪辱を果たした。初日は聴衆の期待に応え、オーケストラを全開で演奏。迫力の悲劇性で押し切った。2日目はラトルの演奏との比較を意識させた。ラトルの思い入れたっぷりの演奏に対し、ペトレンコは持ち前の研究心・探究心で曲の隅々まで目配りをし、作曲者の意図を彼なりに忠実に表現してみせた。ベルリン・フィルというスーパー・オーケストラは指揮者の指示に共感をもって服従。このコンビには今後ますます期待が高まると思う。(となると、チケットも入手し辛くなるか。。) 因みに3日目の演奏会は、後日に「デジタル・コンサート・ホール(DCH)」のアーカイヴで鑑賞することにしよう。

2ヶ月後には本帰国なので、フィルハーモニー・ホール(ベルリン)での演奏会は当分、見納めとなる。本当に良い思い出となった。ペトレンコ&ベルリン・フィルのコンビには今年5月のイスラエル公演での再会を楽しみとしたい。(毎年5月1日のベルリン・フィル「ヨーロッパ・コンサート(Europakonzert)」。今年はイスラエルのテルアビブで行われる。主な曲目はマーラーの4番。翌2日もテルアビブで今度はマーラー6番。3日はエルサレムで同じくマーラー6番が演奏される。) ペトレンコ&ベルリン・フィルのコンビが来日した際は、日本のクラシック音楽界を席巻することは間違いないと思われる。その日が待ち遠しい。

 

2020年1月22日 (水)

アプレンティス(丁稚・でっち)

 

過日の投稿「すべての神学校関係者は『教場』を視るべきだ」に関連して。

トランプ米大統領が不動産王としてニューヨークに君臨していた時代、同所を舞台とした『アプレンティス(The Apprentice)』というリアリティ番組のホストをつとめていた。出された課題を参加者がチームで取り組み、課題の最後に全員をボードルームに集め、勝者を発表。敗者の中から脱落者を選び、トランプ氏が「君はクビだ!(You're Fired!) 」と宣告する。トランプ氏はこの決め台詞で有名であった(作者は WWF のプロレス興行王ヴィンス・マクマホンであったらしい)。

英語の「アプレンティス」とは「見習い」とか「丁稚(でっち)」のことである。私自身としては「丁稚」の響きを好む。要するに見習いとして「誰よりも早く職場に到着し、誰よりも遅く帰る者」のことである。

私たちの教会はロンドン市内の英国教会(イギリス国教会)福音派(ローチャーチ)の教会会堂を使用させていただいている。毎年、英国人アプレンティスの人たちが教会にやって来る。彼らは普通、数年間をまさに「丁稚」として教会で奉仕する。その働きぶりを主任牧師(Vicar や Rector)・教会執事たち(deacons)、そして教区(parish)の上層部に評価される。ここまで来て初めて、いわゆる「献身」して神学校に進ませるかどうかの判断の対象となる。丁稚期間の評価が不合格であった場合、「悪いことは言わない。あなたは別の道に進んだほうがよい」と宣告される。

従って、丁稚期間を経ることなく神学校に進む可能性はほぼ無い(特に30代までの若い世代は)。神学校進学後も、学校からの評価レポートが所属教会や教区に随時報告される。不適格と判断されれば退学を勧告されることもある。私がウィクリフ・ホールにいた頃、学士課程・博士課程で退学を余儀なくされた者がいたことを耳にした。彼らは ordinand と呼ばれる国教会の神学生であった。厳しいなあと思った。

余談だが、教会にやって来た見知らぬ若い英国人アプレンティスが日本人の私のことを不審に思い、(私からすると少々エラそうに)あれこれ話しかけたり場合によっては上から目線で教会の規則などを伝えようとすることがある。後日、教会のスタッフ・ミーティングの場などで「あの日本人牧師はウィクリフ・ホールの卒業生だ」と告げられるや、「失礼しました!」とばかり態度や言葉遣いが急変することが何度かあった。この余談は私の自慢話ではなく、アプレンティス(丁稚)とはそういう身分の者だ、ということだ。

アプレンティス(丁稚)が見習い期間中に何を評価されるのだろう。分野は違うが、中野 雄(たけし)氏は著書『小澤征爾 覇者の法則』(文春文庫)の中でこんなことを述べている。

 

私は音楽プロデューサーとして数多くの音楽家の卵と接してきたが、彼や彼女等の人生航路の岐路は、何事か未知の事柄に出逢い、未知の経験をしたときに、それを単なる "出来事" か "想い出" の記憶に留めてしまうか、それを次なる人生のための知恵に変え、飛躍か転換の糧となしうるか否かで決まるという、冷厳な事実に何回か直面してきた。 (同書 p. 94)

 

音楽家の卵だけでなく、伝道者・牧師の卵も同じだと思う。私の人生での観察と中野氏の見解は一致する。アプレンティスの期間に、この資質があるかどうかはほぼ判明する。そして、アプレンティス期間を端折る者、つまり小賢しく「近道」を講じる者は、その機会を逸することとなる。中野氏は続ける。

 

昨今の海外留学生がいかに恵まれているか。恵まれているが故に、何を学び損ない、身に着け損なっているかーーかつて私は『ウィーン・フィル 音の響きの秘密』(文春新書)という書物の中で小澤征爾の痛烈な言葉を紹介したことがある。彼はNHKのテレビ・インタビューの中で、「後輩のひとりに、『ぼくは小澤先生のような廻り道はしたくない』って言われちゃったんですよ」と告白し、凄みのある笑みを頬に浮かべたのである。記憶に誤りがなければ二度、彼はテレビの画面を通して視聴者に同じ言葉を伝えた。口調は穏やかで、半ば冗談めかした響きも伴っていたが、瞳の奥に潜む憐憫と軽蔑のほの暗い光を私は見逃がさなかった。 (中略) 出会った事柄を経験として、また教訓として脳内に蓄積し、それを次の瞬間に、あるいは一定の時を経たのちに、その人の "自己表現" に変質させて他人に提示できるか否かで人生の勝負は決する。事柄を単なる事象=そのとき起こったこととして記憶に留めただけでは、次なる発想の起爆剤にはなり得ない。忘却してしまったなら論外。 (中野 雄 同書 p. 111-112 太字は原文の傍点)

 

上記文章の海外留学生を神学生に置き換えてみよ。「近道」を講じる(廻り道を避ける)者とは「何かを学び損ない、身に着け損なう」者である。丁稚の期間が無かった者、または丁稚の期間に「経験を蓄積し、次にそれを "自己表現" として変質させる」資質を欠いた者が「ふるい」にかけられることなく現場に送り出されたら、その者の先々はほぼ見えたも同然である。

 

こんな話を聞いたことがある(パウロの第二コリント書12章2節風に)。ある教会の牧師が神学校卒業直後の者を副牧師に迎えた。副牧師という肩書きであり「1年間は試用期間」と教会規則に則ってあらかじめ説明してあったので、その者には「アプレンティス」としての行動を期待していた。神学校で当然、そのような教育と訓練を受けてきたと思っていた。ところが実際は「誰よりも早く教会に到着し、誰よりも遅く帰る」姿勢は到底望むべくもないことが判明した。残念ながらその者の伴侶も同様だった。本人はとにかく時間にルーズで、伴侶はよく教会行事をドタキャンした。時が経ち、やがてその副牧師が牧師に昇格し、主任牧師となった。教会で何が起こり、どうなったかは言うまい。1つだけ、ある教会員(複数)が教会を去る時にこう言ったという。

 

「何がうれしいかって、これ以上あの(牧師の)説教を聞かずに済むことだ」

 

痛烈な一言であるが、本質を突いている。アプレンティス期間をいい加減に過ごした結果、この牧師は「出会った事柄を経験として、また教訓として脳内に積し、それを次の瞬間に、あるいは一定の時を経たのちに、その人の "自己表現" に変質させて他人に提示できる」資質が欠如していることに気づく機会を逸してしまった。それに気づかぬまま牧師を続け、それが礼拝説教に如実に現われたのだ。時すでに遅し。トランプ氏なら「君はクビだ!(You're Fired!) 」と宣告するところだろうが、そのまま居座り続けることができてしまうのもキリスト教会というところだ。

英国教会は確かに病んでいる部分もあるが、こと献身志願者にアプレンティス(丁稚)期間をしっかり設けるところはさすが「腐っても鯛(たい)」と思わせる。

 

2020年1月21日 (火)

エリザベス女王の鉄拳裁定

 

ヘンリー王子とメーガン妃の英王室離脱問題。ブレグジットに続き、英国は新たな "離脱" 問題に直面している。

Queen エリザベス女王の裁定結果は日本でも報道のとおりである。(画像を注意深くご覧あれ。ヘンリー王子一家の写真は女王の机上にはない。) 女王は王子が希望した「半公半民」の立場を認めず、王室ブランド(王族の称号)を金儲けの手段にすることを許さなかった。可愛い孫息子のことだが、英王室の権威のために「泣いて馬謖を斬る」決断だったのだろう。しかし、女王を批判する世論が起きることは当然予想される。他方、メーガン妃の実父や異母姉から王子夫妻のやり方には批判が出ている。「ハード・ブレグジット(EU からの強硬な離脱)」をもじって、英マスメディアでは「ハード・メグジット(王室からの強硬離脱)」との造語が踊っている。メーガン妃は王室にとって「トロイの木馬」かと。

英国社会には衝撃が走っているが、私自身は女王の裁定は賢明だったと思っている。世論も、王子夫妻の自立を応援する声は多くても、お金の問題に関しては概して厳しい。コリン・ジョイス氏は大勢の英国人の本音として

 

いかに彼らが信じ難い富と幸運に恵まれているかということ、それを自らの功績ではなく生まれついての偶然で手に入れたことを彼らに思い出させてやりたい、という願望が表れている。僕や一般のイギリス人は言うなれば、彼らが「労せずして得た特権」の分だけ身を尽くして働くことを当然だと思っている。(ニューズウィーク日本版コラムより)

 

と述べている。つまり王子夫妻はノブレス・オブリージュを果たしていないと。

1936年、エドワード八世も米人女性シンプソン夫人を選び、王位を捨てた。王室離脱は前例がないわけではない。

私自身は、王子夫妻の結婚式の時からメーガン妃が英王室に溶け込めるか懸念していた。米国聖公会総主教の説教を喜々として聴いていたのは彼女のみ。他の王室関係者は一様に無表情(というか呆れ顔)であった。

 

信仰のための戦い Contending for the Faith

 

今回の危機は「想定内」が正直なところ。。

 

2020年1月20日 (月)

上杉謙信!

 

その昔、ロンドンの地下鉄がまだ窓口で切符を販売していた時代。

日本人旅行者が窓口で行き先を告げたが通じない。

何度か発音し直しても、それでも通じない。

ついにダメもとで叫んだ。

 

上 杉 謙 信!

 

切符が出てきた。

 

West-kensington

 

 

 

2020年1月18日 (土)

ゼロ・リスクという宗教

 

広島高等裁判所は四国電力伊方原原子力発電所3号機の運転差し止めを求めた仮処分の抗告審で、差し止めを認める判決を下した。決定を認める理由に九州・阿蘇山の火砕流の到達を挙げた。

阿蘇山の火砕流。。。これを聞いて私は絶句した。阿蘇山の噴火と約160km離れた伊方原原発までの到達がいったいどれほどの確率なのだろう。因みに、阿蘇山の最後の大噴火(4回目の Aso-4 )は9万年前の出来事である。裁判長のゼロ・リスク信仰はほとんど宗教の領域だ。ここまでゼロ・リスクを求めるなら、富士山噴火の可能性で山梨&静岡両県はもちろん首都圏下の人々の生活と営みはすべて無意味ということになる。

 

Death-rates-by-university-of-oxford 英オックスフォード大学の公式ウェブサイトに医学的データに基づく「ほとんどの人の信じるのとは逆に原子力はすべての主要なエネルギーの中でもっとも安全である(It goes completely against what most believe, but out of all major energy sources, nuclear is the safest)」というページがある。画像の表は1TWh発電するときの直接被害(大気汚染や採掘事故や放射線被曝)で本来の寿命より早く死ぬ人数を比較したもので、上から褐炭の火力発電・普通の石炭の火力発電・石油の火力発電 、以下バイオマス・天然ガス・原子力と続く。褐炭火力発電での死亡は 32.27人。一番低いのは原発で、その放射能で死ぬ人は 0.07人である。

Our World in Data

 

オックスフォード大学の科学的根拠に基づくデータと日本の裁判官のゼロ・リスク信仰。どちらを信じると問われれば、私は前者と答える。以前の投稿でも書いたとおり、原発問題の難しさは

a)「安全」をはかる基準である科学的・客観的確率計算
b)「安心」の根拠となる主観的感情(=心理的合理性)
c)それらが「政治」の現場に及ぼす影響

のバランスにある。しかしまずは「安全」に関する科学的・客観的確率計算という定量的思考を軸に定めないとまともな議論にはならない。

再度ことわってくおが、私は「ゼロ・リスク」の立場は採らない。基本的に安全と危険は「トレード・オフ」(折り合い・落とし所)の関係にあると日常生活の知恵と実践からそう思っている。従って私は、筋金入りの反原発派でもなければ、いわゆる原発推進派でもない。原発問題を冷静に議論したいだけなのだ。

最後に。ナシーム・タレブの『ブラック・スワン』は誰もが一度は読んでほしいと思っている。因みにタレブはレバノン系アメリカ人である。

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2020年1月16日 (木)

サイモン・ラトルのベルクとベートーヴェン

 

管弦楽: ロンドン交響楽団

指 揮: サー・サイモン・ラトル

曲 目:・A. ベルク  『7つの初期の歌曲』

              (ソプラノ独唱:ドロテア・レシュマン

           『パッサカリア』

           『管弦楽のための3つの小品 Op. 6』

      <休 憩>

    ・L. ベートーヴェン 『交響曲第7番 イ長調 Op. 92』

日 時: 2020年1月16日 午後7時30分

会 場: バービカン・ホール(ロンドン)

 

今宵のロンドン交響楽団定期演奏会は20世紀音楽のアルバン・ベルクと19世紀のベートーヴェンの作品。今年はベートーヴェン生誕250年記念の年なので、今シーズンの世界各地での演奏会では特集が組まれている。サイモン・ラトルは今月に7番、来月に9番(合唱)でロンドン響を振る。また、ロンドン響が本拠地とするバービカン・ホールでは、5月にサー・ジョン・エリオット・ガーディナー指揮によるベートーヴェン交響曲全曲演奏会も予定されている(オケは「オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック」)。

Img_6008 Img_6009プログラム最初の曲はアルバン・ベルクの『7つの初期の歌曲』。ソプラノ独唱はドロテア・レシュマン。1967年、独・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州フレンスブルク出身のソプラノ歌手。世界各地の歌劇場で活躍しつつ、ドイツ・リートの歌唱でも高い評価を受けている。ピアニストの内田光子と共演したシューマンとベルクの歌曲アルバムが2017年の第59回グラミー賞ベスト・クラシカル・ソロ・ヴォーカル部門を受賞し、話題となった。『7つの初期の歌曲』はベルクがまだアルノルト・シェーンベルクの弟子だった時の作品。従って、後年のベルクの作風となった十二音技法は用いられておらず、むしろリヒャルト・シュトラウス風な歌曲である。ラトルのしっかりしたサポートを受けつつ、レシュマンは情緒豊かに歌い上げた。

この日の演奏の白眉は次の『パッサカリア』と『3つの小品』であった。後者は①前奏曲(Präludium)・②輪舞(Reigen)・③行進曲(Marsch)の3曲から成る。パッサカリアから休みなく続けて演奏されたので、全4曲の組曲風であった。『3つの小品』 の作曲年代が 1913-15年なので、ベルクの代表作オペラ『ヴォツェック』と同時期であることから、本格的な無調音楽作品となっている。拡大四管編成の大編成オケ。ラトルの棒は冴えわたり、的確なアインザッツによる音色の変化とデュナーミク(強弱)の指示。一般聴衆には難解であろうこの曲を実に明快な構成で提示してみせた。終曲「行進曲」が終わると私だけでなく聴衆が「ブラボー!」の歓呼。ロンドン響のメンバー(特に第一ヴァイオリンのセクション)は、ベルリン・フィルやウィーン・フィルのような独特なオーラを放ってはいなく、どちらかというとなんとなく貧相で(失礼ながら)見た目はイギリスの労働者階級のような面々だが、「やるときゃやっとるッス!」という底力を見せてくれた。因みにコンマスはゲストであった。

 

休憩後は今晩のメイン、ベートーヴェンの7番。全体としては秀逸な演奏であったが、私にはどうも古楽スタイルの演奏(ピリオド奏法?)はピンとこない。オケがダウンサイジングの小編成であったことはともかく、弦楽セクションがまったくのノン・ヴィブラート奏法で、私にはなんとも味気なく感じる。特に第1楽章。ところどころにヴィブラートを入れた方が曲がずっと美しく響くと思うのだが。。古楽復興運動は、従来の行き過ぎたヴィブラート奏法への反動から勃興したのであろうが、今日では逆にもう一方の極端となってしまった感がある。どの世界・分野でも、振り子のように極端から極端に振れるものだ。古楽復興運動も一種の「流行」と私は割り切っている。かつてウィーン・フィルのコンサートマスターだったウェルナー・ヒンク氏は次のように語っている。

 

私はモーツァルトを演奏する場合、モーツァルトの時代に響いていた音楽の「真似」や「再生」をしたいわけではないのです。そうではなくて、モーツァルトが楽譜に書き込んだ情報、あるいは書き込むことのできなかったニュアンスを汲み取り、今を生きる私の視点から彼の思いを「再創造」したい。もちろんそれにあたっては、モーツァルトの手紙を読むことも手がかりになるでしょうし、あるいは第三章でも述べたようにダンスの感覚を身に付けていることも大事でしょう。ただしこれらのことを学ぶのは、あくまで「再創造」をしたいという目的があるからです。それを忘れてしまってはいけません。 (ウェルナー・ヒンク(語り) 小宮正安訳・構成 『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』 ARTES 刊 pp. 239-240)

 

今日流行のノン・ヴィブラート奏法に関して、私自身はW. ヒンク氏の言葉に全く同感である。一方、サイモン・ラトルほどの指揮者であれば当然、ヒンク氏らのような意見は百も承知であろう。その上で7番の解釈として古楽奏法を採り入れるのは彼なりの考えがあってのことだろう。ただ私には、どうもしっくりこないのだ。

 

古楽復興運動のもう1つの大きな変化は「アーティキュレーション」または「フレージング」である。要するにフレーズ(楽句)の区切り方だ。我々の日常会話でも例えば「ココデハキモノヲヌイデクダサイ」という音を「ココデ、ハキモノヲヌイデクダサイ」と区切れば「ここで履き物を脱いでください」という意味に解されるだろう。「ココデハ、キモノヲヌイデクダサイ」と区切れば、「ここでは着物を脱いでください」と解されるだろう。端折って言えば、アーティキュレーションとはこういうことである。音楽でも、フレーズの区切り方によって曲の解釈は変わり、曲想が変わってくる。楽器の奏法(例えば弦楽器の運指)や管楽器や歌唱のブレス(息つぎ)にも大きな影響を与える。

古楽復興運動では、アーティキュレーション(フレージング)は概して短めに、また各音は均等に弾かれる傾向がある。まずは後者について再びヒンク氏の言葉である。

 

たとえば四分音符と八分音符がスラーでつながっており、しかも前の四分音符のほうが音が高く、後の八分音符のほうが音が低いといった場合。こうした時に、ウィーン・フィルで通常採用している演奏の方法は、「ティーャ」という感じになる。同じ音型が二回三回と続くと「ティーャ・ティーャ・ティーャ」という弾き方になり、前の音のほうが後よりも大きく、なおかつ弾き終わった後に息を静かに吐き出した時のような余韻が残ります。

ところが古楽復興運動の人たちは往々にして、八分音符は厳密に八分音符でなければならない、と主張を強固に持っており、場合によっては八分音符は楽譜に書かれている以上に短めに切るのがかつての習慣だったと言い始める。それに従って演奏すると、「ティーヤッ! ティーヤッ! ティーヤッ! ティーヤッ!」という具合、つまり前の音よりも後の音のほうが大きくなるだけでなく、息を静かに吐き出すどころか、逆に息を「ウッ」と止めるような表現となってしまいます。

音楽とは、やはり自然な呼吸が基本中の基本となっているのです。人間、息を吸って吐かなければ生きてゆけませんよね。そのように考えると、たとえ演奏の場であっても、不自然に息を止めたり、逆に吐き続けたりすることは、身体によろしくない(笑)。それは演奏家だけの問題ではありません。聴き手にとってもそうですし、そもそも作品を書いた作曲家の「息遣い」を殺してしまうことにもなりかねません。作曲家が生き、呼吸をし、その中で作品を書いていった。彼らの生理、つまりは人間の生理に抗うようなことは、やはり「再現芸術」を目指す演奏家としてはやってはいけないことだと思います。 (ウェルナー・ヒンク 前掲書 pp. 240-241)

 

Beethoven-violin-concertoフレージングが短めに切られる傾向は、昨今のヴァイオリニストが、例えばベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』第三楽章の第一主題を2弦間(G線とD線)にまたがって弾く運指にも影響を与えているようにも思われる(画像の上段の楽譜を参照)。伝統的には第一主題は一つの楽句(フレーズ)と理解し、フレーズ内の音色を統一するためにG線一本で弾く運指(画像下段の楽譜)が常識であった。クラシックギターでも、往年の巨匠アンドレス・セゴビアの運指はその点に拘りがあったことを、セゴビアの薫陶を受けたアメリカのギタリスト、クリストファー・パークニングは証言している。しかし近年、2弦間にまたがる運指を採用するヴァイオリニスト(特に若い世代の奏者)が増えていると聞く。これは単に同弦上でのポジション移動を省く(D線の開放弦を利用する)弾き易さのためだけではないと思われる。むしろ、古楽復興運動のアーティキュレーション(フレージング)法、つまり弦間をまたぐことにより音色の変化でフレーズが区切りが生じる効果を志向した運指法ではないかと考えられる。

 

Img_6015 Img_6013 話をラトル指揮のベートーヴェン7番に戻すが、全曲を通じて(とりわけ第1楽章と第2楽章)ノン・ヴィブラート奏法と古楽式アーティキュレーションが支配的な演奏であった(と私には思われた)。フルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、カール・ベームやカラヤンらの演奏に耳慣れた私には終始奇異に感じられたのは正直なところである。今宵の聴衆間でも賛否があったのではないか。終演後、熱狂的に拍手し「ブラボー」を叫ぶ聴衆がいる一方、私のように違和感を感じながら首をかしげながら拍手をしていた聴衆もまたいたのではと思われる。実際、ラトルへのカーテンコール(舞台への呼び戻し)は数回程度で、最後はコンマスに声をかけて一緒に足早に舞台から去っていった。

 

2020年1月14日 (火)

『誰が世界を支配しているのか?』ー本当の世界情勢を読み解く視点ー

 

ノーム・チョムスキー著  大地 舜・榊原 美奈子(訳)

『誰が世界を支配しているのか?』

双葉社 2018年 1,760円

 

アメリカの著名な言語学者・言語哲学者ノーム・チョムスキー

本書は、ここ数年間の読書で私に最も大きな影響を与えた一書。まさに目からウロコ・・であった。世界情勢を読み解く稀有な視点を授けてもらった。特にアメリカ合衆国の政治状況、中東やロシア&ヨーロッパの情勢において。

オックスフォードのブラックウェルズ書店で原書を立ち読みしたが、幸いなことに2018年に邦訳が出版された。チョムスキーはユダヤ系として、また自他共に認めるアナーキストとして、歯に衣着せない筆致で世界の真の支配者(もちろん世俗的な意味で。私はキリスト者として世界の真の支配者は天地創造の神、救い主イエス・キリストであるともちろん信じている)を暴き、痛烈な批判を加える。

しかし他方で、日本という国そして我々日本人はその「世界の真の支配者」の恩恵にあずかっていることもまた事実。そう、その恩恵の手を振り払う勇気のない国であり民族である。だから従属している。反対に、恩恵(=支配)の手を振り払う決意をした国家は支配者にとって「敵」となる。現在の米国 vs イラン情勢をその視点で眺めれば、日本のマスメディアが垂れ流している情報がいかに操作されたものであるかが分かるはずだ。日本で流布するトンチンカンな情報ーー米中新冷戦、中東情勢一般、そしてブレグジット(英国の EU 離脱)、更にゴーン被告の国外逃亡等ーーもだ。

最後に、世界の真の支配者を読み解く鍵は、実はチョムスキー氏の著書でもない。ーー「聖書」ーーである。

 

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2020年1月12日 (日)

EU の終わりの始まり

 

BBCニュース日本版(1/10)より

英下院、離脱協定法案を可決

英下院(定数650)は9日、ボリス・ジョンソン首相が欧州連合(EU)と取りまとめたEU離脱協定を国内で法制化するために法案を、330対231の賛成多数で可決した。

イギリスは1月31日にEUを離脱する予定。離脱の条件を定めたこの法案には、EUに支払う「清算金」や、在英EU市民と在EU英国民の権利、北アイルランドをめぐる関税規定、ブレグジット(イギリスのEU離脱)後の11カ月間の移行期間などが盛り込まれた。

法案は週明けにも上院に送られる。上院議員が修正を求めた場合は、下院で再度、採決が行われる。

与党・保守党は昨年12月に行われた総選挙で過半数議席を獲得したため、法案可決は想定内だった。

下院はクリスマス休暇直前に、この法案の大枠を承認。3度目となる9日の審議も滞りなく行われた。賛成票330票は全て保守党議員によるものだった。

 

これで1月末のブレグジット(EU からの離脱)の実現はほぼ確定した。国民投票から3年半にも及ぶすったもんだの末ではあったが、兎にも角にもブレグジットは実現するのだ。歴史的な出来事と言ってよい。

離脱後の移行期間が今年末までの11ヶ月間しかないことは不安要因だが、しかしこの「事実上の合意無き離脱」がもたらす混乱も、EU にとっての混乱であって英国にとっての混乱ではない。要するに、ブレグジットの実現とは「EU の終わりの始まり」である。

EU はグローバリズムの体現者として常に「全体主義」的雰囲気が漂う。そう、大陸欧州は英国と違ってかなり「全体主義」的である。EU の政治的盟主はフランス、経済的盟主はドイツだが、どちらの国にもかつて独裁者が登場した歴史がある。フランスでは19世紀のナポレオン・ボナパルト、ドイツでは20世紀のアドルフ・ヒトラーだ。このような全体主義的なフランスとドイツが主導する EU が民主的になるのはずもないし、実際、EU の機構は官僚主義そのものである。EU が全体主義的共産国家・中国とずぶずぶの関係になったのも決して偶然ではない。「類は友を呼ぶ」のだ。

フランスではマリー・アントワネット級に庶民感覚の欠如したエマニュエル・マクロンが大統領となり、ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)運動で国内政治が混迷。EU 盟主を気取っている場合ではなくなった。ドイツは観念論のお国柄らしく相変わらず「理念先行」だ。アンゲラ・メルケル首相は現実を直視しない、理念に酔った大量の難民受け入れ政策が仇となりレームダック状態。ドイツ国内の真の脅威は極右の台頭ではない。近年は偽装リベラルの「極左」「革新」の跋扈(ばっこ)で政治家もマスメディアも国民も「環境!環境!環境!」の大合唱。おかげで自動車産業を中心に経済は転落の一途。私はドイツを訪れるたびに「凋落」の雰囲気を感じ取る。日本では NHK の「チコちゃんに叱られる!」が人気らしいが、ドイツでは差し詰め「グレタちゃんに叱られる!」で少女に叱られる大人たちがMっ気たっぷりの恍惚状態にある。

そんな中、発足後間もない EU の新欧州委員会は昨年末に気候変動対策「欧州グリーンディール」を発表した。新委員長はドイツ出身のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏だ。ドイツの経済界は彼女を警戒している。欧州グリーンディールは30年後つまり2050年の排出ガス目標(温暖化ガスの排出を実質ゼロにする)を設定しているのだ。そもそも EU が2050年まで存続しているのだろうか? 私は極めて懐疑的である。残念ながら、EU とは「沈み行く泥舟」だ。離脱した英国は賢明だったと、後に語られるだろう。

Brexit

 

2020年1月 7日 (火)

すべての神学校関係者は『教場』を視るべきだ

 

フジテレビ開局60周年記念の新春スペシャルドラマ『教場』。原作は長岡弘樹の小説『教場』シリーズだ。前編後編のTVドラマはすでに放映されたことだろう。

警察学校のアメリカ英語訳はポリス・アカデミーだ。アメリカではコメディー映画のシリーズとして知られている。しかし『教場』はそんなおちゃらけた内容ではない。

警察学校は、優秀な警察官を育てるための機関ではなく、適正のない人間をふるい落とす場である。訓練期間中に「警察官としてあるまじき」と判断されれば、容赦なく自主退学へと追い込まれる。他方「ふるい」ではあるが「その逆もある。残すべき人材であればマンツーマンで指導してでも残す」(ドラマ中の風間教官のことば)。現場の警察官は一般に小説やドラマ&映画の警察物が現実離れしているので嫌悪しているが、『教場』シリーズは共感を得ていると聞いている。

日本のプロテスタント神学校、とりわけ福音派の神学校の弱点はまさにここだ。ここでは入学時のゆるさ(本人の自薦と教会の推薦があればほぼ誰でも入学でき、入学試験は事実上有名無実化している実態)には言及しないでおくとして、『教場』に描かれる如く教育段階において神学校が「適正がない人物を排除するための機関」としてはまず機能していない。日本の神学校とは要するに、誰でも入学でき、誰でも卒業して行く機関である。換言すれば、牧師や伝道者として不適格な人物が教育機関でふるい落とされることなく教会の現場に送り出されている。

これは私見だけではない。多くの信徒の実感である。実際、私のところにも信徒からの「悲鳴」が寄せられる。

村上 密牧師が述べるように、2010年代は、教会のカルト化の問題が相次いだ。

 

2010年代、異端やカルトの問題より、教会のカルト化の問題が相次いだのは、信徒がキリスト教倫理や規範を持たない牧師の独裁を許したからである。牧師は牧師に従う信徒を模範的信徒と教え込み、信徒が牧師依存に陥った。教会は、力を失った。牧師は独裁により自己実現を追及した。それははキリストへの愛から離れた生き方である。

 

問題牧師の独裁を許してしまう信徒の側にも責任はあるが、『教場』の如く「ふるい」として機能しない神学校の責任の方がより大きいと私は考える。もちろん上記のとおり「ふるい」だけでなく「残すべき人材であればマンツーマンで指導してでも残す」情熱が注がれる場も神学校である。

2020年代が始まった。神学校教育について全教会的な議論が必要であると思う。神学校関係者はまず『教場』を視聴されたらどうだろうか。

蛇足ながら、本投稿だけは「床屋談義」の「ご笑覧路線」でないことを申し添えておく。

 

2020年1月 4日 (土)

2020年という年

 

IR 汚職事件。

年末にカルロス・ゴーン被告の国外逃亡という事件。

そして年始早々のアメリカによるイラン要人ソレイマニ司令官殺害という大事件。

 

私見ではこれらは皆、根っこでつながっている。

 

昨年から私が2020年のキーワードになると注目しているもの。

それは、

 

イスラエル

 

クラシック音楽関連でも5月にイスラエルで1993年以来の出来事が起こる。

 

いずれにしても、今年はイスラエルそして中東情勢から目が離せない。

 

 

2020年1月 1日 (水)

謹賀新年

 

新年明けましておめでとうございます。主による新しい年、皆様の家庭・仕事・学業に神様の祝福が豊かにありますように。

今年は3年間の英国生活を終えて本帰国する年。3月下旬に帰国予定です。日本でもどうぞよろしくお願いいたします。帰国後しばらくは「休養と充電」の期間を過ごすつもりです。

それにしても大晦日の「カルロス・ゴーン被告国外逃亡事件」には驚かされましたね。除夜の鐘の前に「ゴーン」と鳴ってしまいました(笑)。私などは思わずルカの福音書(新約聖書)16章1ー13節の「不正な管理人のたとえ話」を思い出した次第。キーワードは管理人の「抜け目なさ」です。主人の立場からすれば「よくもまあ」と呆れるやら感心するやら。しかし不正な管理人もゴーン被告も「明日の自分に繋げる執念」という点では共通しています。

今回の逃亡劇、日本政府としては、案外、都合良く厄介払いができたと内心ほくそ笑んでいるのでは? というか、裏で何らかの「高度な政治的判断」が当局者たちの間であったように思えてなりません。レバノン政府は身柄引き渡しにはまず応じないでしょう。(日本は司法の威信を賭けてゴーン被告の身柄確保に日本版「オペレーション・フィナーレ」を作戦実行するでしょうか? そんな意志も能力もないはずです。)

それはともかく、新年はまず主なる神様への賛美と感謝、そして毎年のお楽しみ「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサート(Das Neujahrskonzert der Wiener Philharmoniker)」です。日本では元日の午後7時からNHK Eテレで放送されます。今年の指揮者は本ブログでもおなじみのアンドリス・ネルソンス。ぜひご視聴あれ!

当ブログは、今年も相変わらず「床屋談義の域を出ない」ご笑覧路線の基本コンセプトに忠実に(?)やって参ります。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

2019年12月23日 (月)

「合意なき離脱」はほぼ確実となった

 

先々週12日に行われた英国の総選挙。結果は日本でも報道のとおりである。保守党の地滑り的圧勝。先週20日には EU 離脱法案の採決が行われ、単独過半数の議席を得た保守党の賛成多数で法案は成立した。

私は上記の日程直後に総選挙の結果や法案成立についてブログで書くことはしなかった。正確には、書く必要がなかったからである。なぜなら、当ブログでは1)ブレグジット(EU 離脱)は必然であること、2)「合意なき離脱」の可能性は常にありそしてその確率は高いことを以前から一貫して述べてきたからだ。嘘だと思うなら過去記事をあたってみられればよい。最後に(おふざけの記事ではなく真面目に)言及したのは10月19日の投稿「この期に及んで・・」であった。

そして先週20日の離脱法案可決によって、来年末の事実上の「合意なき離脱」はほぼ確実となった。なぜなら、来年1月末の離脱後の「移行期間」延長をボリス・ジョンソン首相は断固拒否。法案可決によって移行期間の延長がないことが法に明記されてしまったからだ。移行期間が終了する来年末以降、FTA 締結もなく EU の単一市場からも関税同盟からも英国は放り出される。これは「合意なき離脱」と同義だ。

 

12月18日の時事通信の記事より(太字はのらくら者による)

(ロンドン 12月17日 時事)12日の英総選挙に大勝したジョンソン首相は、来年1月末の欧州連合(EU)離脱後も加盟国並みの状態が続く「移行期間」を延長せず、来年末で終了させると法律に明記する方針を決めた。首相の右腕のゴーブ国務相が17日明らかにした。わずか11カ月でEUとの新たな貿易協定を締結・発効させるのは困難とみられており、「合意なき離脱」に匹敵する規模の大混乱が移行期間終了後に生じる恐れもある。

 11月の下院解散に伴い廃案となったEU離脱関連法案を修正する。移行期間の延長を認めない条項を新設した上で再提出し、20日に「第2読会」採決と手続きが進みそうだ。ジョンソン氏率いる与党・保守党は単独過半数を確保したため、法案通過は確実視されている。

 移行期間は、EU離脱に伴う英経済・社会の激変緩和を目的に、英国とEUが国際条約の離脱協定案に盛り込んだ。原則として来年末で終了するが、最長2年の延長もできる。延長の是非は来年6月末までに英EUの話し合いで決める。 

 通常、自由貿易協定(FTA)交渉は妥結に数年かかる。バルニエEU首席交渉官も、11カ月での幕引きは不可能と厳しい見方だ。一方、英国は瀬戸際戦術に訴えることで、EUから妥協を引き出すのが狙い。ゴーブ氏は17日、テレビ出演し「来年末までに合意を得る」と自信を示した。

 選挙戦でジョンソン氏は、当初今年3月末の予定だったEU離脱が大幅に遅れていることを背景に、移行期間の延長拒否を表明。離脱派の有権者から支持を得た。

 

「ほぼ」確実と書いたのは、奇跡的に離脱後の11ヶ月間で EU との自由貿易協定(FTA)が全項目において合意に達する可能性があるかもしれないとの含みを持たせてのことだ。がしかし、EU 側も認めているように、それはほぼ不可能であると思う。日本と EU 間の FTA も合意までに4年以上の年月を要した。それを11ヶ月で・・とはまずあり得ない話だ。従って、交渉の時間切れで来年末に事実上の「合意なき離脱」へと突入する可能性は極めて大である。

ブレグジットを冷静に織り込んで為替市場での英ポンドは比較的安定していたが、総選挙後の急上昇と離脱法案可決後の急降下で乱高下を演じている。しかし来年末には比類無き大混迷が待ち受けていよう。なぜ英国はそこまで「合意なき離脱」に拘るのか? 理由はそれとなく分かっているが、そこまで当ブログで踏み込むのはタブーであろう。

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2019年12月22日 (日)

エスタブリッシュメントの否定 ーポストモダンの徒花ー

 

2年半前、二十数年ぶりにイギリスに戻って来て愕然としたこと。それは英国社会の「白人エスタブリッシュメント(支配層)」が崩壊していたことだ。はっきり言おう。白人エスタブリッシュメントは負の側面(e.g.白人至上主義)だけではない。「白人エスタブリッシュメント」には少なくとも社会のリーダーとして「ノブレス・オブリージュ」が共有されていた。しかしポストモダンの「行き過ぎた平等の追求」は白人エスタブリッシュメントから特権を剥奪し、結果としてノブレス・オブリージュを有名無実化してしまった。

イギリスでもアメリカでも、実は白人は依然多数派であり支配層ではあるが、彼ら自身が「マイノリティー志向」に罹患してしまっている。日本でもよく知られたジョン F. ケネディー大統領の就任演説の一節「我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい」を歴史のコンテクストで解釈するなら、他でもない白人エスタブリッシュメントのノブレス・オブリージュに訴えた言葉だ。アフリカ系アメリカ人公民権運動が実を結ぶようになるのはこの後である。現在の欧米は "意識上のマイノリティー" が覇権を争っている状態だ。健全な意味での(=ノブレス・オブリージュを共有する)エスタブリッシュメントが瓦解してしまったからだ。

私は、ノブレス・オブリージュを絶滅危惧種にしてしまった英国社会に魅力を感じない。特権というものはただ剥奪すればよいというものではない。ツァイトガイスト(時代の精神)は当然、キリスト教会にも影響を与える。現代欧米の神学者たちからは時代におもねた「マイノリティー志向」のメッセージしか聞こえてこない。だから、神学書がちっとも面白くない。

聖書が健全なエスタブリッシュメントの存在やあり方を否定しているとは私には思えない。そもそもノブレス・オブリージュは聖書の言葉、ルカによる福音書12章48節後半の「多く与えられた者はみな、多く求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」(聖書 新改訳 2017、太字はのらくら者による)が起源と言われる。聖書は決して特権を否定していない。しかし特権を与えられた者にはそれに相応しい「責任」(求められ・要求される)が生じることも教えている。

「平等の追求」で特権階級や支配層を引きずり下ろすのは痛快でありさぞ溜飲を下げられることだろう。しかしそのブーメランはいつか自分たちに返って来るのだ。欧米社会もそして現在の日本も、それに気づくにはもう少し時間がかかるのかもしれない。

 

同門対決

 

動画サイト YouTube には時に信じられないほど貴重な映像がアップされる。これなどはまさにそれ。カール・ゴッチビル・ロビンソン 

81pkfp4pp8l 二人は同門の兄弟弟子の関係にある。イギリス・ランカシャー地方のウィガンにかつて実在した「蛇の穴(The Snake Pit)」ことビリー・ライレー・ジム。レスリングのランカシャー・スタイル(フリースタイル)である「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch-As-Catch-Can)」を伝える道場だった。ゴッチもロビンソンもこの「蛇の穴」出身である。漫画&アニメ『タイガーマスク』の「虎の穴」のモデルになっている。

それにしてもカール・ゴッチの顔、往年の名俳優カーク・ダグラスに似てませんか?

 

2019年12月16日 (月)

キリル・ペトレンコ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

 

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管弦楽: イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

指 揮: キリル・ペトレンコ

曲 目: ・J. ブラームス

     『交響曲第3番 ヘ長調 Op. 90』

      <休 憩>

     ・W. A. モーツァルト

     『ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K. 491』

        (ピアノ独奏:タマラ・ステファノヴィチ)

     ・R. シュトラウス

      交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら              

日 時: 2019年12月16日 午後8時

会 場: チャールズ・ブロンフマン・オーディトリアム(イスラエル・テルアビブ)

 

Img_5982 今シーズンからベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任したキリル・ペトレンコ。ユダヤ系ロシア人である彼がイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(以後イスラエル・フィル)に客演した。テルアビブで4回、エルサレムで1回の演奏会を振る。テルアビブでは2日目の公演に行ってきた。

日本からイスラエルは遠い国だが、ロンドンからは直行便で4時間半ほど。東京から香港に行く感じ。とにかく近い。だから休みの日を利用して弾丸スケジュール(強行日程)を組む。私にとって「聖書の世界の旅」のようなイスラエル旅行は二義的目的であって、正直あまり関心はない。だから団体旅行やパックツアーには参加しない。単独旅行だ。私が関心を持つのは現代のイスラエル。実際、テルアビブは活力に溢れていた。中東のシリコンバレーだ。スタートアップ(起業)の国としてイスラエルが世界中から注目を集めていることをいったいどれほどの日本人が知っているだろうか。

518d1bhbv1l_sx329_bo1204203200_ 私は以前からイスラエル・フィルの実力、とりわけ弦楽セクションのハイレベルを評価していた。そこに今が旬のキリル・ペトレンコが客演するのだ。自称追っかけとしては見逃せない機会ではないか。オーケストラの誕生と歴史については画像の本が詳しいのでご覧あれ。「俺はインドのユダヤ人」を公言して憚らないズービン・メータ(ユダヤ教には改宗していない)が長年にわたり同フィルの音楽監督をつとめて来たが、今年の10月をもって引退した。

Img_5977メータの後任は1989年テルアビブ生まれの若い指揮者ラハフ・シャニが2020年のシーズンから音楽監督に就任することが決まっている。

 

もう眠たいので、とりあえず画像を貼り付けておく。演奏会の模様は気が向いたら後日にでも。印象を一言だけ。イスラエルが過去、中東戦争に全勝したのは、世界レベルのオーケストラを持っていたからである。間違いない。

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2019年12月14日 (土)

ヤリスGR-4

 

トヨタが業界を独走する。ぶっちぎりという印象だ。

理由は簡単。

トップ自らが「カー・ガイ(自動車野郎)」であり、

運転するのが楽しくて仕方がないから。

 

"Personally, there is nothing I like more than the smell of gasoline and the sound of screaming engines."

(ボクにはガソリン臭さやエンジンのうなりが、たまらない。)

 

他の自動車会社のトップ達は顔がまったく見えない。

 

「若者が自動車離れしたのではない。自動車会社が若者離れしたのだ。」

 

豊田章男氏はこの危機感を真剣に受け止めている。

 

2020年11月、「Rally Japan」(WRC 世界ラリー選手権日本ラウンド)が開催される。

開催地は愛知県岐阜県だ。

モリゾーさんも燃えている。

 

ヤリスGR-4。

 

 

 

2019年12月11日 (水)

映画『テルアビブ・オン・ファイア』

 

日本でも先月下旬から一般劇場公開が始まったと聞いている『テルアビブ・オン・ファイア(原題:תל אביב על האש  テルアビブ・アル・ハエシュ)』。今、話題になっている映画である。

ここでの「テルアビブ」とは劇中で描かれる TV ドラマのタイトルのことである。1960年代の第三次中東戦争前夜を舞台にした国民的人気ドラマ『テルアビブ・オン・ファイア』の制作現場。ヘブライ語が堪能なことから、言語指導者兼雑用係として雇われたパレスチナ人青年のサラーム。その彼がやがて脚本の執筆を託されるストーリー。脚本に関してはシロウト同然のサラームがなぜ抜擢されたのか、笑撃(衝撃ではない!)の物語はここから展開する。日本にいる皆さん、ぜひご覧あれ。

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2019年12月 9日 (月)

旦那衆(ウィーン・フィル ソワレ公演にて)

 

管弦楽: ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

指 揮: リッカルド・ムーティ

曲 目: ・L. ベートーヴェン 

     『ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 <皇帝>』

        (ピアノ独奏:ルドルフ・ブッフビンダー)

      <休 憩>

     ・I. ストラヴィンスキー 

     『妖精の接吻("Le Baiser de la Fee)』(全4楽章)

     ・O. レスピーギ 

      交響詩『ローマの松("Pini di Roma")』              

日 時: 2019年12月9日 午後7時30分

会 場: ムジーク・フェライン(ウィーン楽友協会大ホール)

 

Img_5923指揮者リッカルド・ムーティは12月6日(金)のウィーン楽友協会主催演奏会に始まり、7日(土)と8日(日)の第5回ウィーン・フィル定期演奏会そして9日(月)第3回ソワレコンサートに客演した。画像は6日の楽友協会主催の演奏会のもの。「満員御礼(Ausverkauft)」の札があるように、これは一般販売される演奏会である。しかし定期演奏会とソワレコンサートは非売品で、定期会員限定だ。定期会員になることの難しさは以前の記事で書いたとおり。定期演奏会はマチネで、通常土曜日の午後と日曜日の午前中に行われる。年10回だ。ソワレコンサートはその名のとおり夜公演である。年6回行われる。会員限定の非売コンサートという点では事実上の定期演奏会である。非売品のチケットをどう入手するかについても以前に書いたとおり。

今回の私の座席はパルテレ(平戸間)5列目(最前方の Cercle 席3列から数えると8列目)の中央ブロックであった。舞台を見るによし、音楽を聴くによしの絶好の座席だ。他方、このような最上席は長年の定期会員の指定席エリアでもある。私の周りには品の良い、身なりを整えた上流階級おぼしき紳士淑女が座っておられる。緊張する。私も当然、スーツにネクタイの服装だ。日本人がひんしゅくを買わないよう、ウィーン・フィルの演奏会だけは正装で臨む(他のオーケストラ演奏会はすべて普段着)。

 

Img_5927 Img_5930コンサートが始まる前、左隣の紳士から声をかけられた。「あなたは日本人ですか? あなたの席に普段座っている人が知り合いでね。今晩はどうやら欠席のようだ」と言うではないか。私が「おのぼりさん」だとバレている。苦笑してしまった。「いかにもそうです」と答えると、そのオーストリア人紳士はとても親しげに話し始めた。なんでも定期会員として42年間もウィーン・フィルの演奏会に通っているとのこと。それからムジーク・フェラインの建築様式と音響の秘訣、来演した指揮者や演奏者たちの思い出話、ウィーン・フィルと日本との関係の深さ(先月の来日公演の報告がプログラムに掲載されていた)等々を熱心に語ってくれた。マリス・ヤンソンスの逝去に話が及ぶと「彼は実に素晴らしい指揮者だった。惜しい人をなくした。最後のウィーン・フィル登壇の時は腕もほとんど上がらなかったなあ。苦しそうだった。実のところ、今晩のムーティより私はヤンソンスの方が好きなんだ」と片目でウィンクしながら仰る。

ルドルフ・ブッフビンダーは日本でもよく知られたベートーヴェン・スペシャリスト(但し古典派から20世紀音楽までレパートリーは広い)。<皇帝>の演奏に期待も高まる。今晩のピアニストと指揮者に共通するのは、どちらも楽譜を徹底的に研究し、演奏者の虚飾ではなく作曲者の意図を忠実に表現することを追求する姿勢だ。生憎、楽譜を持ち合わせない私にはブッフビンダーの曲の構築は判らない。しかし表現のための「野太い」音には瞠目させられた。擦弦楽器で例えるなら弓を弦に深く当てる弾き方、ギターのような撥弦楽器なら弦をたわませ指を放す弾弦法とでも言おうか。とにかく音に芯があって太い。ピアノのような打鍵楽器で音にそのような違いを生じさせることができるとは思わなかった。そういえばある人が、ドイツ=オーストリア圏の伝統奏法とは鍵盤を「叩く(シュラ—ゲン Schlagen)」のではなく「押す(ドリュッケン Drücken)」のだと述べていたことを思い出した。他方でブッフビンダーの高音トリルの軽やか且つ鮮やかなこと! 音の野太さと軽やかさのコントラスト。私は完全に魅了された。しかし隣の紳士の「うん、良い出来だ。でも彼より唯一優れたピアニストがいた。フリードリヒ・グルダ(1930ー2000)だ」との感想には仰天した。私は唸ってしまった。「なんと耳の肥えた旦那なのか・・。」

 

Img_5936 Img_5940レスピーギの『ローマの松』。今年5月上旬の訪米中、ムーティ指揮のシカゴ交響楽団で聴けるはずだったが、楽団の長期にわたるストライキと諸事情で機会を逸してしまった。図らずもウィーン・フィルで雪辱を果たせた。イタリア人のムーティにとってはお国ものだ。期待も高い。舞台上の大編成オーケストラとホールの左右バルコニーに配置された金管群が終曲「アッピア街道の松」の行進曲を盛り立てる。ムーティがその昔、フィラデルフィア管弦楽団と残した録音(CD)ではテンポが速かったが、年季を重ねた現在のムーティはどっしりしたテンポ設定でクライマックスへ導く。これぞ本来のローマ軍の凱旋行進だろうと思った。圧巻のフィニッシュにムジークフェラインの手狭な楽堂は揺れた。シャンデリアが落ちてくるのではと思った。今年6月の Z. メータ指揮『春の祭典』でも感じたが、現在のウィーン・フィルはパワーにおいても第一級のオーケストラだ。

ところで余談だが、私は『ローマの松』は仮に「キリストの生涯」と題してもまったく違和感ない曲ではないかと常々思っている。第1曲「ボルゲーゼ荘の松」はキリストの降誕の喜びと公生涯の宣教、第2曲の「カタコンバ付近の松」はキリストの十字架、第3曲「ジャニコロの松」は復活の日の朝の光景、そして終曲「アッピア街道の松」はキリストの復活の勝利という具合だ。「アッピア街道の松」は「"死"の行進」(前半の重苦しい曲想)と「"生"の行進」(後半の勇壮な行軍曲)のぶつかり合いであり、「"生"の行進」が「"死"の行進」を呑み込むのだ。レスピーギがこの曲でキリストを讃えてくれていたら・・と思うと残念で仕方がない。それくらいこの曲は(聴き方によっては)キリスト教的に聴ける。

「ところで、あなたのお仕事は?」と件の紳士に訊かれたので「牧師をしてます」と答え『ローマの松』について上記の思いを伝えると、「それは大変興味深い洞察です。作曲者は古代ローマの往時を表現しようとしましたが、不思議なことに曲には様々な教会旋法が用いられてますからね。あなたの見方はあながち的外れとは思えません。むしろ今晩のムーティの解釈には、その辺りの宗教性というか深みが欠けているように思われました。マーチ(行進曲)は勇壮だったけどね」とコメントされた。私はまたも唸ってしまった。「この旦那、只者ではないな。。」 

 

Img_5712 終演後、確かに拍手は大きかったが凄まじいというほどではなかった。オケのメンバーが引き上げた後、ムーティはカーテンコールで舞台に呼び戻されたが、それは一度だけだった。10月に C. ティーレマン指揮でブルックナーの『交響曲第8番』を聴いた時は、オケ・メンバーが引き上げた後、ティーレマンは6回も7回もカーテンコールで呼び戻されていた。確かに今晩とは会場の興奮度が違っていた。

紳士は「もう何十年もこのオーケストラを聴いてますからね。本当に優れた演奏かどうかはちゃんと分かります。私だけでなく、ほら、周りにいる人たちも皆同じですよ」とまたも片目をウィンクしながら語ってくれた。私は紳士との出会いを感謝しつつ握手して別れたが、しばらく考え込んでしまった。ウィーンでもベルリンでも、長年にわたって定期演奏会に足繁く通う、耳の肥えた地元の「旦那衆」がおられる。これら旦那衆の目利きならぬ「耳利き」は確かだ。下手な音楽評論家よりずっと確かな耳を持っている。そして大事なことは、名門オーケストラとはこれら「旦那衆」によって育てられるという事実だ。もちろん「旦那衆」の中には女性も含まれる。旦那という言葉は飽くまで比喩的表現である。日本でも、歌舞伎であれ、能や狂言であれ、伝統芸能は「旦那衆」によって支えられ育まれてきた。演奏家だけでなく、作曲家も同じだ。名曲とは、一部の音楽評論家によって評価されたのではなく、「旦那衆」を中心とした聴衆が評価し支えてきたのだ。

こうしてみると「聴く」ということは、普段私たちが考えている以上に創造的行為ではないか。つまり受け身ではなく能動的な行為ということだ。私はウィーンの「旦那衆」からそれを教えられた気がした。名演とは、演奏者の集中に聴衆の集中が追いついた時の<ラポール(rapport)>がもたらす奇跡だと思う。聴衆も、実は演奏に参与しているのだ。創造的行為である。

礼拝においても同様だと思うのだ。神の言葉(神の側の集中)は、説教者だけでなく会衆の集中が追いつくことによって「かすかな細い声」(旧約聖書 列王記 第二 19章12節)を聴き取ることができる。だから、聖書の御言葉と会衆とのラポールが射程にない説教論は空虚である。説教論とは従って会衆教育でもある。語る務め(説教者)と聴く務め(会衆)のどちらか一方が欠けてもラポールは起こり難い。(しかしまったく起こらないとは言い切れない。聖霊は自由なお方である。) ラポールにおいてどのように聖霊は説教者と会衆に働かれるのか。神学的なテーマであると思う。

 

 

2019年12月 4日 (水)

【再掲】 護身術はいかが? クラヴ・マガ

 

日本でも報道されたとおり、ロンドン中心部で先月29日午後2時(日本時間同11時)頃、テムズ川にかかるロンドン橋のたもとで男が刃物で周囲に切りつけ、2人が死亡、3人が負傷した。周りにいた複数の一般人が男を取り押さえ、駆け付けた警官たちが男をその場で射殺した。男は別のテロ罪で有罪になり、保護観察中だったという。2017年3月下旬にロンドンに来て以来、何件ものテロ事件があった。ロンドン橋付近ではこれで二度目だ。昨年2月と3月、ロンドンでの1ヶ月の殺人件数が現代史上初めて米ニューヨークを上回ったことが警察の統計で明らかになった。ロンドンでは刃物を使った殺人事件が急増している。

護身術の必要性はもはや他人事ではない。ということで、過去記事の再掲載。

 

Krav-maga クラヴ・マガ קרב מגעとは、戦火の絶えないイスラエルで生まれた超実践型の近接格闘術。

画像右側の本は、『最強護身術 クラヴマガ』(ダーレン・レヴィーン+ジョン・ホイットマン 著 立木 勝 訳 日本語版監修=松元国士 三交社 2010年)、左側のDVDは、『イスラエル軍特殊部隊用格闘術 コマンドー・クラヴ・マガ(Evolve Close Quarter Fighting Commando Krav Maga)』(指導 モニ・アイザック)である。
 
『最強護身術 クラヴマガ』の日本語版監修を担当した松元国士氏(クラヴマガ・ジャパン会長兼 CEO ジャパンチーフインストラクター)による序文からピックアップしてみる。
「クラヴマガ」は、聞き慣れない言葉かもしれない。ヘブライ語で「接近戦闘術」を意味するクラヴマガは、戦火の絶えないイスラエルで生まれ、IDF(同国の国防軍)や世界各国の警察、あるいはアメリカのネイビー・シールズ、FBI の人質対応部隊(HRT)のほか、ロサンゼルズ市警(LAPD)の特殊部隊や、SWAT、シークレットサービスなど世界有数の対テロ特殊部隊や情報機関でも相次いで公式採用されている。実践重視の接近戦闘術として世界から認められ、軍・警察関係者、格闘技関係者の間でその評判は非常に高い。
一方、クラヴマガの名が広まったことは、そのトレーニングを受けた著名人が数知れなく存在することにも起因する。たとえばハリウッド映画である『イナフ』(2002年)では映画の中でクラヴマガが大々的に扱われ、主演のジェニファー・ロペスは映画の撮影が終わってもトレーニングを続けた。ほかにもブラッド・ピットは『トロイ』(2004年)で、トム・クルーズは『ミッション:インポッシブル3』(2006年)で、レオナルド・ディカプリオは『ブラッド・ダイヤモンド』(2006年)でそれぞれクラヴマガの訓練を受け、アクションシーンの中で扱われている。さらに最近だと、アンジェリーナ・ジョリーは『ソルト』(2010年)、アシュトン・カッチャーは『キス&キル(Killers)』(2010年)でクラヴマガのトレーニングを受け絶賛している。・・・ また日本では、フジテレビの月9ドラマである『東京 DOGS』で採用されたといえば、もうすこし身近に思ってくれるだろうか。(のらくら者から、蛇足ながら、マット・デイモンの『ボーン・アイデンティティー』(2002年)もクラヴマガのアクションだと思う。)
クラヴ・マガは、生死のかかった状況で必ず生還するための軍式護身術として発展してきたものだが、しかし、クラヴ・マガの本質とは、著者ダーレン・レヴィーンの次の言葉によく表されている。
イミ(クラヴマガの創始者イミ・リヒテンフェルドのこと)がクラヴマガに加えたもう1つの要素として、攻撃性がある。これも、建国当初のイスラエルが置かれた苦境の中で磨かれたものだ。戦争は常に血生臭くて残忍なものだが、歴史を見てみると、多くの戦争がなんらかの条約で終わっている。勝者と敗者が条約文書に署名し、敗者もそれなりに生き残るケースがほとんどだ。しかしイスラエルの敵は、地上からこの国を消し去ることを目標としていた。だからイスラエルは、絶対に戦争に負けるわけにはいかなかった。負けることは存在がなくなることを意味していた。その結果イスラエルは、すべての戦闘・戦争を、生き残りをかけた闘いだととらえていた。この姿勢は、素手での闘いを含めたクラヴマガのトレーニングのあらゆる面に浸透している。クラヴマガは暴力的な攻撃に対して攻撃的に反応し、即座に動いて相手を無力化する。だからトレーニングも「ネバーストップ」の精神で行われる。これもクラヴマガの歴史をふり返ればわかることだが、途中で攻撃をやめてしまうことは即、身の破滅となりかねないからである。  
DVD『コマンドー・クラヴ・マガ』は、<コマンドー>と銘打っているように、クラヴ・マガが本来、殺人まで視野に入れた特殊格闘術であることを思い出させてくれる。クラヴ・マガは武術(marshal arts)ではない。武術の「術(=art)」ではなく「武」に力点がある。「防衛のための戦術システム」であり、術(art)を見せることではなく、たとえ不格好でも、安全にわが家にたどり着くことこそが究極の目的なのだ。

2019年12月 3日 (火)

来年4月のポリーニ・ロンドン公演

 

来年4月28日、イタリアの巨匠ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニがロイヤル・フェスティバル・ホール(ロンドン)でリサイタルを開く。そのプログラムが本日発表された。これを見た私は狂喜した。当日はブラームスとシェーンベルクとベートーヴェンの夕べとなる。ウィーン楽派(ベートーヴェン)と新ウィーン楽派(シェーンベルク)、それらを繋ぐ古典主義的ロマン派(ブラームス)というコンセプトなのだろうか。キーワードは「ウィーン」だ。

 

・J. ブラームス 

 『3つの間奏曲 Op. 117』

・A. シェーンベルク 

 『3つのピアノ曲 Op. 11』

・A. シェーンベルク 

 『6つのピアノ小品 Op. 19』

  <休 憩>

・L. ベートーヴェン 

 『ピアノソナタ第29番 変ロ長調 Op. 106 <ハンマークラヴィーア>』

 

大曲『ハンマークラヴィーア・ソナタ』を78歳のポリーニが弾くのだ! 演奏時間が45〜50分にも及ぶ大曲ということだけでなく、この曲はベートーヴェンがピアノの持つ表現力を極限まで追求し尚且つ一切妥協しなかった作品であり、ピアニストにとってテクニック・表現力・体力が要求される難曲である。ポリーニの意欲に脱帽だ。

 

画像は今年3月に行われた RFH でのリサイタル。この晩はショパンとドビュッシーの夕べ。私の座席は最前列ど真ん中。目の前でまるで私のためにポリーニが弾いてくれているかのような至福の時であった。因みに、会場は満席であった。ポリーニ人気は相変わらず凄まじい。

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2019年12月 2日 (月)

350人のハレルヤ・コーラス

 

今月12日(木)に、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホール(RFH)でフィルハーモニア管弦楽団(Philharmonia Orchestra)によるヘンデルの『メサイア』コンサートがある。指揮はブライアン・ライト(Brian Wright)。クリスマスの時期、『メサイア』コンサートはイギリスの風物詩だ。各地で催されている。

メサイアとはヘブライ語(ヘブル語)「メシア(Messiah)」の英語読み。旧約聖書の時代、神から特別な使命に任じられた者は油注がれ、「メシア」と呼ばれた。メシアのギリシャ語訳が「キリスト(クリストース)」である。従って、メシアとは「イエス・キリスト(神から遣わされた救い主イエス)」を意味する。ヘンデルは壮大なオラトリオで救い主の降誕と生涯のみわざを賛美したのだ。

フィルハーモニア管弦楽団によるヘンデル・メサイアは、オーケストラと独唱者たちに加え、総勢350名の混声合唱という布陣で演奏されることだ(画像参照)。有名なハレルヤ・コーラスはさぞ圧巻のことだろう。フィルハーモニア管もイギリス随一のパワフルなオーケストラだ。

余談だが、画像はハレルヤ・コーラス演奏中の撮影であることが分かる。聴衆が起立しているからだ。これは、『メサイア』が1743年にロンドンで初演された際(世界初演は前年のアイルランド・ダブリンにて)、臨席した英国王ジョージ2世が「ハレルヤ・コーラス」の演奏中、感動のあまりか突如立ち上がったという逸話に因む(逸話の真偽については諸説ある)。以来、イギリスではハレルヤ・コーラスが始まると聴衆は一斉に起立するのが慣わしとなっている(日本でも本場に倣ってそうだと思う)。

昨日の礼拝ではアドベント(待降節)に因み、旧約聖書のイザヤ書から説教した。『メサイア』でも数々引用されている預言書だ。神学的にもメシア思想が色濃い書である。事前にじっくり聖書を読んで演奏会に臨みたい。このコンサートには妻と出かける。ロンドンでは最後のクリスマス・デートだ。

 

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2019年12月 1日 (日)

マリス・ヤンソンス死去

 

Img_5902 病状を心配されていたバイエルン放送交響楽団の首席指揮者で現代の巨匠マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons 1943-2019)が11月30日に療養先のザンクト・ペテルブルグで亡くなった。享年76歳。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のアナウンスで訃報を知った人々が多いようだが、私はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(オランダ)からのメール配信で知った。ヤンソンスは2004年から2015年までこの楽団の首席指揮者だったからコンセルトヘボウ管弦楽団の反応も早かったのだろう。先日の記事で書いたとおり、ウィーン・フィルでの代役はヤクブ・フルシャが務めている。今後、バイエルン放送響の他、客演が予定されていた数々のオーケストラでの代役探しが本格化することだろう。

ヤンソンスへの思いはかつてこの記事で綴ったことがある。

鄙(ひな)の論理

 

組織での老害に対して人一倍厳しい視線を送る私をして一目置かざるを得なかったヤンソンスの存在は特別であった。マーラーの『交響曲第9番』第4楽章の旋律が切なく響く。巨星がまたひとり逝ってしまった。

 

2019年11月29日 (金)

ヤクブ・フルシャ(Jakub Hrůša)

 

バイエルン放送交響楽団のシェフ、マリス・ヤンソンスの健康が相変わらずすぐれない。今夏のBBCプロムス(ロンドン)ではヤニック・ネゼ=セガンが代役を務めたが、本日(11/29)から4回のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の公演(@ムジーク・フェライン いずれもソワレ公演)もヤンソンスはキャンセルした。代役にはチェコ出身の俊英ヤクブ・フルシャ(1981- )が指名された。

ヤクブ・フルシャは私が注目している若手指揮者の一人である。(因みに私にとって、40歳以下の指揮者は基本的に「若手」である。40歳を超えて「中堅」だ。) 日本でも東京都交響楽団やNHK交響楽団への客演で知られていると思う。ベルリン・フィルの定期演奏会では、昨年のデビューに続き今年も客演する(名門オケでは続けて招んでもらうことが肝心)。彼は12月のベルリン・フィル定期でバルトークの『中国の不思議な役人』を振り、来年2月はフィルハーモニア管弦楽団(ロンドン)の定期でマーラーの『交響曲第2番 <復活>』を振る。私はどちらも聴きに行く予定だ。

今年のBBCプロムスでは、首席指揮者を務めるドイツの名門バンベルク交響楽団を率いて素晴らしい指揮ぶりを披露してくれた。生憎、ロイヤル・アルバート・ホールでの生演奏は聴けなかったが、BBC4チャンネルでの録画放送を視聴することができた。画像はその時の模様である。

 

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2019年11月28日 (木)

今、名古屋メシが熱い!

 

朝日新聞デジタル版 11/28 の記事から。

 

名古屋メシみそ煮込みうどん ムスリムが続々来店の理由

 

いやー、名古屋人としてはうれしい記事ではないか。

 

ムスリム(イスラム教徒)が注目する「名古屋メシ」の店がある。みそ煮込みうどんの老舗「大久手 山本屋」(名古屋市千種区)だ。周辺に目立った観光地があるわけでもないのに、ひと月に約300人のムスリムが訪れ、土鍋でアツアツを味わう。その理由を探った。

老舗うどん屋の専用メニュー

 名古屋駅から地下鉄桜通線で13分、店は吹上駅の近くにある。創業は1925(大正14)年。カウンターとテーブル、座敷をあわせて46席。見たところ、普通のうどん屋だ。

 看板メニューは鶏肉と卵が入った「親子入味噌(みそ)煮込みうどん」(税込み1350円)。愛知・岡崎の八丁みそを中心に3~4種類をブレンドしたみそと、職人が手打ちした麺が売りだ。「カレー煮込みうどん」のほか、「きしめん」「手羽先」「味噌串カツ」といった名古屋メシも食べられる。

 だが、それだけではない。食の… (有料会員限定記事なので以下を読みたい場合は登録(1ヶ月間無料)をとのこと)

 

「大久手 山本屋」(名古屋市千種区)のみそ煮込みうどん(朝日新聞記事より)

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名古屋メシを味わうムスリムの人たち(朝日新聞記事より)

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2019年11月27日 (水)

シュトゥットガルトをめぐる思い出

 

Img_5893昨年に続き、今年も「欧州教職者研修会(11/18-21)」に参加した。今回は準備委員の一人として奉仕させていただいた。来春には本帰国なので、今回が最後の参加である。今年のテーマは旧約聖書の「ヨナ書」講解。4人の牧師・宣教師の方々が1章づつ担当してくださった。

画像はドイツ鉄道(DB)のシュトゥットガルト駅前にて。駅舎の上に燦然と輝くはベンツ社のスリー・ポインティッド・スターだ。一企業が町のシンボルになっている。シュトゥットガルトにはベンツ社やポルシェ社、そして世界的な自動車部品会社であるボッシュ社の本社がある。シュトゥットガルトは自動車の町だが、由緒ある歌劇場や世界的なオーケストラもある文化的な町でもある。神学生時代はイギリスから何度かこの町を経由してテュービンゲン大学プロテスタント神学部を訪ねた。テュービンゲンはシュトゥットガルトから列車で1時間ほどのところにある。当時は、例えば、ユルゲン・モルトマンエバーハルト・ユンゲルも現役で教鞭を執っていた。

しかし私にとってのシュトゥットガルトとはまず第一に、中学生時代に新日本プロレスの番組で視た「シュトゥットガルトの惨劇」こと、ローラン・ボック vs アントニオ猪木の試合が行われた地として鮮烈な記憶と共に想起される町なのだ。1978年11月25日に市内のキレスベルク・ホールで試合は行われ、翌月の年の暮れには早くも番組で録画が放送された。私はその本放送を視た一人だった。この試合は、当時番組を視たすべてのプロレスファンの心に鮮烈な体験として刻まれたであろう。あの猪木が、異国の地で負けたのだ。

ずいぶん後に、新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋が著書で「すべてのプロレスはショーである」ことを明かした。プロレスは八百長なのではなく、(シナリオがある)ショーなのだ。けれども、そんなことはすべてのプロレスファンはすでに了解していたことである。ところが「シュトゥットガルトの惨劇」はショーではなかった。正確には、ショーの枠組みで行われたセメント(ガチンコ勝負)だったのだ。キレスベルク・ホールに設置されたリングは、日本やアメリカのプロレス・リングのような柔らかいマット(投げ技の衝撃を吸収してくれるマット)ではなく、板張りの上に申し訳程度のスポンジが敷いてあるだけの非常に硬いリングだ。だから、スープレックスのような高度な投げ技はもちろんのこと、ボディースラムのような普通の技さえ必殺技になりかねない。実際、試合では、ローラン・ボックは受け身をとり難い角度で何度も猪木をボディースラムでマットに叩きつけた。その度に猪木の顔は苦痛でゆがむ。まさにこれがヨーロッパのプロレスであった。薄暗い会場の雰囲気とともに、ヨーロッパ社交界の裏側で行われていたかつての「地下プロレス(どちらかが死ぬまで戦う文字通りのデスマッチ)」を彷彿させた。日本やアメリカのショー・プロレスに慣れ切った我々ファンは試合を視ながら震え上がったものだ。当時少年だった私もその一人だ。そして、全身から凄みの殺気とオーラを放つローラン・ボックというドイツ人レスラーに釘付けとなった。

論より証拠だ。この動画を見て少年時代の私の原体験を共有してもらえればと思う。私にとってシュトゥットガルトとは、今でもこの試合のことである。(因みに、アナウンサーは「ローランド・ボック(Roland Bock)」と発音しているが、ボック本人は「ローラン」と発音してほしいと言っていた。古フランス語叙事詩(武勲詩)「ローランの歌(La Chanson de Roland)」を意識してのことと思われる。)

 

2019年11月26日 (火)

日本の教会的解釈学は韓国より相当遅れていると思う(多分)

 

Img_5895アントニー・シセルトン(Anthony C. Thiselton)の著書が邦訳出版されたニュースは耳にしない。シセルトンのもとで学位論文を書いた日本人研究者も聞いたことがない。(私の無知かもしれないので、もしいたらお知らせください。)

2015年に出たシセルトンの簡潔な自叙伝によれば、ノッティンガム大学の研究室には韓国人留学生が常時いたようだし、韓国のキリスト教会&神学会に招かれて講演もした。すでに何冊もの著書が韓国語に翻訳されている。21世紀初頭の最も重要な神学書の1冊と私が看做す The Hermeneutics of Doctrine(2007年刊)も韓国語に翻訳されている(らしい)。因みに「教理(doctrine)」という語が「信仰共同体」の意味を内包していることに案外クリスチャンたちは気づいていないーーSocial Demarcation としての教理 Alister McGrath, The Genesis of Doctrine: A Study in Foundations of Doctrinal Criticism, pp. 37-52 ーー。シセルトンが意図する解釈学とは即ち「教会的解釈学」に他ならない。

解釈学ーー日本のクリスチャンが不得手な分野なのかもしれない。

 

 

2019年11月25日 (月)

ベルリンでの『ロンドン』

 

管弦楽: ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

指 揮: アダム・フィッシャー

曲 目: ・W. A. モーツァルト 『交響曲第36番 ハ長調 <リンツ> K. 425』

     ・J. ハイドン 『ソプラノとオーケストラのためのカンタータから 

            「ベレニーチェ、何しているの」Hob. XXIVa No. 10 』

                (ソプラノ:ユリア・レージネヴァ

       <休 憩>   

     ・W. A. モーツァルト 『アリア「私はあなたを忘れますか?」 

                 ソプラノ、ピアノ・オブリガードのために』

                (ソプラノ:ユリア・レージネヴァ

                 ピアノ:アダム・フィッシャー)

     ・J. ハイドン 『交響曲 第104番 ニ長調 <ロンドン>』

日 時: 2019年10月3日 午後8時〜

会 場: フィルハーモニー・ホール(ベルリン)

 

Img_5693_20191125231801 先月のコンサートであるが、ウィーン・フィル演奏会の前日に行った。翌日はベルリンからオーストリア航空でウィーンに飛び、クリスティアン・ティーレマンの公開リハーサル(ゲネプロ)に駆け込んだ。

アダム・フィッシャーの指揮は今年2月ウィーン・フィルのロンドン公演以来。今回はベルリン・フィルとの共演。以前にドヴォルザークの『交響曲第9番「新世界より」』を振って好評を博している。今回はモーツァルトとハイドンの夕べ。ソプラノは今をときめくロシアの歌姫ユリア・レージネヴァであった。

3日続く公演の初日だった。初日ということもあってか、総じて指揮者・オケともに硬さの抜けない演奏であったと思う。<リンツ>終楽章の目の覚めるようなオケの名人芸には感嘆した。この速さでよく弦楽全員がピッタリそろうものだ。アダム・フィッシャーのピアノ伴奏は・・・うーん、速い箇所では指がもつれていた。ちと残念。 期待していたハイドンの<ロンドン>は、マッチョでパワフルで快速なロンドンであった。これも1つの解釈だとは思うが。。

アダム・フィッシャーは才能豊かな優れた指揮者である。ウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルと縁が深い人だが、今後、ベルリン・フィル定期公演の常連に定着するのは間違いないと思われる。今後の演奏に期待したい。(来年5月にロンドン交響楽団を指揮する。)

 

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2019年11月 8日 (金)

忘れられない経験

 

ベルリン・フィル公演@BBCプロムス(2)

BBCプロムス 2019

 

K. ペトレンコ&ベルリン・フィルが昨年のBBCプロムスで演奏したベートーヴェンの7番がいかに衝撃的な体験だったかを私は述べた。

昨年の K. ペトレンコ指揮ベルリン・フィルによるベートーヴェンの7番などは、私のコンサート歴の中でも屈指の感動の体験であった。ペトレンコが、あのカルロス・クライバーの再来のように思われた。心底感動する歴史的名演は稀有だ。20回いや30回のうち1回あればよい方だ。でも、その心震える1回を求めてコンサートに足を運ぶのである。歴史的名演の場に居合わせた幸運は心に深く刻まれ、一生の思い出となる。

 

『音楽の友』11月号(November 2019 No. 11)の特集に、ベルリン・フィルの2人のコンサートマスター(樫本大進ノア・ベンディックス=バルグリー)へのインタビュー記事が掲載されている。(太字はのらくら者による)

 

ーーお二人がベルリン・フィルで弾いてきて味わった「もっとも素晴らしい瞬間」は何でしょう?

バルグリー 昨シーズンのオープニング、ペトレンコ指揮のベートーヴェン「交響曲第7番」、あれはすごかった。特にツアー最後のロイヤル・アルバート・ホールでの演奏会。あの巨大なホールが、オーケストラと聴衆が一体となったエネルギーと歓喜で満たされて・・・。僕にとって特別な瞬間であり、コンサートだった。もちろん、いいコンサートはほかにもあるし、常にそうありたいと力を注いでいるけど、あれは忘れられません。

樫本 あの公演後のパーティもよかったよね。オーケストラのメンバーとペトレンコさんだけでパーティをやった。とても親密な時間だったな。

 

私の人生で、2005年9月の「山下和仁ギターリサイタル(しらかわホール@名古屋)」と共に、生涯忘れられない経験である。

 

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2019年11月 1日 (金)

NHKはぶっ壊してもいいけど、ぶっ潰さないでほしい

 

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NHKには恩がある。

カール・ベームウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を素晴らしい映像と音質で記録してくれたこと、そしてDVDで一般販売してくれたことに、西行法師ではないが「かたじけなさに涙こぼるる」なのだ。

特に1977年の来日公演(画像左)。ベートーヴェンの第6&第5交響曲の演奏は圧巻であった。当時私は中学2年生。高校受験が迫る中でますます音楽(特にクラシックギター)にのめり込む私を心配した父は、ついにテレビの音楽番組視聴を禁じた。(蛇足ながら、中3の1年間はギターも取り上げられた。) そんな父であったが、「ベーム指揮のウィーン・フィルだけは聴く価値あり」と許可してくれたのだった。今は亡き父とテレビの前に座って視た思い出が懐かしい。

1975年の初来日の際、NHKの「教養特集」に夫人とともに出演したインタビューでベームは次のように語っている。ウィーン・フィルの本質を述べていると思う。(余談だが、この時に帯同した若造指揮者がリッカルド・ムーティだった。今では彼は巨匠と遇されている。)

ウィーン・フィルの大きな特色は、彼らが同じ言葉つまりウィーンなまりで話すというだけでなく、音楽的にも同じ言葉を話すということです。

ウィーン・フィルとベルリン・フィルのどちらかと言われると、やはりウィーン・フィルですね。私はオーストリア人ですから。メンバーには30年以上も前からの知り合いもいます。彼らの長所も弱点もよく知っています。
ベルリン・フィルの方もかなり前から知っています。この二つのオーケストラの相違は例えばこういうことです。ベルリン・フィルは要するにプロシア的なのです。本来非常に規律正しい人たちなのです。ですから中位か、またはもっと悪い指揮者の場合でも、演奏は常にある水準を保ちそれより落ちることはない。しかしウィーン・フィルではあまりよくない指揮者が来ると、みんなまったく敬意を払わないし、みんなが言い始める「あのエロイカ(注 ベートーヴェンの交響曲第3番)の第1楽章のテンポは完全にまちがいだ」「それならわれわれの方がよく知っている」。ウィーン・フィルの場合指揮者がよくないとまったくバラバラになってしまうのです。こんなことはベルリン・フィルでではけっして起こりません。ただウィーン・フィルでは、全員がインスピレーションを与えられたときは、本来の姿よりもはるかに偉大なことをやりとげるのです。およそ考えうるかぎりのすばらしいことを実現します。
以下の動画は1977年来日時のベートーヴェン5番(「運命」)。第3楽章終部からアタッカで第4楽章に入る。現代の古楽スタイルの「ダウンサイジング」と異なり、往年の大人数の弦楽と倍管編成の管楽器群。名コンサートマスターの誉れ高かったゲアハルト・ヘッツェルがベームの女房役だ(その横で弾いているのが若きライナー・キュッヒル)。このベーム&ウィーン・フィルの全盛期をNHKはしっかり記録してくれた。また、アーカイヴを一般開放してくれた。公共放送局としての使命をまっとうしていると思う。ぶっ壊す(改革する)必要はあるが、ぶっ潰さないでほしい。

2019年10月28日 (月)

ネバーエンディング・ブレグジット・ストーリー

 

BBCニュース

欧州連合(EU)は28日、イギリスのEU離脱(ブレグジット)期限を2020年1月31日に延期することで合意したと発表した。これにより、10月31日のEU離脱の可能性はなくなった。英下院の当面の焦点は、解散総選挙の動議が可決されるかどうかに移った。

 

もう、どーでもええわ。ミヒャエル・エンデも草葉の陰で呆れる「ネバーエンディング・ブレグジット・ストーリー(はてしない "ブレグジット" 物語)」。

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2019年10月27日 (日)

映画『マチネの終わりに』

 

Gendai-guitar-11『現代ギター』誌11月号(No.674)の表紙はなんと、福山雅治さん。特集が11月1日から全国ロードショーの映画『マチネの終わりに』だからだ。本作は芥川賞作家・平野啓一郎氏の同名の小説を映画化したもの。東京・パリ・ニューヨークを舞台とする切ないラブストーリーだ。主演は福山雅治さんと石田ゆり子さん。

ストーリー(『現代ギター』より抜粋)

世界的なクラシックギタリストの蒔野聡史は、公演の後、パリの通信社に勤務するジャーナリスト・小峰洋子に出会う。

ともに四十代という、独特で繊細な年齢をむかえていた。出会った瞬間から、強く惹かれ合い、心を通わせた二人。洋子には婚約者がいることを知りながらも、高まる想いを抑えきれない蒔野は、洋子への愛を告げる。

しかし、それぞれをとりまく目まぐるしい現実に向き合う中で、蒔野と洋子の間に思わぬ障害が生じ、二人の想いは決定的にすれ違ってしまう。

互いへの感情を心の底にしまったまま、別々の道を二人が辿り着いた、愛の結末とはーー

 

作者の平野啓一郎氏は小説の構想段階からクラシックギタリストの福田進一氏に相談したそうである。福田氏は原作と映画製作のどちらの過程にもかかわっている。福山さんにクラシックギターの稽古をつけたのも同氏だ。またサウンドトラックではギタリスト荘村清志氏と共に演奏を担当している(CD は10月30日発売)。因みに、往年のフランス映画『禁じられた遊び』(1952年)の映画音楽をギター1本で担当したのが巨匠ナルシソ・イエペス(1927ー1997)。荘村清志氏の師匠である。

クラシックギターを弾くましゃ(福山さんの愛称)を観るのも一興である。福山ファンのみならず、一般の人たちにも本作を通じてクラシックギター音楽の魅力に触れてもらえればと願っている。私も必ず観ます。

 

2019年10月26日 (土)

祝 イングランドの決勝進出!

 

ラグビー・ワールドカップ(W杯)。

日本代表が決勝トーナメントから姿を消した今、ロンドン在住の身として応援するのはやはりイングランド代表チームだ。前回大会(2015年)では、開催国でありながら一次リーグ敗退という屈辱を味わった。

本日の対オールブラックス(ニュージーランド代表チーム)戦、球を奪い取った瞬間に攻めに転じるNZの得意パターンを封じる作戦が奏功した。次々にボールに絡みつくディフェンスが光った。

K10012151731_1910261834_1910262003_01_04 試合前、NZのハカに対してイングランドは「Vの字」の布陣を敷いて闘志をあらわした。明日のウェールズ vs 南アフリカ戦の勝者と決勝戦でぶつかる。

それにしてもエディー・ジョーンズ監督(HCヘッドコーチ)である。

彼曰く。

「もし、いいリーダーになりたくて、周りの人のことを本当に考えるのなら、『嫌われる勇気』を持たなければなりません。その人の成長を考えるのなら、ときに感情を揺さぶるような厳しい会話をしなければならない。リーダーになりたいと思ったら、人に好かれようと考えてはいけません。」

ラグビーのHCに限らず教会の牧師やオーケストラの指揮者も同様であろう。但し、エディーが付け加えるように「敬意を持たれることが重要」。<嫌われる勇気>と<カルト化暴走>は時に紙一重である。そこが怖い。履き違えた牧師を私は何人か知っている。

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2019年10月25日 (金)

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番

 

管弦楽: ロンドン交響楽団

指 揮: アラン・アルティノグリュ

曲 目:・M. ムソルグスキー  歌劇『ソローチンツィの定期市』から「序曲」

    ・S. ラフマニノフ 『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18』

              (ピアノ独奏:シモン・トルプチェスキ)

      <休 憩>

    ・M. ムソルグスキー 組曲『展覧会の絵』(ラヴェル編曲版)

日 時: 2019年10月10日 午後7時30分〜

会 場: バービカン・ホール(ロンドン)

 

Img_2846本ブログではキリギリスの姿であるが、本業の牧師という仕事ではしばしば心労で気持ちがひどく落ち込んだり、鬱状態に近くなることもある。陽が短くどんよりしたイギリスの冬の天候はこの傾向に追い打ちをかける。画像の表をご覧いただければ分かるように、宗教家の過労死予備軍率はダントツに高い。医師のそれもかなり高いが、年収も高い(笑) 

Img_5748そういう気持ちが落ち込む時に私が聴く曲はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番である。最近は YouTube 等の動画で視聴することが多いが、ステレオで聴きたい時はやはりCDをかける。数多の名演がひしめく中で、私の昔からのお気に入りは、V. アシュケナージが B. ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のバックで弾いた演奏だ。リヒテル盤と双璧だと思う。

この美しい名曲は、ラフマニノフの極度の不振を経て作曲された曲であることは広く知られている。この曲には感動的な物語があるのだ。1897年初演の『交響曲第1番』が批評家たちに酷評され、ラフマニノフは自信喪失から鬱傾向に陥った。当時、ロンドン・フィルハーモニック協会から作曲を委嘱されていたものの、彼は創作不能の状態になり、強度の精神衰弱に襲われた。友人のすすめで精神科医ニコライ・ダーリ博士の催眠療法と心理療法による治療によってラフマニノフは快復へ向かった。ダーリ博士と家族の支えによって立ち直った彼は後にピアノ協奏曲第2番を作曲し、これをダーリ博士に献呈した。どの時代でも「カムバック」は励まされる物語である。

Img_5731Img_5730幸いなことに、実演を聴く機会に恵まれた。この曲は美しい傑作であるが、自身が名ピアニストだったラフマニノフの作曲ゆえに、高度な演奏技巧が要求される。しかし、難曲であることを感じさせない演奏家の超絶技巧と音楽性が無ければ名演は成立しない。ロンドン交響楽団の定期演奏会に客演したマケドニア出身のピアニスト、シモン・トルプチェスキはその期待に見事に応えてくれた。彼はイギリスや欧州大陸ではですでに名声を得ている。サポートするのは将来の巨匠候補指揮者の一人、アラン・アルティノグリュ(アルメニア系家族のもとパリに生まれたフランス人指揮者)だ。

演奏前、ステージ上でトルプチェスキは「本日が誕生日のアランに私の演奏を献げる(注 アルティノグリュの誕生日は実は前日の9日)」とおどけてアナウンス。サプライズに照れる指揮者。笑う聴衆。くだけた雰囲気で始まったが、ピアノ椅子に座ったトルプチェスキは別人の集中モードに入った。あとは終楽章まで圧倒的な技巧と豊かな歌心でこの協奏曲を見事に弾き切った。鳥肌が立った。聴衆はブラボーの連呼とスタンディング・オベーション。滅多に立って拍手しない私も思わず立ち上がってしまった。彼はアンコールに応え、コンサートマスターのローマン・シモヴィッチ(Vn)と二重奏を披露した。

Img_5737ピアノ協奏曲での大興奮はしかし、指揮者のアルティノグリュには少々気の毒だった。この日のメインディッシュ『展覧会の絵』の演奏も十分に佳演だったが、ピアノ協奏曲のトルプチェスキに食われてしまった感がなくもない。終曲「キエフの大門」の迫力がイマイチだった。トロンボーンが3本であったが、やはり(往年のG. ショルティ&シカゴ交響楽団のように)4本にすべきだったろう。トロンボーンが1本加わることで迫力は見違える。

個人的には、ラフマニノフの協奏曲が目当てだったので、それはそれで満足だった。ロンドンの10月は初冬である。気分が滅入る前に名曲の名演を聴くことができて幸いだった。

 

2019年10月19日 (土)

この期に及んで・・

 

採決延期とは。。

英国議会下院のことである。本日10月19日での議場採決がブレグジットの天王山になるはずであった。ボリス・ジョンソン首相とEU首脳会議が合意に達した協定案に対して、保守党を除籍処分された議員たちと野党が結託して採決先送りの動議を提案。動議が可決されたのだ。

はっきり言って、私は再び呆れ果てた。

国民投票から3年以上にわたる英政治の混迷と国民間の分断は、ひとえに国民投票の結果を飽くまで尊重しようとしない残留派議員の保身と彼らを支援するマスメディア、そしてメディアに誘導された一部国民の頑迷さに起因する。

国民投票の結果は、与野党を含む議会で批准された。そして2017年の総選挙では2大政党の保守党と労働党がどちらも国民投票の結果を尊重すると約束した。「彼らは合計80%以上の票を得たが、自由民主党やスコットランド民族党(SNP)といった強くブレグジット反対を表明する党は前回選挙に比べて大幅に票を減らした。つまりブレグジットは、イギリスの伝統的システムにきちんと従って付託の再確認を得たのだ。」(コリン・ジョイス氏が代弁する離脱派の主張 太字はのらくら者による)

飽くまで国民投票と総選挙の結果を受け入れようとしない「ブレグジット阻止派(議員・権力者や富裕層・マスメディア・国民の一部)」が様々な妨害工作を弄している。本日の採決先送り動議や可決もその一環だ。

ボリス・ジョンソン首相が纏めた離脱協定案は、現在の膠着状況下ではよく練られ考えられた案だと私は思う。だから狡賢いEU側(欧州委員会&首脳会議)も認めざる得なかったのだろう。 

英議会で9月に成立した法律は、協定案が19日までに下院の承認を得られない場合、首相が来年1月末までの離脱期限の延期をEUに要請しなければならないと定めている。しかし延長を要請した場合でも、EU側が3度目となる離脱期限の延期を受け入れるかはわからない。拒否した場合、英国とEUの取り決めがないまま、31日に「合意なき離脱」となる可能性もある。ジョンソン首相は採決先送り動議の可決に対して、10月31日の離脱実現に向けて全く退く気が無いことを議会で再度強調した。

「合意なき離脱」の可能性は再び超現実味を帯びてきた。ここしばらくの間、英議会から目が離せない。

 

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2019年10月17日 (木)

ラビ・ザカリアスという人のこと

 

ラビ・ザカリアス(Ravi Zacharias、英語の発音では「ラヴィ・ザカライアス」のカナ表記が相応しい)ってどうですか?」と意味深な質問を受けることがある。インド出身のキリスト教弁証家だ。カナダとアメリカの市民権を有しているらしい。

聞くところでは、昨年秋に彼のミニストリーチームである「RZIM(Ravi Zacharias International Ministries)」と日本の協力教会がお膳立てして初来日が実現したとのこと。関東地方での集会には多くの参加者があり、好評であったと聞いている。だが詳細は知らない。

正直なところ、この話題には触れたくないのだ。ザカリアス師には「経歴(学歴)詐称」の噂がついてまわる。それを告発する在野からの動画が YouTube にアップロードされていることも知っている。RZIM のスタッフはじめ活動を支援する日本の教会関係者たちも当然そういった動画の存在は知っていることだろう。それでもザカリアス師を支持するということであれば、私はもう何も言うことはない。私とは認識やスタンスが異なるからだ。

最初の質問に戻るが、ザカリアス師をどう思うかと訊かれたら私は「胡散臭い」と答えるだろう。アカデミックな経歴は、たとえそれが百歩譲って意図的な悪意がなかったとしても、詐称自体はもとより疑われる言動をしてしまっても「アウト」であるというのが私の認識だ。サッカーのレッドカードに相当する。「アウト」をくらった者は退場するしかない。ザカリアス師の場合、講演や著書で "My days at Cambridge ..." を言い過ぎてしまった。吹聴していたとすら受け取られても仕方がない。"Professor of Oxford" も同様だ。すでに本人も認めているように事実に反していたのだから、彼の過ちは簡単に赦免されてよいものとは思えない。こういう詐称または詐称スレスレのことを平気で言動する人物は、パーソナリティーに何らかの障害があると思われる。適切な治療を受けないうちのカムバックは私には考えられない。従って、(繰り返すが)支持者の方々とは認識やスタンスが異なる。私に言えることはそれだけだ。

ザカリアス師に関しては別の疑惑もあるが、これについては私は正確な情報を持たないのでコメントできない。飽くまで "疑惑" としか言えない。本投稿ではザカリアス師本人及び RZIM が認めたものについてのみ言及した。

 

 

2019年10月 9日 (水)

ティーレマン&ウィーン・フィル公開練習&定期演奏会(1)

 

管弦楽: ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

指 揮: クリスティアン・ティーレマン

曲 目:・A. ブルックナー 『交響曲第8番 ハ短調』(ハース版)

日 時: <公開練習> 

     2019年10月4日 午後3時30分〜

     <定期演奏会>

     2019年10月5日 午後3時30分〜

会 場: ウィーン・ムジークフェライン(ウィーン楽友協会大ホール)

 

Img_5694 信仰のことーー信仰は目に見えないものを確信させるもの(ヘブル書11章1節、II コリント書4章18節)なのでーーは別として、何であれ私が信じるものは第一に自分の目と耳、第二に信頼できる仲間の評判である。クリスティアン・ティーレマンという指揮者の評価について、私はずっと沈黙を守ってきた。CDやDVD、動画等でその演奏には折々に接してきたが、残念ながら今まで生演奏というものを聴く機会に恵まれなかった。演奏だから、自分の耳で生演奏に接し、判断するまで評価はしないと決めていた。今回、ついにその機会に恵まれた。それもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団という、ティーレマンと相性の良いしかし独自の伝統の音を堅持するオーケストラとの演奏でであった。

ティーレマンの評価とは、音楽評論家の江藤光紀氏が述べておられることに最大公約数的魅力が集約されているだろう。

同世代指揮者たちはコンクール争いの中でしのぎを削ったが、ティーレマン自身はむしろ19世紀的とも言えるドイツの劇場文化に抱かれつつキャリアを積んできた。両親は大の音楽ディレッタント。本人はヴィオラも学んだが、早くからコレペティトゥーアとして現場で音楽を体に叩き込むと同時に、カラヤンのアシスタントとして指揮も学び始める。

(中略)

その人気の秘密は、温故知新、古いものにあえてこだわるというドイツ的マイスター精神にあるのではなかろうか。伝統の偉大さを肌身で体得した経験は、オーケストラ芸術のトレンドがピリオド奏法の成果を取り込みながら、軽く透明感があり、精密でアップテンポな方向に動いていく中で際立ってきた。

ティーレマンが絶大な人気を得ているのは、昔ながらの重心が低く厚手のサウンドや、磨きこまれた艶やかな旋律美に加え、壮大な音楽をうねらせてオーケストラを、そして聴き手を痺れさせるような陶酔へと誘うからだろう。そのマジカルな力は、例えばフルトヴェングラーもさもありなん、と思わせる伝説の演奏を想起させる。ティーレマンの魅力にはまた、ナショナルなものの放つ妖しさが潜んでいるようにも感じられる。

音楽もグローバル化していく時代に、これぞ保守本流というアピールは、一つのブランドとしても絶大な価値を持つ。古くはシュッツに始まり、ウェーバー、ワーグナーやR.シュトラウスといった偉大な作曲家が活躍してきたドイツ最古のオーケストラ(注 シュターツカペレ・ドレスデン=ドレスデン国立歌劇場管弦楽団のこと)の音楽監督に、ティーレマンほどの適任者はいまい。何といっても彼は、フレーズの一つ一つ、言葉の一言一句に至るまでドイツ音楽を知り尽くしたカペルマイスターなのだ。 (『モーストリー・クラシック』 2019年4月号 Vol. 263、p. 46

 

Img_5727 Img_5726 他方で、ティーレマンの音楽への手厳しい評価や批評が常に付きまとって来たこともまた事実である。それらは音楽雑誌での評論家の批評や愛好家の個人ブログなど枚挙に暇がない。ティーレマンの音楽をどう評価するかは従って、自分の目と耳で確かめるしかない。そう思って私はウィーンに足を運んだ。画像左側は公開練習のチケットとプログラム、右側が定期演奏会のチケットとプログラムである。(続く)

 

 

2019年10月 8日 (火)

ティーレマン&ウィーン・フィルなら、ぼったくり演奏会でも聴く価値あり!

 

先日「ぼったくり演奏会」と題した投稿をした。

前言を一部撤回しなければならない。

その理由は数日内に改めて書く予定。

 

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2019年10月 2日 (水)

ウィクリフ・ホールの同窓会

 

71890597_2441732495879794_69233231317969 去る9月19日にウィクリフ・ホールで同窓会(reunion)が開かれた。オックスフォードでは普通、マトリキュレーション(matriculation)と呼ばれる入学式の年が重視されるが(従って卒業しなかった者や退学者もコレッジの同窓会に招かれる)、ウィクリフ・ホールでは卒業年で同窓会を開いている。今回は1990ー1994年に卒業した人たちが対象の同窓会であった。画像は1991年の秋に撮影されたコレッジ・フォト。この年に入学した者で3年コースを履修したなら卒業は1994年ということになる。最前列の中央は故R.T.フランス先生。著名な新約学者にして当時の学長である。フランス先生から右に4番目の人物がアリスター・マクグラス先生。同じく最前列左端はデイヴィッド・ウェナム先生の奥様であるクレア夫人。その隣がD.ウェナム先生だ。その他、この写真の中には今日では著名な牧師や主教(bishop)、または神学者になっている学生たちも写っている。因みに私は1994年入学、1997年卒業である。

71304080_2441732629213114_91155130900860 71831630_2441732602546450_91931469904881ウィクリフ・ホール内の食堂で食事。昔話に花が咲く。

 

Img_5675デイヴィッド・ウェナム先生もクレア夫人と共に出席された。画像中央の人物がウェナム先生。

 

71094308_2441732069213170_83219042416103現学長のマイケル・ロイド先生(左側)。

 

71908291_2441732349213142_13742735190634真ん中の女性はレイチェル・トレウィーク主教。イングランドのグロスター大聖堂の主教(bishop)である。現ロンドン首座主教のサラ・ムラリー主教と共に、イギリス国教会史上初の女性主教になった。女性初の主教は2015年に誕生した。トレウィーク師は1994年卒業。この年に入学した私と入れ違いだった。因みに '94年卒業生の中には、ロンドン・オールソウルズ教会(故ジョン・ストット師がかつて牧会した教会)で活躍する著名な伝道者牧師、リコ・タイス師(Revd Rico Tice)もいる。

 

2019年10月 1日 (火)

懐かしいトヨタ・スターレットのCM

 

Sportscar_01_img_l懐かしいスターレット・ターボ。EP71 型のスターレットだ。1, 300cc ネット105馬力のターボ車は1986年1月に発売。同じ年の4月に社会人となり、研修期間中に新車を購入(トヨタ・コルサ)。しかしコルサはわずか3ヶ月で手放し、下取りに入れて「韋駄天(いだてん)ターボ」ことスターレット・ターボSを購入した。翌1987年5月に結婚したが、新婚旅行はこのクルマで東北地方に行った(本当は北海道を目指したが途中で挫折)。計画も何も無いハチャメチャの新婚旅行だった。よく離婚されなかったと思う(汗)

 

1988年の大魔神が登場するCMは大好きだった。軽快なメロディーと男声&少年合唱団による歌。いったい誰が作曲したのだろう。ご存知の方がいらしたら教えてほしい。

 

2019年9月21日 (土)

日本から英国を眺めてみる

 

一時帰国中である。日本のテレビ番組、特に報道番組は3日も視ているとそのレベルの低さに呆れてしまったので、自然と英国BBCニュースを衛星放送で視ることになる。それでもBBCワールドニュースには不満で、本当は英国内放送を視たいのだが。。

英国のブレグジット(Brexit)。日本でも報道されているとおり、混乱の極みで私などは今年4月11日の投稿(「英国がドイツの軍門に降った日」)以降、基本的にこの件に関して書く気が失せた。

ボリス・ジョンソン首相も八方塞がりで目下打つ手なし。痛かったのは、英国では2011年の「議会任期固定法」以来、首相の「解散権」が封じられてしまっていることだ。同法によって、内閣不信任決議に対する解散権行使か、下院の3分の2以上の賛成による自主解散によってしか、議会が解散されないことが定められた。ジョンソン首相はこの手枷足枷で解散を打つタイミングを完全に逸してしまった。「合意なき離脱」をさせないことを首相に課すことに成功した野党は安心して解散に同意するようになった(上記の「下院の3分の2以上の賛成による自主解散」)。

翻って日本では、憲法41条で国会が国権の最高機関であることが定められ、67条で行政権を担う内閣総理大臣(首相)は国会の議決で選出されることが定められている。国会が国権の最高機関であり、首相が国会の議決で決められる制度を採りながらも、「三権分立」が担保されるには、首相の「解散権」があればこそである。三権分立のチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)は、GHQが意図的にアメリカ流ではなく英国政治を模した制度設計を行ったためであった。

その本家である英国議会が首相から「解散権」を実質的に取り上げてしまった。議会主導とは聞こえはいいが、結局は「船頭多くして船山に上る」であり、何も決められない負のスパイラルに陥ってしまっている。これがブレグジットの現状である。してみると、「決められない政治」の症状は日本だけでないことが分かる。英国もなのだ。しかしその原因は異なる。日本の「決められない政治」の原因はポピュリズム(→「三段論法の功罪」参照)である。

総理大臣から「解散権」を奪うとどれほど国政が混乱するか、英国の現状から日本は学ばなければならない。

Imagehtml「内閣総理大臣の権力とは、とことん突き詰めて言えば、まずは第一に衆院議員全員のクビを一瞬にして切ることができる衆院の解散権である。同時に閣僚や党首脳の人事権は解散権の行使を円滑にするため、表裏一体のものとして欠かせない。結局のところ、この二つをどう有効に行使するかに集約される。一年生議員・小泉は「三木おろし」政局の渦中でこんな冷徹な政治の現実を脳裏に深く刻み込んだのだ。」(清水真人著 『官邸主導 小泉純一郎の革命』 日本経済新聞社 2005年 p. 320)

2019年9月14日 (土)

ロンドンでの『ロンドン』

 

フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲の『交響曲第104番 ニ長調 <ロンドン>』。私の大好きな交響曲の1つだ。中学校入学時、LL(語学学習)機能付きのラジカセを親に買ってもらったとき、付属のデモテープにこの曲が入っていた。第1楽章の親しみやすいメロディーの虜になり、何回も何回も繰り返し聴いた。青春時代の思い出の曲だ。

ハイドンは、ウィーンとロンドンのどちらにもゆかりの深い作曲家だった。その意味で、独断と偏見で私がベストと思う演奏は、2012年のBBCプロムスでのウィーン・フィルのそれだ。指揮者はつい最近引退したベルナルト・ハイティンクさん。コンサートマスターはライナー・キュッヒルさんだ。まさにウィーン・フィルの面目躍如たる演奏! とりわけ輝かしく躍動的ながらそれでいてふくよかな弦楽の響きはこのオーケストラならではの音だ。まさに<歌うウィーン・フィル>、素敵な「ロンドンでの『ロンドン』」の演奏。

第1楽章冒頭の序奏につづき、動画では2分15秒付近から主題が始まる。ぜひ最後まで聴いてほしい。

 

 

 

 

同じ曲を日本のオーケストラの雄、NHK交響楽団が演奏した動画もある。巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットさんが指揮する、これも良く出来た演奏だ。悪くない。がしかし、ウィーン・フィルの演奏と聴き比べると響きが何かしらデジタルだ。弦の艶やかさとふくよかさに欠ける。それに視覚的にどうだろう、奏者が体全体で音楽している演奏はどちらだろうか。ぜひ聴き比べ、見比べていただきたい。

 

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