昨日、レディングでの家庭集会の後、例によってオックスフォードに行った。ブラックウェル書店でアリスター・マクグラス先生の最新刊を購入した。
Alister E. McGrath, The Territories of Human Reason: Science and Theology in an Age of Multiple Rationalities, (Oxford University Press, 2019)
今年1月に、オックスフォード大学出版局(OUP)から刊行されたハードカバーの本格的な学術書だ。マクグラス先生は生涯の magnum opus となる『科学的教義学』の執筆に向かっているが(そう信じたい)、本書はその過程でのマイルストーンの1冊と言えるだろう。自然神学や「自然科学とキリスト教神学」の関係についての著作では今までは主に「啓示」の面を論じて来られたが、今回の著作はタイトル(The Territories of Human Reason)が示すとおり、科学と宗教そして自然神学における人間理性の問題、特に現代のポストモダン状況下での<複数合理性(multiple rationalities)>の問題に焦点を当てている。
まだざっと目を通しただけだが、第6章で取り上げられている「アブダクション(abduction)」への言及について関心を惹かれた。第6章の見出しは次のとおりである。
From Observation to Theory: Deduction, Induction, and Abduction
The Entanglement of Theory and Observation
Logic of Discovery and Justification
Deduction in the Natural Sciences
Deduction in Christian Theology
Induction in the Natural Sciences
Induction in Christian Theology
Abduction in the Natural Sciences
Abduction in Christian Theology
アブダクション(またはリトロダクション、仮説推量・仮説生成)は、演繹法(deduction)・帰納法(induction)に対する第三の思考法として知られている。(尚、アブダクションには「拉致すること・誘拐」という意味もあるが、ここでは関係ない。) 以前の投稿、「三段論法の功罪」で演繹法の推論が正しくても仮定(前提)が誤っていれば結論は偽であることを書いた。正確には、誤った仮定からは任意の命題が導けるので、結論には意味がないということだ。アブダクションとは、仮定を発見(または点検)する方法論である。経験から「帰納法」によって理論を作ることができないのを証明したのが D. ヒュームであった。事実から仮説を帰納するアルゴリズムは存在しないというのが「ヒュームの問題(ヒュームの懐疑論)」だ。帰納法に代えてアブダクションを提唱したのがアメリカの哲学者・論理学者チャールズ・パース(Charles Sanders Peirce, 1839ー1914)である。プラグマティズムの創始者として知られている。マクグラス著の本書でも重要人物として言及されている。パースはアブダクションの発想を中世の神学者・哲学者ドゥンス・スコトゥスから得たという。
世界史でウィリアム・オッカムとの「普遍論争」を教科書で学んだ記憶のある方もおられよう。スコトゥスの実念論(実在論、realism=「猫」という本質がまずあって、それが「ミケ」や「ブチ」という個体に具現される)とオッカムの唯名論(nominalism=存在するのはミケという個体だけであり、猫という普遍はその集合の名称にすぎない)の論争であった。キリスト教神学という「実在論」の立場からするならば、ミケやブチの集合が猫というのは論理的にはおかしい。ミケを猫という集合の要素として分類するためには、猫という集合の定義が分かっていなければならないからだ。しかし他方で、唯名論は、その定義を決めるにはミケは猫だがポチは猫ではないなどと分類しなければならない。それにはまずミケが猫だと分かっていなければならないと反論する。いずれにしても、こういう(堂々巡りのような)議論が続いた後、結果としては唯名論(ノミナリズム)が近代哲学への道標になった。個体だけを実在とみなし、普遍的な絶対者(神)を否定する唯名論は、啓蒙思想(実証主義や功利主義)の元祖である。実は「普遍論争」は今も続いている。本書の副題にある「複数合理性の時代( in an Age of Multiple Rationalities )」とはそのような現代の知的状況を表したものであろう。デカルト以降の近代哲学は現代のポストモダンに至り、普遍論争は唯名論が勝利したと思われたが、しかしそれでも例えば、宗教であれ自然科学であれ、人々が特定の宗教(あるいは理論)を信じるのはなぜなのだろうか。それは単なる慣習ではなく、何かの必然性があるのではないか。パースは「アブダクション」と名づけた発見の論理の元祖をスコトゥスに求めたのであった。
演繹とは、前提 a と一般的法則「a ならば b である」から結論 b を導く方法、つまり前提と一般的法則をもとに結論を導く思考法である。例えば3匹のうさぎがいて、前提は「3匹はうさぎ」、一般的法則は「うさぎは耳は長い」、結論は「3匹の耳は長い」。妥当な演繹は、仮定が真であれば結論も真であることを保証する。
帰納とは、仮定 a が結論 b を伴ういくらかの事例を観察した結果として一般法則「a ならば b である」を蓋然的に推論する。つまり前提と事例から普遍的法則を推測する思考法である。例えば「3匹はうさぎ」(前提)、「3匹の耳は長い」(事例)、結論「うさぎは耳が長い」。しかし帰納は、推論した法則が真であることを保証しない。
アブダクション(仮説推量・仮説生成)は、結論 b に一般法則「a ならば b である」を当てはめて前提 a を推論する。「3匹は耳が長い」(演繹)・「うさぎは耳が長い」(帰納)、ゆえに「3匹の耳が長い理由は、3匹がうさぎだから」と推量・推理する思考法である。帰納が前提と結論から法則を推論するのに対し、 アブダクションとはつまり、結論と法則から原因を探る思考法である。「関連する証拠を――真である場合に――最もよく説明する仮説を選択する推論法」である。アブダクションが要請されるのは、たとえ観察事実がたったひとつしか存在しなかったとしても、 その観察事実が疑念を生じさせるに十分なものであるならば、その生み出された疑念をなんとか解決しようとする積極的な思考の働きが確かに存在するような推論だからだ。
イノベーションとは科学的発見に似ている。それは確立されたパラダイム内での素朴な実証主義(実験データから帰納して理論ができ、それを演繹して実験で検証するというサイクル、帰納→理論→演繹) ではなく、科学者の発見した仮説を検証(または反証)するのだが、その仮説はどうやって発見されるのか、そこに論理はあるのか、これは難問だ。アブダクションはそれに対する解答の試みである。現代の科学哲学では<創発(emergence)>はキーワードであるが、アブダクションとは差し詰め「仮説の創発」と理解できるであろう。そういえば、マクグラスの『科学的神学 全3巻(A Scientific Theology, Vols.1-3)』において、<創発>は重要な概念であった。同様に自然科学におけるアブダクションの試行は、キリスト教神学の方法論にも適用できるとマクグラスは考える。
マクグラスは、C. S. ルイスが『キリスト教の精髄(Mere Christiannity)』(『天路逆程(The Pilgrim's Regress) 』でも)で展開した、神の存在をめぐる「願望(憧憬)からの論証(argument from desire)」にキリスト教神学におけるアブダクションの例を見る(本書 p. 180)。演繹でも帰納でもない(アブダクションを「広義の帰納」と捉える学者もあるが)、<第三の合理性>が注目されている。