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2018年2月24日 (土)

正しすぎてはならない・・

 
日本から眺めていたドイツと、イギリスから眺めるドイツの印象はかなり異なる。日本から眺めていたとき、ドイツは「崇敬の国」であった。しかし現在、イギリスから眺めていると「危なっかしい国」と映る。
 
昨年9月の総選挙からこのブログを書いている2月24日現在、ドイツでは未だ新政権が正式には発足していない。与党CDU/CSU(キリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟)と野党SPD(社会民主党)はすったもんだの末、去る2月7日に(再度の)大連立政権樹立の合意に達した。が、SPD内の党員選挙の結果次第ではご破算になる可能性がある(開票結果は3月4日に発表)。両者が恐れるのは再選挙。昨年の総選挙までは泡沫政党扱いであった極右政党「AfD(ドイツのための選択)」が、総選挙後は第三党に躍進。再選挙になればAfDが更に票を伸ばす可能性がある。票を失うのは連立与党である。
 
それにしても総選挙前まではドイツの女帝&EU(欧州連合)の盟主として君臨し、4選後も盤石の政権運営が予測されていたメルケル首相の凋落ぶりは目を覆うばかりである。なぜ彼女は墜ちたのか? 一言でいうなら「難民問題」である。詳細は端折るが、2015年、ドイツ政府は超法規的措置で百万人規模の難民の入国を許可した。政治難民と経済難民を区別することなくであった。ドイツ国民も政府の決断に概ね好意的であった。しかし民族も言語も宗教も習慣も違う人々を一気に百万人単位で受け入れたら国がどうなるかはちょっと理性と常識を働かせれば分かるのではないか?とイギリス人は思ったものである。当時のキャメロン首相は「イギリス人にも(政治難民を受け入れる)ハート(心)はある。しかし理性を働かせなければならないときもある」と(ドイツを横目に)コメントした。その後ドイツ人はようやく現実に目覚めた。それがメルケルさんの凋落、極右政党の躍進という総選挙の結果であった。大衆という振り子は極端から極端に振れるものだ。
 
イギリスから眺めているとドイツ人の危うさがよく見える。ではドイツ人の危うさとは何か? シュトゥットガルト在住の作家・川口マーン惠美さんは次のように述べている。
 
ドイツ人というのは、私が見る限り、正しい人間でありたいという願望のとても強い人たちです。倫理的でありたい、正しい行動を取りたい。つまり、周囲から尊敬される人になりたいのです。
そして、正しいと思う行動を取れるとき、彼らは大変幸せで、心洗われた気分になり、自己陶酔に陥る。そういう場合のドイツ人の自画自賛たるや、相当なものです。
さらに奇妙なところは、ときどき皆がこぞって、突然、理性をかなぐり捨ててしまうことです。そして、倫理観だけを前面にかざし、自己礼賛とともに、非合理の極みに向かって猪突猛進していく。こういう状態になった時のドイツ人は、大変情緒的で、絶対に他の意見を受け付けません。 (『週刊現代』 2015年10月17日号より)
 
 
つまりドイツの難民問題への対処も、善意にもとづいた正しさ(倫理観)からだったのであろう。しかし「地獄への道は善意で舗装されている」と巷でも言うではないか。聖書にもこう書いてある。「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(箴言 14章12節;16章25節 「聖書 新改訳 2017」) "正しさ" とは往々にして「善意」にもとづいていないであろうか。善意だけに異論を唱え辛い問題がある。そしてそれは「まっすぐに見える」のだ。その正しさは「絶対に他の意見を受け付け」ない頑なさがある。
 
現代のキリスト教会のカルト化の問題も案外リーダー(牧師)や指導層(役員会)の「善意」が発端かもしれない。上記の川口マーン惠美氏が指摘する「皆がこぞって、突然、理性をかなぐり捨ててしまう」状態はカルト化した教会に見られる現象である。こういう教会ではまともな人(集団ヒステリーの中で理性を働かせる人)が狂って見える。因みに、「カルト」の定義は1985年アメリカで開かれた「カルト問題:学者と識者のための協議会」で採択された以下の定義が指針となる。
 
カルトとは、ある人間か、観念か、物に対して、過度の忠誠心・献身を現し、非倫理的な方法で人を操作したり、高圧的な手段により人を説得したり、コントロールしたりしようとする集団、あるいは運動である。(その方法とは、友人や家族から隔離させること、衰弱させること、暗示感応性や服従心を高めるための特別な手段の使用、グループによる強い圧力、情報統制、個性の抹消や批判的な考えの停止、グループに対する依存心やグループを離れることに対する恐怖心を助成することである。) これらの手段は、グループの指導者たちの目的を推進するためのものであり、実際に信者自身やその家族、及び社会に損害をもたらす(あるいはその可能性を秘めている)ものである。」 (赤字はのらくら者による)
 
カルト化した教会の見分け方の一例として、例えば、教会総会において「無記名投票」ですら人目を気にすることなく自由に投票できない雰囲気があるとすれば(指導層に逆らう者への "犯人捜し"の横行)、もう間違いなくカルト化していると断言できる。こういうときは少数者の勇気ある「まともな人たち」こそが希望である。
 
 
最後に、ドイツ人の名誉のために申し添えておく。たとえ現在の国政が混乱しているとしても(新政権の未発足)、また危うさがあるにしても(極右政党の台頭)、現実に目覚め、選挙で指導者に対して「否」を突きつけたドイツ国民には希望がある。ドイツの新政権のために祈っている。
 
あなたは正しすぎてはならない。
自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。
(伝道者の書 7章16節  「聖書 新改訳 2017」)
 
愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。
しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。
(箴言 12章15節   「聖書 新改訳 2017」 )
 

2018年2月20日 (火)

BBCニュースのカウントダウン音楽

 
「1秒」をリズムとして体に刻むのに便利。動画は60秒バージョン。
 
 
 
 

実際の映像例(90秒バージョン)。映像と音楽がマッチして実にカッコイイ。最後の4秒間に映るBBCの社屋。その右端に見える尖塔のある教会が、故ジョン・ストット師で有名なオール・ソウルズ教会

2018年2月16日 (金)

英雄失格

 
人生で影響を受けた漫画が時に決定的な判断の原動力になることがある。
英雄失格』第6巻に収められた「不滅の挑戦者」などはその例だ。
主人公カール・シュミットの言葉、
 
狂気の時代にはまともな人間のほうが、ぎゃくに正気でなくみえるもんさ
 
 
ここ2週間ほど一時帰国していた。狂気と思われるとある雰囲気の中で、自分は<英雄失格>と悟った。私は周囲にさぞ「正気でなく」みえたことだろう。
 
 
 
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2017年12月30日 (土)

プリンシプル不在の時代だから

 
白洲次郎 に学ぶ。
(別冊宝島 『白洲次郎という生き方』より)
 
 
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2017年12月15日 (金)

グレンフェル・タワー火災犠牲者合同追悼礼拝

 
グレンフェル・タワー(ロンドン・ケンジントン地区)の大火災から半年が経った。今年6月14日にロンドン西部に建つ高層住宅棟(タワー・ブロック)「グレンフェル・タワー」で発生した火災だ。日本での報道は大々的ではなかったが、英国内では第二次世界大戦後最悪の死者数70人を数えた大災害だった。本日、ロンドンのセント・ポール大聖堂で追悼礼拝が行われ、BBC全国ニュース等で報道された。犠牲者の遺族および被災者の他、チャールズ皇太子夫妻やウィリアム&ハリー両王子、テリーザ・メイ首相、カンタベリー大主教、国教会および他宗教関係者ら約1,500名が参列。
 
ケンジントン主教としてインタビューに答えるグレアム・トムリン先生。先生はじめケンジントン地区の教会および他宗教関係者は犠牲者家族と被災者に寄り添ってこられた。
 

2017年12月11日 (月)

「恥知らず」の意味

 
聖書 新改訳 2017』でルカの福音書11章8節にある「アナイデイア(ἀναίδεια)」という語がどう訳されるかに関心を持っていた。入手できたので見てみたが「(友だちの)しつこさのゆえなら」と訳されてあった。直訳では「恥知らず」「ずうずうしさ」であるためか、転じて執拗さやしつこさの意味で訳されるようだ。新改訳聖書第3版では「頼み続ける」、新共同訳聖書では「しつように頼む」とそれぞれ訳されている。
 
しかしこのように訳すことによって、このたとえ話のポイントがパンを求めている側にあるように解されてしまう。(『聖書 新改訳 2017 』の脚注にはルカ18:1ー6のたとえ話が参照として紹介されている。) そうなると結局、キリスト教も熱心に求める「行為」によって救われる宗教と誤解される危険はないか。このたとえ話のポイントはむしろパンを求められた友人の側にある。
 
トリニティー神学校の D. A. カーソン教授が指摘するように、英語で shameless とは恥を恥とも思わない「恥知らず」を意味するが、ギリシャ語の「恥知らず」とはその行為によって恥を免れること、つまり shame-less を意味する。従って11章8節のアナイデイアをカーソン教授が提案する私訳「(近所の仲間内で)恥を受けたくないと願う」と訳すことで、渋々求めに応じる友人の姿勢にスポットが当たってくる。つまり、(旅人をもてなすことが当然とされる文化の中で)恥をかきたくないからという情けない理由で重い腰を上げるこの人でなしですら最終的に求めに応じるなら、まして神は・・というのがたとえ話のポイントとなる。こう解釈することで13節のイエスの言葉「それならなおのこと、天の父は・・・聖霊を・・・」に繋がるようになる。やはり神は恵みの神なのだ。私たちは熱心に求めるという「行為・行い」によって何かを得たり救われるのではない。神の恵みを信じて憩いたい。
 
 
画像は私たちの教会が礼拝の場としてお借りしているイギリス国教会の礼拝堂。アドベント第2週の聖日は今年初雪の日となった。
 
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2017年11月28日 (火)

ようやく読了?

 
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6月に行われた私の就任式に列席くださった恩師の P. ジョンストン先生と奥様。お祝いにと、先生が編集者の一人として携われた本をプレゼントしてくださった。ケンブリッジのティンデル・ハウスのプロジェクトによる結婚と家族関係に関する研究論文集である。書名からの印象ではただの結婚や家族に関する本と思われるかもしれないが、ジェンダー問題・同性婚や LGBTQ、更には性同一性障害の問題まで踏み込んだ極めて意欲的な論文集である。先生は編集者として大御所やベテラン学者にも遠慮なく「朱筆」を入れたらしい。若手学者は素直に聞いてくれるが、ベテランほどゴネたそうだ。でも先生はめげなかった。 やはり本は著者だけでなく、優れた編集者を得てはじめて作品となる。
 
編集者の苦労話を伺ったので愛着の湧く本となった。8月の夏休みに一気に読むはずだったが、結局ずるずると年末近くまで来てしまった。ようやくひととおり目を通したものの、内容が非常に高度で咀嚼するには再読が必至。振り出しに戻った感じ。まあ、よい。歳をとったから濫読より精読だ。思えば若い頃は「万をもって一にあたる」の姿勢で手当たり次第読み漁ったものだ。今はむしろ「一をもって万にあたる」が信条。著者の渾身の力作をじっくり読んだ方がずっと益になる。渾身の力作などそう何冊もあるものではない(最近の数少ない一冊が過日のブログで紹介したJohn Barclay の本)。従って、かつてのようにジャーナリスティックに新刊神学書を追いかけることへの関心もめっきり減った。神学界も否応なく資本主義の波に呑まれているので(Publish or perish)、20年どころか10年ももたない(時代遅れとなる)神学書が次々出版されている。
 
読む数(冊数)を減らした分、大事になってくるのが「アウトプット」。インとアウトのバランスが大事なことに気づかされている。最後に「余計なお世話」を書いて終わることにする。
 
説教は神学のアウトプットという面がある。いわゆる教職者と一般信徒の間に(信仰ではなく)知識とスキルの差があるとすれば、それはアウトプットの量の違いである。詰め込んだ知識はアウトプットしなければ真に自分のものとはならない。例えば、もしある教会のすべての教会員が教会学校の先生を担当したら(アウトプットしたら)、その教会の雰囲気は一変し、教会の神学レベルはぐんと上がるであろう。牧師もいい加減な説教はできなくなる。「うちの教会の説教は退屈」ともしあなたが思っているなら、その説教を作っているのは、実はあなたを含む教会員全員でもあるのだ。
 
 
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2017年11月27日 (月)

風刺パロディーの妙

 
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ここ英国では「ブレグジット(Brexit)」がニュースや報道で取り上げられない日はない。国の将来を決める一大事であるからだ。ブレグジットとは、Britain(英国) と exit(出口)を合わせた造語で、「英国の EU(欧州連合)離脱」を意味する。昨年6月に実施された国民投票の模様は日本でも各メディアで大きく報道された。
 
ロンドン市内の書店ではブレグジット関係の本が多数並んでいるが、一番の売れ筋は「不思議の国のアリス」ならぬ「ブレグジットの国のアリス」(↓↓の画像参照)らしい。とにかくこの本、パロディー本の秀作と言ってよい。パロディーだから、ルイス・キャロルの原作をある程度知っていることが望ましい。
 
表紙のチェシャ猫のパロディーは「英国独立党(通称 UKIP ユーキップ)」の元党首ナイジェル・ファラージュ氏である。チェシャ猫のようにニヤニヤ笑っている。本文挿絵の冷酷な女王様はテリーザ・メイ首相、裏表紙にはハンプティ・ダンプティ(「鏡の国のアリス」に登場するキャラクター)ならぬツイートをする卵の「トランプティ・ダンプティ」が描かれている。メキシコのお金で作った塀の上にいる。その他豊富なパロディー・キャラクターたちと軽妙なパロディー文体が爆笑の世界へと誘ってくれる。英国の "今" を知るためにも一読をお薦めしておく。
 
 
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2017年11月24日 (金)

鄙(ひな)の論理

 
サイモン・ラトルも、今晩のマリス・ヤンソンス(Mariss Jansons, 1943〜 ラトビア・リガ出身)も、キャリアの出発はオーケストラ界の地方オケ&二流オケからだった。ラトルは1980年からイギリスのバーミンガム市交響楽団(当時)で18年間にわたり指揮者を務め、このオケを一流楽団に成長させた。ヤンソンスも1979年から2002年にかけて23年にわたりノルウェーのオスロ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として同楽団を一流オケに育てた。
 
その昔、『鄙の論理』という本があった。著者は細川護煕氏(元内閣総理大臣)と岩國哲人氏(メリル・リンチ元米国本社副社長)。細川氏は首相の前に熊本県知事を、岩國氏はメリル・リンチ社を経て島根県出雲市長をそれぞれ務めた。鄙の論理の「鄙(ひな)」とは、例えば「鄙びた温泉旅館」の鄙である。要するに「地方」ということだ。本の詳しい内容はもう忘れてしまったが、主旨と共に書名はいつまでも記憶に残っている。
 
不思議なことだが、ラトルからもヤンソンスからも、私は匂いのような「鄙の論理」を感じる。それは「素朴さ」であり「逞しさ」でもある。都会で仕事をしても都会ずれしない。そんな純粋さでもある。ラトルは今シーズンをもってクラシック界の「中央」ベルリンを辞して来年には「偉大なる田舎」のロンドンに帰還する。ヤンソンスは望めば恐らく間違いなく「中央」ベルリンに進出できたのに、「地方」のミュンヘンでの契約延長を選んだ。自発的にラトルの後任レースから降りたのである。
 
そういえば牧師・伝道者も、「鄙(ひな)」の匂いをまとった人とそうでない人がいるように思われる。今をときめくKGKの総主事さんも、本格的なキャリアの始まりは雪深い北陸地方であった。反対に「鄙」を全く感じさせない人もいる。私はなぜか本能的にそういう人とは肌が合わない。だから無理して付き合わないようにしている。ストレスが溜まるから。多分、相手も私を田舎っぺと思っていることだろう。仕方がない。
 
今晩の演奏終了後に「ロイヤル・フィルハーモニック協会」から今年の金賞受賞者であるヤンソンスへの祝辞の時間が設けられた。協会会長の他、ピアニストの内田光子氏も招かれて祝辞を述べた。答辞をしたヤンソンスは受賞の光栄を感謝しつつ、「しかしオーケストラ抜きの指揮者は何者でもありません。だから私の受賞はオーケストラのものでもあるのです」とバイエルン放送交響楽団との蜜月ぶりをアピールした。確かに今晩の演奏からも両者の信頼関係はひしひしと伝わってきた。ヤンソンスは今年で74歳。「70歳以上のオケの音楽監督は老害」と断言した過日の拙ブログ文も、このコンビについてだけは例外としなければならないかもしれない。「鄙」を愛したマエストロの面目躍如の一夜であった。
 
 
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2017年11月10日 (金)

エサ=ペッカ・サロネンのマーラー9番

 

エサ=ペッカ・サロネン氏、今月のロンドン公演(フィルハーモニア管弦楽団定期演奏会)の意気込みを語る。

 

 

許 光俊氏(ドイツ文学者・音楽評論家)のサロネン評(『モーストリー・クラシック』誌 vol. 156 2010年5月号 p. 30)

エサ=ペッカ・サロネンは、指揮台に立つために生まれてきた人間である。

北欧人としては例外的なほど小柄で、遠目には少年のように見える。ところが、いったん棒を振りはじめるや、大編成のオーケストラは、猛獣使いに遊ばれるライオンのごとく従順になってしまうのだ。

痛快である。「もしかしたら、指揮なんて簡単な仕事ではないか」と錯覚させられてしまう。天性の指揮者とはそういうものだ。

音楽と身振りがピタリと合っている。動いた通りに音が出てくる。見ていてとても気持ちがいい。これまた天性の指揮者とはそういうものだ。ナマで見ればすぐわかる。

サロネンの音楽は、きわめてダイナミックでキレがいい。響きは原色が飛び交うような鮮やかさで、リズムが乱舞している。演奏後には、聴衆が大歓声をあげるのが常だ。

とはいえ、安っぽくて野蛮な興奮を売り物にしているわけではない。どんなに熱狂的場面においても、音が散らかってしまうことがない。清潔だし、洗練されている。

 

画像は2年前(2015年5月)、サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団による O. メシアンの大作『トゥランガリラ交響曲』演奏会(@Royal Festival Hall, London)でのもの。100名を超える大編成オーケストラの演奏は稀有の体験であった。サロネンの手綱さばきは上記の許氏のサロネン評どおり。終演後、会場は興奮のるつぼであった。さて、マーラーの9番ではどんな棒さばきを見せてくれるだろうか。

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2017年10月17日 (火)

故オリバー・バークレイ氏

 
日本では盟友であった故ジョン・ストット師のみが脚光を浴びるが、ここ英国、少なくともキリスト教界及び大学生伝道の世界ではオリバー・バークレイ氏抜きで福音主義の歴史を語ることはできない。科学者であり UCCF(英国キリスト者学生会)の総主事を務めたバークレイ氏。氏の著作は私の愛読書でもある。4年前の10月に『ザ・タイムズ』紙に掲載された追悼記事(obituary)を今読み返している。
 
氏の4人の子どもの末っ子、ジョン・バークレイ博士は現在、ダラム大学神学部「ライトフット新約学教授職」にある。ジョン・バークレイ教授の最新刊である大著 "Paul and the Gift" は最近の研究の集大成として各方面から高い評価を受けている(One of Barclay's most recent works, Paul and the Gift (Eerdmans, 2015), has drawn considerable praise from scholars around the world. It has been hailed by Markus Bockmuehl and Tim Foster as the most significant book on Paul since E.P. Sanders's Paul and Palestinian Judaism (1977).[9][10] Douglas Moo has said it is "one of the best books on Paul’s theology in the last twenty years." 以上 Wikipedia より)。久しぶりに「読まなければ」と思わされる本に出会った。
 
 
 
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2017年10月15日 (日)

マイブーム

 
直前で働いた教会そして今いる教会での経験に基づく私見だが、指揮者も牧師も70歳も過ぎて「音楽監督」とか「主任牧師」など組織の長の地位に留まるのは "老害" 以外の何ものでもないと思っている。もちろん諸事情の中で賛否あることは承知で物申している。しかし敢えて言う。70歳を過ぎて後継者にバトンタッチする用意もできてないなど私には論外だ。その点で、ジョン・パイパー師や今年7月にリディーマー長老教会(NY)の主任牧師を辞したティモシー・ケラー牧師の引き際は本当に見事であった。伊達政宗の 「梵天丸もかくありたい」ではないが、私もそうありたいと思う。だから私は着任したと同時に離任のタイミングを考えて働きの計画を逆算するように努めている。現在仕える教会でもいつまでも居座る気は毛頭ない。召された働きを終えたら次の人に(若い世代になるべく早く)バトンタッチしたい。拙ブログ読者の方々にはそのために祈っていただけたら幸いである。
 
高齢者が組織の長に留まるのは反対だが、他方で、例えば高齢の指揮者がフリーの立場で他のオーケストラに客演したり、ベテラン(元々の意味は「退役軍人」)の牧師がフリーランスとして他の教会で奉仕することには大賛成だ。ドクターX ならぬパスターX は積極的に応援したい。その人の経験が豊かに用いられると信じている。フリーランスの働きに年齢制限など必要ない(とはいえ、人は「年相応に枯れる」ことが大事とも思う。枯れ方は各自が決めればよい)。そのためにも、日本の教会も牧師在任時から牧師と教会員(特に役員会と)が退職金や年金等引退後の備えを忌憚なく話し合っておくことが望ましい。牧師をコキ使っておいて用が済んだらポイではあまりにひどい。
 
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思えば私自身も年を取ってきた。年を重ねて良いこともある。今まで見えなかったものが見え、分からなかったことが分かってくる祝福がそこにはある。話は急に飛躍するが、グスタフ・マーラーの交響曲など私にとって良い例だ。若い頃はマーラーの交響曲の意味・意義がさっぱり分からなかった。しかし50代の半ばに来て現在のマイブームはマーラーの交響曲、特に第9番の交響曲だ。数多の指揮者&オーケストラの演奏を漁り、特に第4楽章「アダージョ」に涙するきょうこの頃である。今年から来年にかけて、以下の実演にも足を運ぶ予定。できれば60代以上の指揮者が振る実演に接したいのだ。
 
2017年11月 エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団(@ロンドン)
2018年 4月 サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団(@ロンドン) 
2018年 6月 ベルナルド・ハイティンク指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(@アムステルダム)
 
数多の名演のCDがあるが、映像での実演記録では何と言っても(晩年にフリーランスとなった)レナード・バーンスタインウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した演奏を推したい。以下の動画でまずは第4楽章を視聴していただければと思う(56分20秒付近から)。バーンスタインの渾身の指揮によりまるでその場で曲が作られるが如くの演奏に私などは感涙してしまう(バーンスタインの変幻自在のテンポにウィーン・フィルはよく追いてきている)。老害は嫌だが、円熟の巨匠が指揮界にも牧師界にもいなくなったのを嘆くのは私だけだろうか。。
 
 

2017年10月13日 (金)

ワレリー・ゲルギエフ指揮オックスフォード・フィルハーモニック

 
超大物指揮者がイギリスの地方オーケストラを振るというので興味が湧き出かけた。曲目は以下のとおり。協奏曲のソリスト(英語ではソロイスト)はロンドン交響楽団(LSO)のコンサートマスターを務めるローマン・シモヴィッチ。このオーケストラの演奏会は通常オックスフォード大学のシェルドニアン・シアター(Sheldonian Theatre)で行われるが、今回は市役所のホール(Oxford Town Hall)で行われた。たった560名ほどのための贅沢な演奏会であった。因みに、ゲルギエフは今年12月に来日する
 
G. ロッシーニ 『ウィリアム・テル序曲』
 
I. ストラヴィンスキー 『ヴァイオリン協奏曲』
 
F. メンデルスゾーン 『交響曲第4番 「イタリア」』
 
I. ストラヴィンスキー  バレエ音楽 組曲『火の鳥』
 
 
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2017年10月 9日 (月)

神の愉快な雲上人

 
場所柄か私たちの教会には時々、いわゆる有名人の方が礼拝出席される。もう4ヶ月近くも前になるが今年の6月下旬、その日の礼拝にドイツ文学者と英文学者のご夫妻が出席された。往年のNHKテレビ『ドイツ語講座』の視聴者だった私にはご主人はまさに雲上人の方だ。奥様も某女子大学の教授を歴任された英文学者。しかし何よりご夫妻はとっても素敵なクリスチャン夫婦だった。初対面の私もたちまち打ち解けてしまった。礼拝後に教会員のB夫妻も交えて近所のレストランでお交わりの時を持たせていただいた。カール・バルト著『モーツァルト』の翻訳者でもあられる。時間があればじっくりお話を伺いたかった。残念。
 
 
 
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2017年9月22日 (金)

サイモン・ラトル&ロンドン交響楽団

 

サイモン・ラトル指揮のロンドン交響楽団(LSO)定期公演。9月に入り、いよいよ 2017ー2018年のシーズンが始まった。今シーズンの注目は何と言っても LSOの音楽監督(Music Director)に就任したサイモン・ラトルの本格始動。とはいえ彼は今秋からの1年間だけはベルリン・フィルの芸術監督も兼任する(11月にベルリン・フィルと来日公演)。ロンドンっ子たちはラトルの帰英を大歓迎。

昨晩のプログラムはオール・ストラヴィンスキー。(バレエ音楽)
『火の鳥』(1910年の全曲版)
『ペトルーシュカ』
『春の祭典』

良くも悪くもニュートラルなサウンドの LSOがラトルの元では俄然燃えていた。このコンビの今後を期待させる素晴らしいスタートであった。

 

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2017年9月14日 (木)

神学の前進をよろこぶ

 
"Fortfahren heißt in der Thelogie: noch einmal mit dem Anfang anfangen." 「前進するとは、神学においては、もう一度はじめからはじめることを意味する」との『福音主義神学入門』でのカール・バルトの言葉が好きだ。これは "dasselbe immer wieder anders"「同一のことを繰り返し別の仕方で」と "immer wieder anders dasselbe"「繰り返し別の仕方で同一のこと」を語ることである。
後藤 敏夫著『神の秘められた計画 福音の再考ー 途上での省察と証言』(いのちのことば社)を読みながらバルトのこの言葉を思い出していた。神学の前進をよろこびたい。
 

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2017年7月22日 (土)

近況

 
ロンドンで暮らしています。
 
 
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2016年11月 7日 (月)

さようなら。そしてありがとうございました。

 
 
本ブログ管理ページである@homepage のサービス終了に伴い、更新手続きは行わず、本ブログを終了することにいたしました。 開始からおよそ8年という短い歳月でしたが、今までのご訪問に心から感謝申し上げます。
 
私、のらくら者は、来年3月で現在奉職する教会を辞することになっています。次の奉仕先も(感謝なことに)すでに与えられておりますが、無事に赴任できるかどうか、現時点は不確定要素が伴います。無事に赴任が叶った場合、もしかすると新しいブログを立ち上げるかもしれません。反対に、その道が閉ざされた場合、ブログとは当分の間縁遠い関係となるでしょう。いずれであれ、主なる神様の御旨にお委ねしたいと思います。
 
それでは、さようなら。今まで本当にありがとうございました。
 
 
PS. 後藤敏夫先生小嶋 崇先生のそれぞれ温かいお言葉に深く感謝申し上げます。
  ありがとうございました。
 
 

 

@homepageサービス提供終了後のデータバックアップ・ホームページ移行手続きについて


平素は@niftyをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。 先般お知らせいたしました通り、@homepageは 2016年 11月 10日(木)15時をもちましてサービス提供を終了させていただきました。
長年にわたりご愛顧いただき、誠にありがとうございました。

なお、@homepageのデータバックアップおよび、後継サービス(無料)への移行手続きは、引き続き【 2016年 12月 12日まで 】お手続きが可能です。

2016年10月 9日 (日)

『聖書の教える金持ち父さん 貧乏父さん50』

 
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この本、今のところ今年度前半の信仰書ベストの一冊です。書名は既存書のパロディーでしょうが、内容では著者の新鮮な聖書の読み方、世の中の事象や自らの経験の思索から得た洞察が秀逸です。何かにつけ「清貧の思想」や「清く正しく(貧しく)美しく」を聖書解釈に読み込みがちな一部のクリスチャンには目からウロコだと思います。いわゆる「繁栄の神学」とは明確に一線を画した内容です。タイトルと装丁から誤解のないように。
 
本の帯の裏面にある抜粋を紹介しておきます。本書のさわりです。
 
自給自足は他人に富を分配しない。人間は他の人が必要とする分まで働いてこそ富の分配は起こり、この分配が自らの富になっていく。自給自足の社会は貧しい社会である。漁師が自分の必要な分だけ漁をしたら、海辺に住んでいない人は一生魚を食べることができない。健全な経済社会の中では、人は必ず「自分に必要な分+他人が必要な分」まで労働している。これを別の言葉で言い換えるなら「自分を愛するように隣人を愛する」となる。(本文第49話「アガペと経済原理」より)
 
私は以前に「頭を下げる価値を上げるために」という文章を書いている人間なので、クリスチャンこそ「金持ち父さん」になってほしいと強く願っています。もちろんその富が社会や世界に分配されるためにです。
 
というわけで、聖書の御言葉を賢く読み取った著者の知恵と洞察に満ちた50の話をご堪能あれ。これで1,000円+税とは安い!
 

2016年9月23日 (金)

当たらずも遠からず(3)

 
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イギリスの高等教育情報誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による今年(2016ー2017)の世界大学ランキングが発表されました。それによると世界第1位はオックスフォード大学となりました。上位10校のランキングは以下のとおりです。尚、アジアの大学ではシンガポール国立大学24位でトップ。日本の東京大学39位アジアで4位)と、2015年(2015ー2016)からアジアトップの座を明け渡しただけでなく、今年は4位に後退(昨年は2位)と凋落著しい結果となりました。私見では、能力と意欲に満ちた若者はどんどん外国の大学で学ぶべきです。いつまでも「東大一直線」ではありません。すでにそういう時代なのです。
 
以前にも書きましたが、大学ランキングは非常に多面的な評価で行われます。英語圏の大学に有利な面もありますが(留学生の数や論文の被引用数など)、それだけで上位に入れるほど甘くはありません。上位校の顔ぶれを見ると、不断の向上と改革の成果が最終的なランキングとして評価されているのだと思います。従って「当たらずも遠からず」がランキングに対しての個人的な印象です。
 
PS. 「アジアで7位」を「アジアで4位」に訂正しました。
 
 
 

2016年9月 5日 (月)

<フィルビーの亡霊>から学ぶこと

 
 
 
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ケンブリッジのスパイたち(Cambridge Spies)とは、キム・フィルビーアントニー・ブラントガイ・バージェスドナルド・マクリーン、そして第5のメンバーと言われるジョン・ケアンクロスら、イギリス諜報(スパイ)史上最も悪名高い5人の二重スパイたちのことです。通称「ケンブリッジ・ファイブ」。最悪にして、諜報史上最も成功した男たちです。彼らは1930年代(両大戦間期)から1950年代にかけて、英国外務省、国家情報局(MI 6)、王室、BBC等、国家の重要機密を扱う各部署の中枢で働きつつ、約30年間にもわたってイギリスとその同盟国の外交、軍事、諜報等にかかわる機密情報を旧ソ連のKGB本部へ漏洩し続けたのでした。そして5人の中心だった人物こそ、画像の自叙伝の著者、キム・フィルビーです。
 
彼ら5人に共通した特徴は、
1)上流階級出身
2)名門パブリックスクール
3)ケンブリッジ大学で最も格式を誇るトリニティー・コレッジ
4)排他的社交クラブのメンバー(ブラント、バージェス、ケアンクロス)
5)学生時代に共産主義を信奉
 
1)〜4)の特徴で思い出しませんか? そう、映画『ライオット・クラブ』です。オックスフォードに「ブリンドン・クラブ」があるように、ケンブリッジにもブルームスベリー・グループと関係の深い「ケンブリッジ使徒会(The Cambridge Apostles)」という排他的エリートクラブがあるのです。ブラントやバージェスはこの使徒会のメンバーでした。フィルビーをはじめとするこれらケンブリッジのエリートたちは大学時代に共産主義を信奉するようになり、ソビエトKGBからの勧誘によってスパイとして活動するようになりました。フィルビーは後に MI 6(エムアイシックス、「英国情報局秘密情報部、SIS, Secret Intelligence Service」の通称。外務省管轄の情報機関)の長官候補、つまりナンバー2にまで登りつめた男でした。しかし後にソ連の二重スパイであることが発覚し、1963年にソ連に亡命しています。
 
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ではなぜ30年間も正体がバレなかったのでしょうか? フィルビーは自伝で「それは自分が上流階級の人間だったから」と答えています。支配階級出身であるがゆえに、もし MI 5(エムアイファイブ、「英国情報局保安部、SS, Security Service」の通称。内務省管轄の情報機関。国内での外国スパイの摘発、国家機密の漏洩阻止などの防諜活動、テロ組織の情報収集や取り締まりなど、国内の治安維持活動を専門に行う)による厳しい取り調べの結果スパイでないことが判明すれば、MI 5 の大スキャンダルに発展することを知っていたからとフィルビーは述べ、上流階級出身が隠れ蓑になったことを明かしています。ここで大事なことは、イギリスの階級社会が国家的犯罪の発覚を妨げたこと、そしてそういう事情を熟知したKGBが仕掛けた諜報戦であったということです。これは紛れもない歴史の事実です。
岡部 伸氏は近著 イギリス解体、EU 崩落、ロシア台頭 EU 離脱の深層を読む (PHP新書)で次のように述べます。
 
英国の上流階級は名門パブリック・スクールに学び、オックスフォードやケンブリッジ大を卒業し、排他的クラブで社交を繰り広げる一握りのエリートだ。キャメロン前政権ではイートン校出身のエリートが集まり、キャメロン前首相やジョンソン外相らは、その筆頭格だった。男子だけの寮生活で育まれたすさまじいエリート主義がフィルビーの「史上最大の裏切り」を招いたとすると、フィルビーのイートン校の後輩にあたる英国の最高のエリートが導いた今回の国民投票による EU 離脱も、同じ文脈で捉えることもできる。英国の階級制度の病根は根深いといえるだろう。実際にフィルビーは、「階級に違いがあったため、強い疑惑を抱いても、MI 5 は真相を突き止められなかった」と認めている。 (同書 pp. 160 ー161)
 
現在のテリーザ・メイ首相は6年間という歴代最長の内務大臣を務めた方です。英国内務省は日本の総務省・法務省・警察庁を束ねたような強大な役所であり、上記の MI 5 もその管轄下にあります。メイ首相は内務大臣時代からロシア情報機関による英国内での諜報活動及び亡命した元KGBエージェントの暗殺を捜査してきました。特に2006年にロンドンで毒殺された元KGB職員で反体制活動家のアレクサンドル・リトビネンコ氏の死因を、今年1月に出た独立調査委員会の最終報告は「プーチン大統領が関与したロシア政府の国家犯罪の可能性」を示唆し、当時内務大臣だったメイ氏はロシアに厳しい姿勢を示しました。ロシア側は当然猛反発し、メイ氏との間に激しいやりとりがありました。これ以前からも、即ちチャーチル元首相以来、英国は常にロシア(旧ソ連)に最も厳しい姿勢を取ってきました。旧KGB、そして現在のFSB(ロシア連邦保安局)とのすさまじい諜報戦は続いています。
 
この英国 vs ロシアの諜報戦、つまり<フィルビーの亡霊>から私たち日本は何を学べるか考えてみることは大事です。KGBが英国の階級社会という弱点を突いたように、敵国の弱みにつけ込むのは諜報戦争の定石です。今回の英国国民投票の実施とその結果の背後にもしロシアの影があるとすれば背筋が凍る思いです。EU 離脱の結果を誰よりもほくそ笑んでいるのはプーチン大統領のロシアであろうからです。
同様に、中国共産党政府が日本にエージェントを送り込み、日本の弱点を突いた様々な諜報戦を展開していないという保証がどこにあるでしょうか。では日本の弱点は何か? その一つは間違いなく「戦後リベラル 」という勢力と私は見ています。キリスト教会、特に教職者層にも浸透した勢力ではないでしょうか。それ自体は大した影響と思えません。しかし<フィルビーの亡霊>の如く、外国の情報機関に操られる時、それは大きな脅威となるかもしれません。
 
 

2016年8月23日 (火)

「預言者」気取り

 
香取君を叱ったボス猿
 
 
だいたいなんだ、デモとか声明文とか。
 
 預言者気取りか!」。
 
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「牧師ならこの11歳の少年が語ることを宣べ伝え、教会を教育してこい!」(ボス猿談)

 

 
In Genesis, Jesus Christ is the Breath of Life
In Exodus, He is the Passover Lamb
In Leviticus, He is our High Priest
In Numbers, He is the Pillar of Cloud by day and the Pillar of Fire by night
In Deuteronomy, He is the Prophet like unto Moses
 
In Joshua, He is the Captain of our salvation
In Judges, He is our Judge and Law Giver
In Ruth, He is our Kinsmen-Redeemer
In 1st and 2nd Samuel, He is our trusted Prophet
In Kings and Chronicles, He is our reigning King
 
In Ezra and Nehemiah, He is the Rebuilder of the broken-down walls of human life
In Esther, He is our Mordecai
In Job, He is our ever living Redeemer
 
In Psalms, He is our Shepherd
In Proverbs and Ecclesiastes, He is our Wisdom
And in Song of Solomon, He is our loving Bridegroom
 
In Isaiah, He is the Prince of Peace
In Jeremiah, He is the Righteous Branch
In Lamentations, He is the weeping Prophet
In Ezekiel, He is the wonderful Four-Faced Man
In Daniel, He is the Fourth Man in life's fiery furnace
 
In Hosea, He is the faithful Husband for ever married to the backslider
In Joel, He is the Baptizer of the Holy Ghost and fire
In Amos, He is our Burden-bearer
In Obadiah, He is Mighty to save
In Jonah, He is our great Foreign Missionary
 
In Micah, He is the Messenger of beautiful feet
In Nahum, He is our Strength and Shield
In Habakkuk, He is God's evangelist crying, "Revive thy works in the midst of the years."
In Zephaniah, He is our Saviour
In Haggai, He is the Restorer of God's lost heritage
In Zechariah, He is the Fountain opened up in the house of David for sin and uncleanness
In Malachi, He is the Son of Righteousness rising with healing in His wings
 
 
In Matthew, Jesus Christ is the King of the Jews
In Mark, He is the Servant
In Luke, He is the Son of Man feeling what you feel
In John, He is the Son of God
In Acts, He is the Saviour of the world
 
In Romans, He is the Righteousness of God
In 1st Corinthians, He is the Rock, the Father of Israel
In 2nd Corinthians, He is the Triumphal One giving victory
In Galatians, He is your Liberty. He sets you free
In Ephesians, He is the Head of the Church
In Philippians, He is your Joy
In Colossians, He is your Completeness
In 1st and 2nd Thessalonians, He is your Hope
In 1st Timothy, He is your Faith
In 2nd Timothy, He is your Stability
In Titus, He is Truth
In Philemon, He is your Benefactor
 
In Hebrews, He is your Perfection
In James, He is your Power behind your faith
In 1st Peter, He is your Example
In 2nd Peter, He is your Purity
In 1st John, He is your Life
In 2nd John, He is your Pattern
In 3rd John, He is your Motivation
In Jude, He is the Foundation of your faith
And in the Revelation, He is your coming King!
 
(clapping)
 
He is the first and the last
The beginning and the end
He is the Keeper of creation and the Creator of all
He is the Architect of the universe and the Manager of all times
 
He always was, He always is, and He always will be
Unmoved, unchanged, undefeated and never undone
He was bruised and brought healing
He was pierced in his pain
He was persecuted and brought freedom
He was dead and brought life
He is risen and bring power
He reigns and brings peace
The world can't understand Him
The armies can't defeat Him
The schools can't explain Him and the leaders can't ignore Him
 
Herod couldn't kill Him
The Pharisees can't confuse Him
The people couldn't hold Him
Nero couldn't crush Him
Hitler couldn't silence Him
          can't replace Him
 
He is alive, love, longevity and more
He is goodness, kindness, gentleness and God
He is holy, righteous, mighty, powerful and pure
His ways are right
And His word is eternal
His will is unchanging and His mind is all on me
He is my Redeemer, He is my Saviour, He is my God
He is my Peace, He is my Joy, He is my Comfort, He is my Lord
And He rules my life !
 

2016年8月17日 (水)

悲しいとき〜!

 
(<いつもここから>風に)
 
 
悲しいとき〜!
 
共産党議員のブログで彼らと意気投合した福音派教会の牧師の姿を見たとき〜!
 
 
悲しいとき〜!
 
日本共産党委員長と意気投合する某超教派大学生伝道団体の理事長を見たとき〜!
 
 
悲しいとき〜!
 
先の東京都知事選挙で分裂した与党の候補両者に惨敗する候補に結集した野党が無残なのに、主なる神様のみによりたのまず、その野党にすり寄る牧師たちが痛過ぎるとき〜!
 
 
 
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2016年8月 9日 (火)

映画『ライオット・クラブ』

 
ブリンドン・クラブ(The Bullingdon Club)ってご存知でしょうか。公式の大学活動ではありませんが、オックスフォード大学の超トップエリートだけがメンバーになれるエグゼキュティブクラブのことです。盛大な晩餐会や大学近辺のレストランを破壊する行為(vandalising)などでも知られています。元メンバーには英国の著名人も多いです。画像左は1987年に撮影されたもの。因みに、②は前首相のデーヴィッド・キャメロン氏、そして⑧は前ロンドン市長で現在のメイ政権で外務大臣を務めるボリス・ジョンソン氏です。二人ともパブリック・スクールの名門イートン校(Eton College)からオックスフォード大学に進学し、尚且つブリンドン・クラブのメンバーだった英国政界の超エリートなのです。しかし皮肉にも、二人とも先の国民投票で撃沈しました。キャメロン氏は首相を辞し、ジョンソン氏も「敵前逃亡者」として首相の椅子は遠のきました。
 
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さて今夏、オリジナルから2年遅れで日本でも上映される映画『ライオット・クラブ(The Riot Club)』は、架空のクラブながら、まさに上記のブリンドン・クラブそのものの映画です。上流階級・特権階級の俗物さ、汚さ、胸くそ悪さ、そして気高さをとことん描き出した作品となっています。イギリスの社会、とりわけ英政界はこのような人たちが牛耳っているのです。良くも悪くも。。 
 
現首相のテリーザ・メイ さんもオックスフォード卒ですが、ブリンドン・クラブのような特権階級とは無縁の人です。こういう人が国のトップになってくれて良かったと思っています。
 
 

2016年8月 1日 (月)

"すべて" のクリスチャンではないので

 
このような趣旨の集会に "すべて" のクリスチャンが賛同しているかのように思っている方々がいらっしゃるかもしれません。私自身はそうではありませんし、同じようなクリスチャンを大勢知っています。私はこれらの集会の主催者や講演者の方々のご主張を尊重してはいますが、同意したりまして協賛しているわけでは決してありません。クリスチャンの中にも異なった見解を持つ人たちもいる、ということだけとりあえずお伝えしておきます。
 
「私は戦わない」という主張を尊重しますが、「戦わないのがクリスチャンだ」との主張には同意しかねます。国防や集団的自衛権をめぐっては、クリスチャンを含めて様々な見解があって然るべきと考えるからです。
「憲法九条が国を守る」という主張を尊重しますが、「国を守る憲法とは何か」という議論があってもよいと考えます。
 
ただ、「この国」という言い方は悲しいですね。なぜ「我が国」とか「私たちの国」と言えないのでしょうか。「あちら側(国家・権力・敵)」と「こちら側(教会・クリスチャン・受難者)」という発想が聖書にあるのでしょうか? あちら側と思えば必然的に「この国」と呼べるのでしょうね。
 
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最後に、福音派も様変わりしました。福音派がリベラルの教派や教会に招かれたり、何とかに反対する牧師の会を結成して代表者だか世話人だかが日本共産党の委員長と懇談したりと(キリスト教会も取り込んで「元気ハツラツ! オロナミン志位」)、往年のピンクレディーの歌(<UFO>)ではありませんが ♪信じられないことでしょうけれど 嘘じゃないの 嘘じゃないの ほんとのことよ〜♪ なんですよね。さすがに ♪それでもいいわ〜♪ とは応答できませんが。。。 
 
 
 
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2016年7月 4日 (月)

『神の大いなる物語』

 
著者のヴォーン・ロバーツ牧師(Rev. Vaughan Roberts)はオックスフォードにあるセント・エブズ教会(St Ebbe's Church, Oxford)の主任司祭(Rector)です。ウィクリフ・ホールの卒業生('91年卒)で、私(1994ー1997年在籍)の先輩にあたる方でもあります(学部はケンブリッジ大卒)。地元や英国内での働きの他、2010年に南アフリカで開催されたローザンヌ会議で聖書講解の奉仕もされていました。尚、本書の翻訳者は山崎ランサム和彦先生です。
 
聖書宣教会(聖書神学舎)の卒業生、リチャード・ブラッシュ(Richard Brash)先生ご夫妻は現在オックスフォードでこの教会をベースに日本人及び外国人留学生の伝道に従事されています。画像は昨年6月のブラッシュ先生宅の求道者向け聖書研究会にて。リチャード先生の流暢な日本語と深い聖書知識、そして木綿子(ゆうこ)夫人の絶妙のフォローによる実に活発で有意義な聖書の学びでした。
 
 
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2016年6月28日 (火)

今こそ「現実主義」の精神を

 
この度のイギリス国民投票。個人的には、EUへの不満・不信に基づく「不実のアルビオン」ぶりが発揮された結果だなあと映りました。
 
 
 
事前の世論調査でも離脱の賛否は拮抗していたので、どちらの結果が出ても不思議ではありませんでした。従って、「離脱」の投票結果自体には驚いておりません。ただ個人的に「離脱派に同情する残留支持」だったので、残念ではありました。
 
日本のマスメディアではもう「英でEU離脱派の後悔相次ぐ」などの報道がなされていますが、例によって偏向的・誘導的報道です。ご存知のように、先月の後半2週間ほどイギリスに行っていましたが、英国民はそれはそれは熱心に賛否を議論していました。日本でのサミット(G7)の話題など吹き飛んでしまうほどに。そのプロセスはとても貴重であったと私は考えます。結論が離脱であれ残留であれ、草の根レベルで議論を尽くしたプロセスを経て出された結果に文句を言う人は(良識ある人であれば)ほとんどいないと思います。投票直前には女性国会議員の射殺事件もあり、一時ではありましたが、冷静に立ち止まって考える機会もありました。
 
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昨晩9時のNHKニュースでイギリス駐日大使へのインタビューが放送されていました。私はこの方のことばにこそ今のイギリスに必要なメッセージが込められていると思います。現在のイギリスに必要なのは結果を後悔することではなく、結果に対処するお家芸たる「現実主義」です。こうあるべきだという観念論・理想論はむしろ邪魔です。確かに政治家(この場合キャメロン首相)が自身の政治基盤を強化するために国民投票という博打に打って出たことは愚かだったでしょう。政治家の愚かな火遊びです。(離脱派の)ガス抜きが目的だったのでしょうが、ガスに引火して大爆発し、首相の座まで吹き飛ばしてしまいました。しかし結果を悔いても仕方ありません。今必要なのは状況に対処する「現実主義」です。そして現実主義とは詰まるところダンケルク精神、つまり "make-the-best-of-it"(何とかやる)主義ではないでしょうか。降参するのではなく、一時的に撤退するのです。
 
若い世代でないイギリス人(イングランド人)にとってEUとは即ちドイツのこと。ナチスが第三帝国だったのなら、EUとは第四帝国。今回の離脱劇とは、突き詰めれば「ドイツの奴隷にはなりたくない」という反発だったのでは? 属国になれば奴隷の平和が保てますが、独立すれば厳しい現実に直面しなければなりません。しかし「長期的に見れば、いずれ来るEU崩壊のときに盤石な主権国家として屹立していることになる」(小林よしのり氏談)のです。今のイギリスは耐える時、ダンケルク精神の「撤退して時機を待つ時」です。
 
 
 
 

2016年6月 1日 (水)

帰国しました。

 
本日、無事に帰国いたしました。お祈りくださった方々には厚く感謝申し上げます。それにしてもあっという間の2週間でした。
 
日程は前後しましたが、今年もデイヴィッド・ウェナム先生ご夫妻とお会いできました。妻とともにオックスフォードのご自宅にお招きいただきました。
 
 
 
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2016年5月28日 (土)

フィリップ・ジョンストン先生との再会

 
 
 
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昨日はケンブリッジに行きました。ウィクリフ・ホールで2年間にわたり旧約聖書とヘブル語を、そしてプライベートでは広くイギリスの文化と社会全般について薫陶をいただいたフィリップ・ジョンストン先生(Dr Philip Johnston)のご自宅にお招きいただいたからです。今年は妻と一緒に行くことができました。妻は、ジョンストン先生の奥様・パトリシア夫人とはウィクリフ・ホール時代に大変親しくさせていただきました。お互い19年振りの再会でしたが、あっという間に打ち解けて19年前に逆戻りでした。
 
ジョンストン先生は現在、ケンブリッジ大学ヒューズ・ホール(Hughes Hall, Cambridge)の学監(Senior Tutor)の要職にあられます。
 
 
 
 
 
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2016年5月26日 (木)

グレアム・トムリン先生との再会

 
この度の訪英で、ウィクリフ・ホール時代の恩師グレアム・トムリン先生(詳しくは過日投稿の関連記事『来月の訪英を前に』、『グレアム・トムリン先生、主教に任命される!』や『楽しみは次回に』等を参照のこと)と奥様のジャネット夫人にお会いすることができました。私たちも夫婦で先生ご夫妻と再会できたことを神様に感謝しております。昨年9月にカンタベリー大聖堂で執り行われた主教就任式にはデイヴィッド・ウェナム先生アリスター・マクグラス先生らが列席されたそうです。
 
19年振りの再会でしたが、この場の雰囲気がどれほど打ち解けたものだったかは、ぜひ以下の写真を見てご想像ください。
 
 
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2016年5月22日 (日)

ロンドンのCLC

 
先週の木曜日からロンドンに来ています。今回は妻と一緒の旅行です。昨日(土曜日)はウェストミンスター(ビッグベンの国会議事堂やウェストミンスター大聖堂などがあるところ)からテムズ河畔を歩いてシェークスピアのグローブ座、そしてミレニアム・ブリッジを渡ってセント・ポール大聖堂まで行きました。きょう(日曜日)の午後、グレアム・トムリン先生はここで礼拝説教されます。
 
ロンドンのCLC(クリスチャン文書伝道団)はセント・ポール大聖堂の近くにあります。妻は小物を、私はアリスター・マクグラス先生と N. T. (トム)ライト教授の新刊書をそれぞれ購入しました。
 
 
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2016年5月18日 (水)

再掲 「頭を下げる価値を上げるために」

2012年5月18日 投稿記事の再掲

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KGK40周年記念誌『主が建てるのでなければ』に、山口昇師の記念講演(「これからのKGKに期待するもの」)が収められています。以下は抜粋です。

 

・・・大学に進学する者の数がふえ日本が繁栄するのに、ヴィジョンも小形化してしまったような気がしてならない。地道に社会で貢献している卒業生はたくさんいる。地の塩としての彼らの貢献を私は心から尊敬している。しかしそれと同時に、神を知らない腐敗した為政者や、財界人、官僚、学者、芸術家の多い日本を思う時、りっぱな信仰を持ち、神を恐れる各界の指導者が輩出されることを私たちは祈らないで良いのだろうか。そのような大それた(?)ヴィジョンを持った人材が出現しなくて良いのだろうか。クラーク博士は「青年よ大志を抱け」と言ったが、KGKは「青年よヴィジョンを抱け」と言わないで良いのだろうか。プチブル的な小さなヴィジョンではなく、神のための大きなヴィジョンである。

大学4年の就活時、地元のトヨタグループの会社が第一志望でした。後に妻となる女性が「日本電装(現デンソー)」で勤務していたので、私は日本電装かアイシン精機に的を絞っていました。ところが、敬愛するS先生(当時は大学の先生で、後に献身されて私の所属教会の牧師となられた)から、「ゆるされるなら、神様がゆるして下さるなら、少しでも上を目指しなさい」と私を諭され、トヨタ自動車(株)に志望変更するよう熱心に勧めて下さったのです。最初は躊躇しましたが、結局、助言に従ってトヨタの面接を受け、内定をいただきました。そして卒業後、入社しました。4年間勤めましたが、S先生の助言に心から感謝した次第です。

S先生がアドバイスして下さった「ゆるされるなら少しでも上を目指す」とは、単に大企業を目指す、寄らば大樹の陰、ということではありません。冒頭で引用した山口昇先生のチャレンジを、クリスチャンとして受け止めるということです。S先生は広い視野で私にそのことを励まして下さいました。その後(ソニーでの勤務を経て)KGKの主事になった私に、S先生は再び、私の神学教育の場としてイギリス留学を励まして下さいました。

50歳を目前にした年齢となって、今度は私が若い世代のクリスチャンたちに「ゆるされるなら少しでも上を目指して」と激励したいのです。私自身が社会の指導層になる役目には召されませんでした。ですが、最高の環境と社会の指導層の一端を垣間見させていただいた経験をもとに、将来各界の指導者となって行く若いクリスチャンを励まし、チャレンジしたいのです。

精神科医であり受験指導でも著名な和田秀樹氏が、とてもストレート表現ながら、「青年よ(キリストにあって)大志を抱け」の真意を説き明かすようなことを述べておられます。

私は日本の政治家に欠けている態度は、選挙のときや、献金の相手には頭を下げるかもしれないが、そうでないときに、地元民のために頭を下げるということだと思う。偉くなるほど頭を下げる価値があがる。私だって、この松井(大阪府知事)という人の知的レベルについては馬鹿にしているし、野田さんだって、石原さんだって、橋下さんだって、好きではないが、向こうから頭を下げて、たとえば自殺予防とか、学力増進のために助けてくれと言われたら、ホイホイとOKするだろう。偉くなるほど頭を下げる価値が上がる。だから、私は頭を下げる価値を上げるために偉くなりたい。

若い世代のクリスチャンから、各界の指導者が輩出されることを願っています。そして社会のため、世界のため、そして何より主イエス・キリストの栄光のため、頭を下げる価値を上げるために偉くなってほしいと思います。

   「私はすべてのことを、福音のためにしています。

    それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」

        コリント人への手紙 第一 9章23節(新改訳)

 

 

2016年5月 5日 (木)

結婚記念日

 
ジョン・ウィリアムスの『エコーズ・オブ・ロンドン("ロンドンの想い出")』。大学生時代の友人 I 君が私の結婚祝いにプレゼントしてくれたCDです。29年前の本日、私は結婚しました。新婚当初、CD第1曲の「ロンドンの街々(Streets of London) 」(R. マックテル作曲)が毎朝の目覚ましの曲でした。私たち夫婦にとって特別に思い出深いCDです。
 
来年は結婚30周年記念。主なる神様の不思議な導きを覚えます。
 
「見よ。わたしは新しい事をする。
 今、もうそれが起ころうとしている。」
    イザヤ書 43章19節 a(新改訳聖書第3版)
 
 

Echoes_of_london_1 Echoes_of_london_2 Streets_of_london

2016年4月27日 (水)

GodPod

 
GodPod とは、ロンドンの St Paul's Theological Centre(前回のブログ参照)が提供しているポッドキャストです。常連メンバーはグレアム・トムリン先生(Rt. Revd Dr Graham Tomlin、ケンジントン主教)、ジェーン・ウィリアムス師(Revd Dr Jane Williams、ローワン・ウィリアムス前カンタベリー大主教夫人であり、セント・メライタス・カレッジの神学教師)、そしてマイケル・ロイド学長(Revd Dr Michael Lloyd、ウィクリフ・ホール)です。先月、通算100回目の放送を迎えました。記念すべき100回目の放送のゲストはリチャード・チャーターズ主教(Rt Revd & Rt Hon Richard Chartres、ロンドン首座主教)でした。チャーターズ主教は、ウィリアム王子キャサリン妃の結婚式で聖書の奨励(説教)をした方です。日本でもテレビ中継や動画サイト等で見覚えのある方がいらっしゃるかもしれません。
 
過去のバックナンバーを含めたサイトはこちらです。実に幅広い分野を聖書的神学的に考察しながら、毎回、縦横無尽に語り合っているという感じです。100回目の放送の冒頭でジェーン・ウィリアムス師によるナレーションが入りますが、まさにイギリス英語!という感じのきれいな発音ですね。ポッドキャストではなく、イギリス英語ではポッドカーストなのですねー。
 
 
 
Godpod 
   画像は向かって左から、マイケル・ロイド学長、ジェーン・ウィリアムス師、リチャード・チャーターズ主教、そしてグレアム・トムリン先生です。ロイド学長のマフラー、チャーターズ主教の靴下の色が粋ですね。

2016年4月17日 (日)

来月の訪英を前に

 
Provocative_prodigal 
私は最近、グレアム・トムリン先生著の2冊の本を読み始めました。正確に言うと、1冊はすでに2002年の初版をざっと読みしています。もう1冊は昨年入手しましたが、私より先に妻が読み始めています。私が読み始めた方とは、画像の上側にある本、 The Provocative Church  です。2002年の時点で初版本を持っていましたが、画像は2014年に刊行された第4版です。出版社はSPCK社(The Society for Promoting Christian Knowledge「キリスト教知識普及協会」=アングリカンの出版社)です。妻が読んでいるのが下の本、The Prodigal Spirit: The Trinity, the Church, and the Future of the World(St Paul's Theological Centre、2011)です。
 
昨年6月の訪英ではトムリン先生とお会いできませんでしたが、うれしいことに来月(5月)にロンドンでお会いできることになりました。当ブログでお伝えしたように、先生は昨年ケンジントン主教になられ、更に多忙となられた中でお時間を取ってくださるというのです。有り難いことです。来月の訪英は妻を同伴してですので、トムリン先生もジャネット夫人とご一緒にお越しくださるとのこと。うちの娘と先生のお嬢様がかつて小学校の同級生でもあったので、ウィクリフ・ホール時代の昔話に花が咲くことでしょう。
 
 
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ここで少しトムリン先生のプロフィールを紹介しておきましょう。グレアム(グラハム)・トムリン師(The Rt Revd Dr Graham Tomlin)は1958年生まれの58歳。お父様はバプテスト教会の牧師でした。クリスチャンホームで育ったものの、思春期は無神論者になったそうです。その後オックスフォード大学リンカン・コレッジ(Lincoln College, Oxford)に入学。英文学を専攻しました。この学寮(college)はかつてジョン・ウェスレーが1726年から教官(fellow)を務めていたことで有名です。(もう1つ余談ですが、日本のエリートは東大法学部を目指しますが、イギリスのエリートはオックスブリッジ(オックスフォード&ケンブリッジ)の英文学部を目指します。最も格式の高い学部は英文学部なのです。そういえば、故ジョン・ストット牧師もケンブリッジ大学のトリニティー・コレッジ(ケンブリッジで最も格の高い学寮)で英文学を専攻していました。) 大学生時代にはキリスト教信仰に戻っていて、大学内のキリスト者学生会(OICCU)で活動しました。かつてKGKの主事もされた OMF の宣教師デイヴィッド・ミラー先生は学生時代のトムリン先生の友人です。トムリン師は1980年に学部を卒業した後、1983年にウィクリフ・ホールに入学。1985年に卒業してもう1つの学士号(神学)を取得しています。先生がいつアングリカン(イギリス国教徒)になられたかは不明ですが、1987年に叙任され、エクセターにある教会の助祭(curate)になっています。そこで2年勤めた後、1989年からオックスフォード大学ジーザス・コレッジ(Jesus College, Oxford)のチャプレンになると同時にウィクリフ・ホールの教師と迎えられました。1994年にジーザス・コレッジのチャプレンを辞してからはウィクリフ・ホールのフルタイムの教師となりました(大学の神学部の講師も兼任)。因みに、同年の秋に私は入学しています。ウィクリフ・ホールで主に歴史神学(教会史)と伝道学を担当されましたが、以前のブログでも書いたとおり、先生は何でも担当できるオールラウンダーでした。その後、アリスター・マクグラス学長のもとで副学長も務めた後、2005年にウィクリフ・ホールを辞してロンドンに移りました。ホーリー・トリニティー・ブロンムプトン教会(以後 HTB。ロンドン・ブロムプトン地区の聖三一教会)が運営する St Paul's Theological Centre の学長として迎えられ、更にその後、2007年にロンドン主教区(HTB協賛)と別の主教区によって設立された新しい神学校、セント・メライタス・カレッジ(St Mellitus College)の学長に就任しました。トムリン師のリーダーシップのもと、設立からわずか8年でこの神学校は生徒数600名余、その内司祭候補生(ordinand)は173名を数えるイギリス最大の神学校に成長しました。2013年にはイングランド北西部の都市リバプール(言わずと知れたビートルズ発祥の地)でのエクステンション校が開校。そして卒業生たちは(司祭&信徒献身者)各地の伝道の現場に散っています。この貢献が認められてのことでしょう、昨年7月にケンジントン主教(Bishop of Kensington)に推挙され、9月にカンタベリー大聖堂において就任式(consecration)がジャスティン・ウェルビー大主教の司式で執り行われました。現在はケンジントン主教としてロンドン西部の諸教区(parish)を監督するとともに、セント・メライタス・カレッジの総長(president)として引き続き神学教育にも携わっています。
 
さて、トムリン先生の以上の経歴を知れば画像の本、The Provocative Church に関心が湧いてきませんか? 因みに、トムリン先生の同労者、HTB主任司祭のニッキー・ガンベル師は現在、ブロンムプトン地区(ロンドンの中心部サウス・ケンジントン)で4千人の教会員を牧する牧師であります。ウィクリフ・ホールの現学長マイケル・ロイド師(Revd Dr Michael Lloyd)はHTB関係者でもあり、以前は上記の St Paul's Theological Centre の教師でもありました。また、上記のジャスティン・ウェルビーカンタベリー大主教は信徒時代、HTBの教会員であり、先代司祭のサンディー・ミラー師(Revd Sandy Miller)のとりなしで神学校(Crammer Hall, Durham)に進学した人です。つまり、現在のイギリス国教会においてHTBとは台風の目のような存在であり、その影響は多方面に及んでいます。英語で言うなら inevitable、つまり "避けられない"、"無視できない" 存在であります。
 
HTBが国教会の中にあっていわゆるペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けていると教会と言われます。確かに先代のミラー師の時代はそのような面があったことは否定できませんが( しかし Wikipedia ではミラー師のこの面について "Miller is the Charismatic Evangelical tradition of the Church of England, but has usually concentrated on local missions and not on participation in contoroversies in the wider Anglican Communion." と記している)、現在のガンベル師及びトムリン先生はウィクリフ・ホールの卒業生、 ウェルビー大主教もダラムのクランマー・ホール出身であることから、いわゆる「ペンテコステ・カリスマ派の教会」にカテゴライズできないと見受けられます。そのような教理的・現象的強調よりは、ポストモダンと呼ばれる極度に世俗化し多元化した社会でいかに主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるか、そして人々をキリストの弟子に導き、神の国を生きるクリスチャンに成熟させるかという福音宣教の王道を歩んでいる姿の方がむしろ顕著です。HTB発祥の「アルファ・コース(Alpha Course)」もその一環ですが、HTBをめぐる残念な「風評被害」で、日本の福音派においてこのコースが警戒され浸透しにくくなっているのが現状のようです。
 
百歩譲ってHTBがペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた教会であったとしても、すでに日本においてですらその陣営(あまりこういう語は使いたくないですが)に属する教派教会、もしくはその影響下にある単立または教派教会出身の神学者(神学校教師)または牧師たちと、いわゆる福音派の神学者や牧師たちとの意義ある「対話」が主に若い世代の中で始まっています。例えば、本ブログで紹介させていただいた山崎ランサム和彦先生ですが、先生は現在「日本福音主義神学会」の中部部会理事長という立場にあられます。率直に聞きたいですが、山崎ランサム先生の所属教会の背景を鑑みて、今から20年前にこのようなことが起こると考えられましたか? 考えられなかったと思います。しかし実際に起こっているのです。これはつまり、教派背景や神学的エートスの偏見抜きに、しかし厳密な聖書的かつ学問的な議論に基づいて対話ができる土壌が若い世代の学者や牧師たち、ひいては信徒の「学徒」たちの中で根付き始めていることの証左であります。つまり日本ですらそのような兆しが見られるのであれば、イギリスにおいては尚更であります。いや、むしろ対話は遥かに進み、神学的・教会的交流は遥かに盛んであると言えましょう。グレアム・トムリン先生らは、その潮流のまさに最先端にいてムーブメントを牽引している人たちです。
 
 
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The Provocative Church は2002年に初版(First edition)が刊行されて以来、初版が2度の「重版出来(じゅうはんしゅったい)」(そんなタイトルのテレビドラマが放映中ですね)。2004年に第2版(Second edition)が刊行し、以後3回の重版。2008年に第3版(Third edition)の刊行で、以後4回の重版。そして2014年に第4版(Fourth edition)が刊行され現在に至っています。2012年にはドイツ語版も刊行されています。もうお分かりのように、本書は間違いなく英キリスト教界のロングセラーです。上記のとおり、私は初版にはざっと目を通してましたが、当時は書いてある内容にそれほど関心が湧いてこなかったのが正直なところです。当時の私はKGKの主事であり牧師ではなかったので、牧会の実際が分からなく、ゆえに実感も湧いて来なかったのでしょう。しかし2006年春に教会の牧師となって以来、今年で11年目を迎える中で、私の視点と関心は大きく変わりました。今、第4版を手にして読み始めていますが、内容がむしろポンポン目の中に入ってくるようですらあります。特に第3章の "The king and the kingdom" と第4章の "The kingdom, the Church and evangelism" では、トムリン先生がもともと専門とするM. ルターの十字架の神学や、日本ではまだ始まったばかりの N. T. ライトの神学(特に新約神学叢書の第2巻、Jesus and the Victory of God)をはじめとする「史的イエスの第三の探求」学派(?)による「神の国」の思想が咀嚼され上で手際よく纏められ、教会の使命である伝道に神学的骨格を与えています。しかし本書がターゲットとする読者層は牧師や教職者というよりも、むしろ一般信徒ではないかと思われます。勉強し過ぎの牧師たち(日本では顕著)の知的欲求を満たすことより、一般信徒に伝道の神学のエッセンスを提供することに重きが置かれているように思えてなりません。巻末に Study guide(読書会の手引き) が付されているので、牧師と信徒がディスカッションしながら学べるよう配慮されています。
 
 
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他方で教会の伝道、そしてこの世で神の国を証しする教会において働かれる聖霊のご人格とみわざについて、深い洞察に基づきながら一般信徒に説き明かす本がまだまだ少ないように思われます。私は本書を昨年6月の訪英で入手しましたが、恥ずかしいことにずっと「積ん読」状態でした。今、妻が読み始めていますが、後で私も読むつもりです。来月トムリン先生とお会いするまでにはひととおり目を通しておかねばと思っています。まだ読んでいないので、本書について感想や印象は書けません。いつか改めてご紹介できればと思います。英語の書名から、ティモシー・ケラー著『「放蕩」する神The Prodigal God)』(いのちのことば社)を彷彿させます。まさかパクったのではないと思いますが(笑)
 
最後に、私は上記の2冊を読んだ上で、来月トムリン先生とお会いした際に1つだけどうしても聞きたいことがあります。それは上記の教会の伝道と聖霊の働きに関連してです。その質問とは、「聖霊による福音宣教の方向」です。私は今年度、つまり現在奉職する教会での最後の年度の礼拝説教の聖書箇所として「使徒の働き」を導かれました。現在、第1章の釈義に取り組んでいます。1章8節のイエス様のお言葉「・・・そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(新改訳聖書第3版)は、その後の福音宣教の方向をすでに暗示している共に、著者ルカはその方向に従ってこの書を構成していることは明白です。7章まではエルサレムでの出来事、8章及び9章はユダヤとサマリヤ全土、そして10章のヨッパでの出来事に始まり以降の章は「地の果て」とされるローマへの宣教となります。弟子たちを「地方(辺境)から中央へ」の宣教に導かれた聖霊は、他方で使徒パウロの宣教においては(使徒行伝の記述とパウロ書簡を総合すると)逆に大都市圏に核教会を形成し、その核教会が衛星教会を周辺地域に興すという働きに導かれているように思われます。つまり聖霊の導きは「地方から中央へ」という方向と共に、「大都市圏から周辺地域へ」という方向も見出される中で、今日の福音宣教においてそれぞれの方向性をどう位置づけるか、またトムリン先生ご自身の働きと伝道の戦略においてどう位置づけておられるのか、その辺をぜひ伺ってみたいと思うのです。これをご覧の牧師先生方には「アホな質問だなー」と笑われそうですが、「聞くは一時の恥」と言いますから、遠慮無く質問してみようと思います。実はこの質問には個人的な理由・動機も含まれているのですが、それが何であるかはまた別の機会にでもお分かちすることにいたしましょう。
 
 

2016年3月28日 (月)

John Williams at the BBC - 2016

 
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最近の英BBCの番組から。貴重映像満載。特に1970年代のジョンの映像が多いのがうれしい。1972年製イグナシオ・フレタ・エ・イホスによる演奏の数々。
 
 

2016年3月 1日 (火)

女王付き牧師への任命

 
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ケンブリッジ市のあるイーリー主教区(Diocese of Ely)からの発表によると、ルパート・チャーカム先輩(The Revd Rupert Charkham、本当にウィクリフ・ホールの先輩)がこの度、エリザベス女王付きの宮廷牧師(Chaplain to Her Majesty The Queen)の一人(全員で36名)に任命されました。この職務はかつて、故ジョン・ストット師が務めた要職です。
 
チャーカム師はエクセター大学での学生時代1980年にクリスチャンになり、卒業と同時にロンドンのシティ(金融街)で保険業に携わりました。その後に献身。1989年にウィクリフ・ホールを卒業して司祭(牧師)に叙任されています。牧会の現場に出てからはセント・オールデイツ教会(St Aldate's Church, Oxford オックスフォード)、セント・バーナバス教会(St Barnaba's Church, West Kensington ロンドンのウェスト・ケンジントン)、セント・ポール教会(St Paul's Church, Salisbury ソールズベリー)での牧会を歴任後、2003年からケンブリッジ市内の由緒あるホーリー・トリニティー教会 (Holy Trinity Church, Cambridge)の主任司祭を務めておられます。
 
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ホーリー・トリニティー教会はかのチャールズ・シメオン(Charles Simeon, 1759ー1836)が19世紀に司祭として奉職した教会です。当時、リベラル一色であったケンブリッジで、教会員や大学関係者の想像を絶する嫌がらせを受けながら福音主義の聖書講解を息長く続け、ついには多くのケンブリッジ大学生の回心を導いたのがシメオンでした。このムーブメントはやがて1877年の CICCU(キッキュー、Cambridge Inter-Collegiate Christian Union ケンブリッジ大学キリスト者学生会)結成に大きな影響を与えることになりました。シメオンはまた、宣教師ヘンリー・マーティンのメンターでもありました。因みにこの画像は、私が昨年6月にケンブリッジに行った折に撮影したものです。
 
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ケンブリッジとホーリー・トリニティー教会の伝統の中で、ストット師に続き、この度のチャーカム師の女王付き牧師の任命が福音主義者に託されたことの意義は小さくないと私は考えます。蛇足ながら、本書の中で著者のオリヴァー・バークレーは次のように述べています。"When Simeon died in 1836、he left no student organization behind him. Indeed, such a thing was probably unthinkable in his day. But Holy Trinity Church continued the evangelical tradition and the converts of the new evangelical parishes all over the country came in increasing numbers to Cambridge and attended that church.  (Oliver R. Barclay、 "From Cambridge to the World"、p. 17)
 

2016年2月27日 (土)

イギリス議会は最高のエンタテイメント!

 
信夫梨花 『イギリスの首相に学ぶ! 反論の伝え方』
主婦の友インフォス情報社 2016年 1,300円+税
 
 
 
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著者による<読者の皆さんへ>から
 
 何年か前、ロンドン在住のフランス人の友人と、イギリスの好きなところについて話し合っていた時、イギリス議会、なかでも首相のクエスチョン・タイム(Prime Minister's Questions = PMQ)は最高だよね、ということで意気投合しました。
 その友人はロンドンで映画配給会社を運営しており、数え切れないほど面白い映画を観ている人。その彼が、「イギリス議会は最高のエンタテイメントだ!」と太鼓判を押しているのです。
 毎週水曜に行われるPMQは、アメリカでもテレビ放映され、政治ジャンルのなかで、最も人気の高い番組になっているそうで、「アメリカも2大政党制なのに何故これができないのか?」と羨ましがっているとか。
 イギリス人が「劇場(theatre)」とさえ呼ぶPMQには、確かに政治がテーマの劇場を見ているような、スリルとドラマがあります。しかし、それは難しくて深刻なだけでなく、ウィットに富んだ話術や、ユーモアのセンスと笑いに満ち溢れた時間でもあるのです。
 ほんの30分間ですが、毎週、PMQを見ていれば、イギリス全国津々浦々で何が起こっているのか、今、何がイギリスにとって最も大きな問題であるのかを知ることができます。また、どんな質問や批判が来ても、イギリスの首相が、顔色も、表情も変えずに切り返す様を見ていると、胸のすくような快感も味わえます。首相がどのように危機を切り抜けるのかを、つぶさに観察することができて、大いに勉強になるのです。
 この本では、PMQのテレビ中継が始まった、サッチャー政権終盤の1989年以降の歴代イギリス首相の答弁を中心に、彼らの反論の決め台詞に注目し、ご紹介しています。イギリスでも歴史に残るとされる討論や、各首相の代表的なやりとりを主に取り上げました。
 和を大切にする日本人から見ると、過激に映る表現もあるかもしれません。ただのレトリックではないか、と思われる言い回しもあることでしょう。
 しかし、そうした言葉を巧みに使いながら、イギリスの政治家は話し合いを深めていくのです。日本人が思いもよらない反論や発想は、私たちが日常生活でピンチに立たされた時に応用できるだけでなく、より良い議論につなげるステップとして、知っておいてもよいのではないでしょうか。
 イギリスの首相たちの絶妙な切り返しを、どうぞお楽しみください。
 
 
この動画は最近(2月24日)のPMQです。
 

2016年2月23日 (火)

祝・再刷!

 
昨年12月の記事
 
 
 
今年2月に事実上の改訂2版となる「再刷」が刊行されました。拙ブログを含む読者諸氏からの指摘があったのでしょう。初版に散見された数多の誤記・ミスプリ・奇妙なカナ表記等々はほぼ全面的に修正されました(p. 213 の「ウェンハム」は依然気になるが・・同じ出版社のティンデル聖書注解シリーズ『民数記』の著者は「(ゴードン・)ウェナム」と正しく表記されているので)。修正のために迅速かつ誠実に対応してくださった著者と出版社には大いなる敬意を表します。何より、今こそ本書を心からお薦めできることを喜びたいと思います。多くの読者を得て、これから「再刷」版がもっともっと再刷りされてほしいと願う次第です。もう少し欲を言えば、今後は更にぜひ文献表・Name Index・Subject Index を付した保存版にまで質を上げていただければと願うものです。そうすれば本書は後世から記念碑的著作との評価を受けることでしょう。
 
まだ本書を購入されていない方は、ぜひ「2016年2月1日再刷」と記された版を選んでください。初版が未だ一部の書店では在庫として残っているようです。注文時は「再刷」版をと、はっきり言いましょう。そしてチェックしましょう。(結局、私は初版も「再刷」も購入しましたが。)
 
PS. 先ほど気付いたのですが、p. 230 の「・・ロイドジョンズは、パッカーとともにケンブリッジの学生のころからピューリタンルネサンスを説いていた人物である。」とは、「パッカーは、ロイドジョンズとともに、オックスフォードの学生のころからピューリタンルネサンスを説いていた人物である。」ではないでしょうか? パッカーは生粋のオクソニアン(オックスフォード卒業生)ですし、ロイドジョンズがケンブリッジの学生だったとは寡聞にして知りません。いずれにしても、主語と述語と事実関係が不明瞭な一文です。
 
 
 
Fujimoto

2016年2月 2日 (火)

天路歴程としての<ノクターナル Op. 70>

 
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見てますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」  
コリント人への手紙 第一 13章12節 (新改訳聖書第3版)
 
 
2013年という年は、2人のイギリス人作曲家にとってのメモリアルイヤーでした。その2人とは、ジョン・ダウランドJohn Dowland、1563ー1626)とベンジャミン・ブリテンBenjamin Britten、1913ー1976)です。前者にとって生誕450年後者にとって生誕100年の記念の年でした。クラシックギター界ではこの年を境に、ある曲がギタリストたちの演奏会で取り上げられる頻度が以前に増して上がっている気がします。その曲とは、20世紀後半のギター音楽最高傑作の一つとして誉れが高い、ベンジャミン・ブリテン作の『ノクターナル  Op. 70』(Benjamin Britten、Nocturnal after John Dowland、Op. 70)です。
 
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この曲はイギリスの名ギタリスト、ジュリアン・ブリームJulian Bream、1933ー )の委嘱によって作曲され、1964年6月にオールドバラ(Aldeburgh)で行われた音楽祭でブリームの独奏によって初演されました。(出版譜には前年の「1963年11月11日オールドバラにて」と記されています。ダウランド生誕400年を記念する意味が込められていると考えられます。)
 
この作品は、7つの変奏[I. Musingly(瞑想して)、II. Very agitated(非常に激しく)、III. Restless(休みなく)、IV. Uneasy(不安げに)、V. March-like(行進風に)、VI. Dreaming(夢見ながら)、VII. Gently rocking(やさしく揺れながら)]、長めのパッサカリア(Passacaglia)、そして最後に主題(〜Slow and quiet ゆっくり静かに〜)が来るという構成の変奏曲です。ブリテンによって<ノクターナル>の主題として採用されたのはダウランドの『歌曲集第1巻』(1597年)の中の第20曲<来たれ、深き眠りよCome, Heavy Sleep)>です。歌詞では、悲嘆にくれる「私」が眠りに逃れたいと切望します。非常にネガティブな印象を受けるかもしれませんが、ギタリストの北口 功氏は「ただ、悲嘆に訴えたいというよりも、この状況におかれてみると、数々の言葉が、率直な意味で腑に落ち、力強いつながりで光を増すという点が、詩作の主眼であったと見るべきでしょう。唐詩や室町時代以前の和歌(百人一首など)と同じです。」と解説しています(『現代ギター』2013年7月号 No. 593、p. 22)。
 
Come, heavy sleep, the image of true Death;
(来たれ、死の陰宿した、深き眠りよ)
And close up these my weary weeping eyes:
(泣き疲れた我が悲しみの眼を閉ざしたまえ)
Whose spring of tears doth stop my vital breath,
(あふれる涙が我が息を止め)
And tears my heart with Sorrow's sigh-swoll'n cries:
(心は嘆きの溜息で膨らみ張り裂ける)
Come and possess my tired thought-worn soul,
(いざ来たりて奪いたまえ、疲れ果てた魂を)
That living dies, till thou on me be stole.
(私は生ける屍がごとし お前が来るまでは)
 
北口 功訳
 
ここから<ノクターナル Op. 70>の初演者であり最良の解釈者であるジュリアン・ブリームによる円熟の演奏をお聴きいただきましょう。まずは出だしの I. 「Musingly(瞑想して)」です。
 
 
 
この後、変奏を重ねてパッサカリアに入ります。この音楽形式らしく、ここでは低音のドーシラソーファーミーの下降モチーフが執拗に繰り返され(30回以上)、バロック音楽の技法を駆使しつつモチーフの合間を縫ってモダンな音楽がエネルギッシュに展開されます。このパッサカリアから主題(Slow and quiet 〜ゆっくり静かに〜)に至る箇所を上記の北口 功氏に解説していただきましょう。尚、引用部の太字はのらくら者によります。
 
このパッサカリアの終結では、そこまで執拗に繰り返されてきた低音の下降のモチーフが上へ下へと入り乱れますが、そこに挟まっているのは、まるで悲鳴のようにも聴こえる和音の掻きならしです。この和音は実はEのコードなのですが、2回3回と鳴らされるうち、このEコードが音たちをホ長調の秩序へと吸い込みながら、音楽を鎮静させ、乱暴に登場したはずの掻きならしも、いつの間にか、えも言われぬ典雅な響きに印象を変えています。
 
この導入に続いて極めて幻想的にダウランドの歌が到来し<ノクターナル>は終わります。ここに至って織りなされる純然たる調の秩序は、まるで、宇宙のはるかな長旅から帰還して来てようやく見えた地球の姿のようです(私は、人工衛星はやぶさの最後の電送写真を思い起こします)。何という帰宅感、これほどまでのロマンを実現するギター作品がほかにあるでしょうか。(北口 功 『現代ギター』2013年7月号 No. 593、p. 25)
 
では上記の解説を心に刻んでブリームの名演奏をお聴きください。
 
 
 
いかがでしたか? では、本作品の独創性と深遠さはどこにあるのでしょう。これについては南米ウルグアイ出身のヴィルトゥオーゾ&学者ギタリストであるエドゥアルド・フェルナンデスEduardo Fernandez、1952ー )が素晴らしい解説をしてくれています。以下がその引用です。太字赤字はのらくら者によります。 
 
ブリテンは、変奏と主題の順番を逆にするという形而上学的なトリックを作り出しています。作品を聴いていると、その全ての変奏の背景に、何か共通するエレメントを感じます。しかし、それは直感的な認識であり、共通する主題を示す変奏と変奏の間の関係のようなものです。秩序に対する潜在意識であって、隠喩的に言えば、秩序の香り、秩序への漠然とした感じです。しかし、それが何であるかを正確に知ることはできません。最後にジョン・ダウランドの曲が現れると、それが何であるかが解るのです。これは聖パウロが「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントの信徒への手紙13章)と書いた啓示のようなものです。おそらくブリテンも同じことを思っていたのでしょう。最後にダウランドの主題と共に真実が現れ、突然すべてのことが意味を持つようになるまで、我々は1つの驚きから次の驚きに、1つの夢から次の夢に、進まなくてはならないのです。
(中略)
ブリテンは以前からダウランドと波長が合っていたようです。しかし、主題と変奏の順序を変えるというのは、私はとても良いアイデアだと思います。各楽章は、文字通り主題に基づいていますから、絶え間なく変奏の中に形を変えて存在します。主題を知ると、主題と離れた音が一音たりとも存在しないことがよくわかります。しかし、初めてこの作品を聴く人は、ダウランドのメロディーが、変奏の中で何かを起こしているように感じるはずです。あなたを引き付ける何かを感じ、そして、最後にそれを知るというのは素晴らしい瞬間です。エドゥアルド・フェルナンデス談 『現代ギター』 2013年8月号 No. 594 p. 56)
 
 
北口氏がそして E. フェルナンデスが<ノクターナル Op. 70>の意義を鮮やかに解き明かしてくれたとおり、この曲がたたえる独創性と深遠さとは、実はキリスト教終末論そのものではないでしょうか。変奏と主題の順番が逆になっていること、変奏(現世での信仰生活)の中に主題(キリストの再臨による完成)がすでに形を変えて埋め込まれていることは、まさに私たちキリスト者の天路歴程の道程でありましょう。そして最後の主題に導かれる「帰宅感」と「秩序への回帰」の安堵とは「キリスト教固有のメッセージである<希望>」(ユルゲン・モルトマン談)ではないでしょうか。フェルナンデスは「おそらくブリテンも同じこと(I コリント13章12節)を思っていたのでしょう」と推察します。これがそのとおりだとすれば、この曲が持つ奥深さとは、キリスト教終末論(consumation)に由来する深遠さと言っても過言ではないでしょう。
 
<ノクターナル Op. 70>、素晴らしい作品です。ブリテンがこのような傑作をギターのために書いてくれたことに感謝したいです。またそうなるよう働きかけてくれたジュリアン・ブリームの貢献を改めて特筆したいと思います。演奏には高度なテクニックと音楽性が要求されます。現在の私には歯が立つ作品ではありませんが、いつの日かものにすべく練習に励みたいと思います。しかしそれ以上に、信仰生活によってこの曲を奏でてみたいと願うのです。
 
 

 
 

2016年2月 1日 (月)

ジョン・ウィリアムス 〜驚異のテクニック

 
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『現代ギター』 2015年2月号(No. 614)から。
 
手塚健旨氏の証言(同号 p. 66)
 
 こうして私は東京へ出ることになったが、「♪は〜るばる来たぜ函館へー♪」とサブちゃんが歌うように、その頃の東京は遠かった。しかも登別から函館へ出るのさえ4時間も掛る。不安を抱えながらも、青函連絡船を乗り継ぎ上野駅に到着、やっとのことでコンサートホールに辿り着いた。
 すると私の席は何と1番前のど真ん中だった。
 (中略)
 ・・そんな事件があったこともあり、1968年のジョン・ウィリアムスのコンサートは今でも鮮明に覚えている。
 とにかく凄かった。右手などまったくブレず、左手の指運びの見事さには唖然とさせられた。愛器エルナンデス・イ・アグアドから紡ぎ出す音は例えようもなく美しかった。まるで精密機械のようで、勿論ミスなどはなく、ギターが難しい楽器と言われているのは嘘だと思った。
 これは私ばかりでなく、周りの席に座った人たちの驚きの表情を見て、彼らも同じ感想を抱いていることが伺われた。なぜなら、毎日が平凡に過ぎ去る登別では、そんな興奮した顔を見たことがなかったから。
 ジョンはギターを楽々と操る天才である。ジョンの印象は今も変わっていないが、その時に聴いたのが、彼の最高の演奏だったと思う。
 
上記の手塚氏の感想に加えて個人的な印象は、 右手親指が低音弦を弾弦する際に伝わる「ドスン」という響きの迫力。堅固な低音弦の上に組み立てられる華麗な中高音部というジョンの音楽も現在に至るまで変わっていないと思います。彼の右親指は長くて強靱です。
 

2016年1月20日 (水)

トランスポジション(転位)

 

2011年10月10日の記事から一部を抜粋。英語圏、特にイギリスの大学が新入生に「ギャップ・イヤー(gap year)」を勧める理由にも関係するかなとも思い。

 

   3)受肉における適応と連帯

   
  

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本当は4番目の文章も途中まで書いたのですが、わけあってアップするのはやめました。少しさわりだけ紹介しておくと、これは C. S. ルイスによるオックスフォード大学マンスフィールド・コレッジでのペンテコステ説教となった『転位(トランスポジション)』という論考から着想を得た文章でした。『転位』の邦訳は、例えば、新教出版社刊の「C. S. ルイス宗教著作集」の中の『栄光の重み』に収録されています。ただ、西村徹氏による翻訳は概して直訳調で、熟れた翻訳とは言い難いと思います。

 

本題から脱線しますが、一例を挙げましょう。ルイスが『転位』の中で、同一の感覚的経験が、時と場合に応じて異なる解釈を生み出すことの論証を試みる箇所で、その経験の主観的解釈を「感情=エモーション」と名付けた上で、この感情と「感動(=センセーション)」との対応関係が一対一の関係でないことを指摘し、次のように述べる部分です。

 

西村訳ではこうなっています。

   「また一方の系統が他方の系統よりも真に豊かである場合、その種の対応は
    ありえないはずです。もし、とにかくも、貧しい系統の中に、豊かな系統
    に相応すべきものがあるためには、貧しい系統の中の各要素に一つならぬ
    意味を付与するしか方法はありません。豊かなものの貧しいものの中への
    転位は、いわば、算術的ではなく、代数的でなければなりません。」
    
                       『栄光の重み』 p. 137

これに対し、有賀寿師は次のように訳しています。

   「じじつ、一つの体系が他のものより実際に内容のあるものである場合には
    、そういった種類(一対一という)の対応関係は決して存在しえないので
    ある。かりにより内容のある体系をより内容のない体系として表現する
    はめに立つとするならば、それは、より内容のない体系の一個一個の要素
    に一つ以上の意味を付与することによっておこなわれよう。すると、内容
    のあるものからないものへのトランスポジション(転換)は、いわば算術
    的なものとなるよりは、代数的なものとならざるをえまい。」
    
          『信仰と科学』 第1号(1972年) すぐ書房  p. 14 

 

ルイスの原文がそもそも難解な内容ですが、有賀訳の方がルイスを意図をより明確に訳出していると思います。とくに、ルイスが「転位」を芸術表現(絵画や音楽)と関連させて説明しているので、西村訳のように「(貧しい系統の中に、豊かな系統に)相応すべきものがあるためには」と直訳的に訳すより、有賀訳のように「(より内容のある体系をより内容のない体系として)表現するはめに立つとするならば」と訳した方がずっと分かり易くなりましょう。

 

 

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本題に戻ります。この『転位(トランスポジション)』を通じてルイスが言わんとすることは、「低次の世界のできごとは、高次の世界についての理解を待たずしては、本当は不可能だ」ということです。例えるなら、山下和仁さんがドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』の全楽章をギター1本の編曲にし演奏したことは、もとのオーケストラ総譜(スコア)とのその演奏(サウンド)を知っている人には深い意味を持つ編曲と響くでしょうが、そうでない人には普通のギターが与えるだけの感動しか与えない、ということです。感情(エモーション)と感動(センセーション)の関係が必ずしも一対一ではない理由がここにあります。

同様に、信仰生活においても、感情と感動の対応関係は一対一ではありません。同じ事象を「より豊かに感動する」人と、「ただ感じる」人とがいるのです。牧師が、信徒の日常生活の眺めて「ただ感じる」だけならば、信徒がその説教に失望するのも当然でしょう。より高次の理解を求める時、それが時により多くの経験を積む要請が生じる場合があります。「社会経験」とは、そのために寄与する大切な経験なのだと私は信じます。

ルイスは、『転位』の中で、「転位」と「受肉(の神学)」との関係にも言及しています。ここまで書けば、私が上記「受肉における適応と連帯」に続いて、『転位』から着想を得た第4番目の文章を書こうとした意図を想像していただけると思います。

 

 

2016年1月13日 (水)

ケジメなさい!

 
批判を覚悟で言うが、ずっと以前から気になっていること。
神学生が雑誌で連載執筆したり、集会や大会の主講師や分科会講師を務めること等々。
私などは思わず「お前ら、修行中の身やろ!」と心の中で叫んでしまう。
節操、ケジメがないんだよね。
本人はもとより、招く側も招く側なら、指導しない神学校も神学校だと思う。
あー、こういうこと言う私は時代の遺物?
新年早々のボヤキにて失礼。
 
 
 

2016年1月 1日 (金)

謹賀新年

 
明けましておめでとうございます。
 
今年もよろしくお願いいたします。
 
 

2015年12月18日 (金)

ピーター・ウォーカー先生の本

 
ウィクリフ・ホールで新約神学、聖書解釈学そして説教演習の薫陶をいただいた恩師、ピーター・ウォーカー先生(Rev Dr Peter W. L. Walker)の本が邦訳出版されています。過日のブログ『もう時効でしょうから』の写真で N. T. ライト教授の隣りに座っているのがウォーカー先生です。今回、いのちのことば社から出版された本及び著者紹介は下の画像をご覧ください。大版のハードカバー、豊富なカラー写真とウォーカー先生の信仰と博識が詰まった文章の邦訳本が、何とたったの2,200円+税。これは買うしかないでしょう!
 
日本人からするとイスラエルは(地理的に)遠い国ですが、イギリス人にとって「アフリカは宣教地、インドは我が経済圏、そしてパレスチナ地域は<裏庭>」といった感覚です。ウィクリフ・ホールの卒業生で『きかんしゃトーマス(原作「汽車のえほん」)』の著者ウィルバート・オードリー牧師(Rev Wilbert V. Awdry)も、卒業後にエルサレムの学校で教師として働いています(→『異色の卒業生』参照)。ピーター・ウォーカー先生も今まで数え切れないほど聖地を訪ねています。彼らにとって聖地旅行は裏庭感覚なのです。これには表と裏の意味があります。表とはもちろん地理的・距離的な近さ、裏とはかつての(委任統治という名目の)植民地・支配地としてパレスチナ地域への近さ(因縁)という意味です(本書 P. 154 以降で言及あり)。イギリス人が持つこの感覚は、表の意味であれ裏の意味であれ、日本人には理解し辛いでしょうね。
 
 
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その他のウォーカー先生の著書(未邦訳)です。

 

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2015年12月15日 (火)

藤本 満著『聖書信仰 ー その歴史と可能性』を読んだ

 
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今、話題のこの本、私も拝読いたしました。主な内容については、ネット上では例えば山崎ランサム先生による紹介(→ここ)や、同ブログ上でゲスト投稿してくださっている著者の藤本先生ご自身の解題(→これそれ)等々がすでにアップされているのでご参照ください。第1章から第12章にかけて、聖書論の歴史的変遷については私自身もとても良い勉強をさせていただきました。他方、第13章以降の議論は、当ブログの読者(特に当ブログで紹介した本を自分で取り寄せて律儀に読んでくださっている読者 ← 信徒の方でもいらっしゃるんですよ。時々感想や質問を寄せてくださいます。)にとってはそれほど目新しい議論ではなかったのでは?と思います。それはそうと、あちこちに誤字・誤植・ミススペリング(綴り間違い)・??なカナ表記・事実誤認?(p. 196 等 1966年にロイドジョンズとストットは決別しているのですが・・。1967年にキールで開催されたのは First National Evangelical Anglican Congress = NEAC I であって、アングリカンでないロイドジョンズが参加しているはずがない。『去った者の証し』、読んで!)が散見され、ちょっと気になりますね。
 
 
 
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『聖書信仰 ー その歴史と可能性』を読んで、特に13章以降を読みながら私はしきりに画像の2冊を思い起こしていました。左側の青い本は、R. T. FranceAlister McGrath の編集による論文集 Evangelical Anglicans: Their Role and Influence in the Church Today (SPCK、1993)です。編集者と表紙に記された寄稿者の名前をご覧になってもうお分かりのように、ウィクリフ・ホールの当時の教師たち及び教師 OB の学者たち(Oliver O'Donovan や Nigel Biggar など)、また国教会信徒で他分野の学者(Donald Hayー経済学者)による論文集となっています。私は翌年の1994年からウィクリフ・ホールで学び始めたので、これら寄稿者のほとんどは私の恩師たちでもあります。これら寄稿者たちの共通項は「オープン・エヴァンジェリカル(Open Evangelical)」です。オープン・エヴァンジェリカルについては、以前アップした『Fulcrum(フルクラム)』という記事をご参照ください。藤本先生の本に「信仰的批評学」としてのイギリスの福音主義に言及されていますが、イギリスの福音主義とて決して一枚岩ではないのです。とりわけ1966年10月に起こったロイドジョンズとジョン・ストットの歴史的対決以来、福音主義陣営内の二極分化は顕著となっています。藤本先生の本で言及されている「イギリスの福音主義」とは、要するに「オープン・エヴァンジェリカル」のことではないでしょうか。そして本書自体が、オープン・エヴァンジェリカルの立場と思われます。従ってこの度の藤本師の著書は、画像左側の青色の本に相当する本がようやく日本でも公に刊行されたことになるのでは。日本におけるオープン・エヴァンジェリカルの「決起の狼煙」とも見立てることができましょう。このインパクトは小さくないはずです。とはいえ、2015マイナス1993イコール22。粗っぽい纏めに語弊はあるでしょうが、日本の福音主義はイギリスの22年遅れでオープン・エヴァンジェリカルが体裁を整えて公になったと言えるでしょう(実は実際にはもっと遅れているのですが)。 
 
一方、画像右側の本は英米のアングリカン教会内福音主義保守派の人たちによる、画像左側の本即ちフランス&マクグラス編論文集への応答というか実質的な反論としての Melvin Tinker 編集による論文集 The Anglican Evangelical Crisis: A Radical Agenda for a Bible based Church(Christian Focus Publications、1995)です。フランス&マクグラス編論文集の2年後に刊行されました。ティンカー編の寄稿者を見ると、オス・ギネス(Os Guinness) やジェラルド・ブレイ(Gerald Bray) といった有名な論客の他、 J. I. パッカーも名を連ねています。ムーア神学校(シドニー)の現学長マーク・トンプソン(Mark Thompson)の名もありますね。しかし何よりも強力な助っ人は、トリニティー神学校の ドナルド・カーソン(Donald A. Carson)でしょう。彼は最後の章で "Observation of a Friend" と題した総括を寄稿していますが、これがオープン・エヴァンジェリカルズへのなんとも強力な strike back となっています。カーソンの奥様はイギリス人ですし、彼はケンブリッジ大学で博士号を取得したので、イギリス&国教会内の福音主義にも精通しています。カーソンは本当にケンカに強く、敵に回すと非常に厄介な人です。フランス先生もマクグラス先生もバッサバッサと斬られております。しかし同時にカーソンは保守派の人たちの弱点(論理が弱い部分)も指摘しています。全体的には公平を期していると言えましょう。それはともかく、日本でもティンカー編論文集に相当する、藤本師著書への反論本が出ることで初めて欧米(この場合はイギリス)の議論に追い着くことになるのでは? 誰がそれをするのでしょうか? 日本の福音派にも保守の論客はいるはずです。今立ち上がらないと、そういう人たちが牙城とする神学校には今後入学者が来なくなるでしょう。
 
 

2015年11月 8日 (日)

用舎行蔵(改)

 
本日の午後、私たちの教会は臨時総会を開催いたしました。
今年 1/21 の記事『用舎行蔵(用行舎蔵)』で決議されたことを更に1年前倒しする議案が議論され、原案どおり議決されました。それは以下のとおりです。
 
①私・のらくら者は、2017年3月をもって辞任いたします。
 
②後継者であるT副牧師を来年4月から「牧師」とする。
 
③T師の国外研修(留学)時期も1年前倒す。2016年2月〜4月のある時点から
  1年間とする。
 
④将来のT師を補佐する副牧師(または伝道師)の招聘に備える。
 
 
後任者の育成と引き継ぎが順調に進んでいることを鑑み、身を引く時期を一段と前倒しすることが御心として示された次第です。今年1月に決めたことをもう変更するのは「朝令暮改」の印象を持たれるでしょうが、「過ちては改むるに憚ること勿れ」でもあります。1月の時点では私の思慮と見通しが十分ではなかった訳で、ここは体裁や対面にとらわれずに、すみやかに改めた方が後々のためであります。主が教会員の一致と平安のうちに採決へと導いてくださったことに心からの感謝を献げたいと思います。引き続きT師への確実なバトンタッチ、そして私自身の次の奉仕先への導きについてお祈りいただければ幸いです。
 
 

2015年10月 2日 (金)

サマースクールのご案内

 
ブログの更新はまだしばらくの間お休みですが、来年のウィクリフ・ホールのサマースクールを短くご案内いたします。
 
主講師は N. T. ライト教授マイケル・ホートン教授(ウェストミンスター神学校)です。ライト師(国教会教職課程)もホートン師(博士課程)もウィクリフ・ホールの卒業生です。主講師の他、ウィクリフ・ホールの教師も講師を務めます。日程は画像をご覧ください。間もなくウェブサイトに申し込みの詳細がアップされるはずです。(または、 If you would like to receive this information as soon as it is available, please e-mail development@wycliffe.ox.ac.uk)
 
 
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2015年9月10日 (木)

『歴史家ライトフット』

 
ホセ・ラミレス(ギター)の記事の途中で大変申し訳ないのですが、待ちに待っていた本がようやく届きました。しばらく読書に集中したいので(全464頁の大著)、ブログの更新を1ヶ月ほどお休みいたします。いつも拙ブログにアクセスくださり感謝申し上げます。
 
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Geoffrey R. Treloar(1951ー )
 
Lightfoot the Historian : The Nature and Role of History in the Life and Thought of J. B. Lightfoot(1828ー1889)as Churchman and Scholar Wissenschaftliche Untersuchungen zum Neuen Testament 2. Reihe 103 (Tübingen : J. C. B. Mohr Siebeck、1998)
 
真に優れた研究書または論文とは、仮説を立ててその立証を試みる類のものです。特に前者(仮説を立てる作業)は大事で、欧米の学界では仮説を立てる学者がより尊敬を受けます。本書にも仮説があります。それは J. B. ライトフットを彼の時代の歴史的コンテクストに位置づけ、ライトフットとテュービンゲン学派との関係に見直しを迫っていることです。過日のブログ『テメェ、五寸釘ぶちこむぞ!』で私はライトフットをテュービンゲン学派に引導を渡した者("the slayer of Tübingen")として描きました。つまり精緻な釈義でテュービンゲンのシステム(体系)を切り崩した人物としてです。しかし著者のジェフリー・トレロアは広く行き渡ったこの見解に修正を迫ります。
本書はドイツ・テュービンゲンの Mohr Siebeck という本格的な神学研究書を刊行する出版社から出ていることもあり、膨大な文献と資料を網羅し、ダラム大聖堂図書館の協力も得て多くの貴重な未公開の資料も駆使されています。集中して読書したいと思います。しばらくブログの更新をお休みすることにご理解をお願いいたします。
 
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2015年8月30日 (日)

北東イングランド

 
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一般的にスコットランドはイングランドを嫌っていると言われるが、スコットランド人が反感を持つのは主にロンドンを中心とした裕福な南イングランドに対してであって、経済的に貧しい北部イングランドの人々にはむしろ共感とか連帯意識を持っているというのが私の見立てである。スコットランドに接する北東イングランドも、歴史的文化的には豊穣な地域であるが、日産自動車の進出(サンダーランド)までは経済的に苦しい地方であった。ノーサンバーランド州をはじめニューカッスルやダラム等の都市に代表される北東イングランドは数多の偉人を輩出し、また他の北部出身者を受け容れてきた。教会関係でも、ケンブリッジでの教授職を辞してまでダラム主教職を引き受けた J. B. ライトフットも、そうした人生の選択をした理由に故郷リヴァプール(北西イングランド)や彼の母親の出身地ニューカッスルへの郷愁があったと言われる。地図には N. T. ライトの故郷 Morpeth (ノーサンバーランド)も見える。ライトがダラム主教職に就いたのも(2003ー2010)、その後にスコットランドのセント・アンドルーズ大学での教授職を選んだのも、北東イングランド〜スコットランドへの郷愁の念が働いたのかもしれない。そういえば本書(1986年刊)の編者ジェームズ・ダン博士はスコットランド人である。
 
 

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