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2018年6月12日 (火)

ブラックウェル書店にて

 
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きょうはレディング(Reading)というロンドンの西方にある町での家庭集会の後、久し振りに古巣のオックスフォードに足を伸ばした。今月は大学の最終試験の時季。サブ・ファスクと呼ばれる正装で試験に臨む学生たちを街中で見かける。21年前の自分を思い出した。ケンブリッジ大学は試験での服装規定を取りやめたと聞くが、オックスフォードは頑固に守り続けている。この町に来るたび「時計を500年くらい巻き戻さないと」と思う。
 
 
 
 
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毎月ではないが、本日のようにレディングでの家庭集会のついでにオックスフォードに来ることはある。主な目的は「ブラックウェル書店」詣である。書店内のノリントンルームにある神学書コーナーは20年前と全く変わっていない。新刊の神学書が目当てというよりは、キリスト教の各伝統(正教会、カトリック、プロテスタント)の神学書がバランスよく取りそろえられていて、購入はしないがそれらを立ち読みするにはうってつけの本屋なのである。また、日本ではほとんど未開拓の分野の研究書なども英語圏では手にすることができる。
 
画像右のような "聖書の自然史" の学際的分野は個人的にも関心をそそられる。翻訳聖書にある動植物(昆虫なども含む)の訳語は、実はとてもアバウトなのだ。例えば日本人にとって「蝉(せみ)」という昆虫は、それが「ミンミンゼミ」なのか、「ヒグラシ」なのか、はたまた「ツクツクボウシ」なのかで、同じ「夏」の風物詩でも状況が違ってくる。ミンミンゼミは盛夏の昼間だし、ヒグラシは朝夕の涼しいときであり、ツクツクボウシは晩夏の蝉である。しかし欧米人には単に「セミ(英語では cicada)」でしかない。文化の違いである。一方パレスチナの風土では、私たち日本人が単に「牛」とか「羊」で訳し済ませている動物に実は細かい識別があったりする。植物も同様である。
 
 
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きょうは書店に2時間ほど滞在したが、2時間の立ち読みで10頁ほどしか読み進められなかった本がこれ。キリスト教倫理学の巨人、オリヴァー・オドノヴァン(Oliver O'Donovan)の3部作である。私が神学生の頃、オドノヴァンはオックスフォード大学神学部の「倫理学及び牧会神学・欽定講座担当教授(Regius Professor of Moral and Pastoral Theology )」だった。オックスフォード退官後はエディンバラ大学の教授を務めた。現在は名誉教授(professor emeritus)だと思う。
 
ところでオックスブリッジ(オックスフォード&ケンブリッジ)に残る「欽定講座担当教授」という教授職は往年の名残である。ラテン語のレギウス(regius、英語の発音は「リージャス」)は「王様の」を意味する。その名のとおり、かつては国王にご進講した教授の肩書きであった。その由来からするならば名誉ある職務であったのだろう。そう、かつて「神学」は王様に進講する学問だったのだ。国王(女王)はイギリス国教会の長でもあるから、神学の素養は不可欠だったに違いない。現在の欽定講座担当教授にその任務があるのかどうかは知らない。
 
話を戻す。"Ethics as Theology" と題されたオドノヴァンの3部作は彼のキリスト教倫理学者としての集大成なのだろう。第1巻が2013年、第2巻が2014年、そして最終巻が昨年2017年にそれぞれ刊行された。驚くのは、集大成でありながら、各巻は300頁にも満たないボリュームなのだ(第3巻だけは少し厚い)。本日は第3巻を立ち読みしたのだが、2時間かけても10頁と進めなかった。そう、オドノヴァンの本は恐るべき著作なのだ。短い文章の中に膨大な読書と思索が凝縮されている。だから、2時間かけても10頁も読み進められなかった。単に難解ということではなく、思索の深遠さに畏怖するのだ。そういえば、今をときめく神学者ケヴィン・ヴァンフーザー(Kevin Vanhoozer)が以前、オドノヴァンの生命倫理学の小著 "Begotten or Made ?" を激賞していた。小著に見合わぬ内容の濃さゆえであろう。 
 

2018年6月 7日 (木)

アムステルダムでのマーラー9番

 
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オランダの首都アムステルダムへ。ロンドンからたった1時間の飛行。今年4月から、あのユーロスター(イギリスと大陸を結ぶ超特急列車)もアムステルダムまで延伸された。(但し当分の間はロンドン→アムステルダムの片道のみ。アムステルダム→ロンドンは、いったん特急タリスでまずベルギーのブリュッセル南駅へ行き、そこでイギリスの入国審査を受けてからユーロスターに乗車する。アムステルダムにイギリスの入国審査場が開設される時期は未定。) 今回は空路を選んだ。
 
アムステルダムのスキポール国際空港はチェックイン・カウンターから搭乗口までとんでもない距離を歩かされる空港である。ガイドブックには世界のベスト空港にたびたび選ばれるほどの便利な空港とあるが、にわかに信じ難い。英ヒースロー空港の第5ターミナル(ブリティッシュ・エアウェイズ専用ターミナル)も大きいが、「トランジット」と呼ばれる電車がA・B・Cの各搭乗ゲート群を結んでいる。スキポール空港にはそのような設備も無ければ、「動く歩道」も少ない。結果、途方もない距離の歩行を余儀なくされる。足が棒になった。
 
画像左は空港内のブリティッシュ・エアウェイズのラウンジ。改装されたらしくきれいになった。帰路はここでひと息入れて搭乗口に向かった。(飛行機の出発時刻が遅延となったので、結果的に2時間以上もここで待機することになったが。)
 
空港のキオスクで Amsterdam Travel Ticket という公共交通機関乗り放題のパスを購入。直通列車で「アムステルダム中央駅」(画像右)へ。ここからトラム(路面電車)の5番に乗って目的地の「コンセルトヘボウ(オランダ語で「コンサートホール」の意)」に向かう。
 
 
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トラムは「ミュージアム広場(Museumplein)」という駅で下車する。この広場の周りに「国立ミュージアム(Rijksmuseum)」や「ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)」、そしてコンセルトヘボウがある。観光に便利な場所だ。国立ミュージアムはレンブラントの『夜警』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』、フランス・ハルスの『笑う男(陽気な酒飲み)』などの名画や多種の絵画を鑑賞できる美術館であり、同時に、古今の骨董品・工芸品・ジュエリー・楽器・家具などを展示する博物館でもある。
 
ゴッホ美術館はその名のとおり、オランダの巨匠ファン・ゴッホの作品をはじめ、同時代を生きたゴーギャンやロートレックら、ゴッホの作風に影響を与えた画家の作画や素描等も展示されている。また、ゴッホによって収集された相当数の浮世絵も鑑賞することができる。いずれにしても、今回は演奏会が主な目的であったが、いつか日を改めてこれらミュージアムや美術館の鑑賞に訪れたいものだ。
 
 
 
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コンセルトヘボウは、名門「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団」の本拠地である。音響に優れたホールとして知られ、古典的な建築によるシューボックス型コンサートホールとしては、ウィーンのムジークフェライン・ザール(楽友協会ホール)や米ボストン・シンフォニー・ホールと並んで、世界三大ベストホールの一つと称される。私の印象では、特に木管楽器が大変美しく響くホールである。1888年にオープンし、客席数は2037席とのこと。
 
音楽学者の中村孝義氏(大阪音楽大学教授)はこのホールについて次のように解説している。
 
ところでよいオーケストラが生まれるためには、そのオーケストラが本拠とするよいホールに恵まれることが必須の条件とされる。演奏していて気持ちよい美しい響き、個々の楽器の音の粒立がよく、しかもそれらがブレンドしたとき、絶妙の芳醇な響きになるようなホールで演奏していると、個々の奏者は自然と他の音もよく聴くようになり、自らの音色も磨かれるし、互いに調和するような美しい響きを生み出す能力を備えていくことになるからだ。そして実はこの希有のオーケストラが本拠するホールこそが、おそらく世界で1,2を争う素晴らしい響きを持つアムステルダムのコンセルトヘボウなのだ。 (『モーストリー・クラシック』誌 vol. 226、2016年3月号 p. 68)
 
余談だが、よいオーケストラがよいホールによって育てられるなら、よい説教者はよい会衆によって育てられると言えないだろうか。教会では、よい会衆こそが「よいホール」である。よい会衆に恵まれた説教者は幸福だ。 
 
(続く)
 
 

2018年6月 6日 (水)

明日は、

 
 
このマンガの舞台であるインドネシアの旧宗主国に行く。
 
 
Regenesis

2018年5月27日 (日)

EXILE(エグザイル)

 
といっても、ダンス&ボーカルグループのことではない。
 
最近の読書から。
 
来月下旬に N. T. ライトの講演会に行く予定だったが、都合がつかなくなってしまった。残念。
 
 
 
Exile

2018年5月24日 (木)

ダニエレ・ガッティ指揮 フィルハーモニア管弦楽団

 
オランダの名門、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(旧称 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)の首席指揮者であるダニエレ・ガッティがフィルハーモニア管弦楽団に客演した。
 
曲目は、
 
メンデルスゾーン 『交響曲第4番イ長調 「イタリア」
 
ブラームス 『交響曲第2番ニ長調
 
ブラームスの2番の実演は今年で3回目だ。2月にニューヨークで R. ムーティ指揮のシカゴ交響楽団、今月上旬にB. ハイティンク指揮のボストン交響楽団、そして今回のガッティである。 
 
もう眠たいので感想を簡潔に記す。
 
私は滅多に「ブラボー!」を叫ばない。むしろ(日本の演奏会でよく見かける)「ブラボー屋」を嫌悪している。しかし今晩、ブラームスの2番の最終楽章が終わった瞬間、私は「ブラボォォォーーー!!!」を叫んでいた。
 

ムーティの演奏もハイティンクの演奏も、当ブログではコメントしなかった。なぜか? 演奏評に値しない出来だったからである(理由は言わない)。しかしガッティは、私の大好きなブラームスの2番にいのちの息吹を吹き込んでくれた。同じ曲が解釈の違いでこうも鮮やかに変貌する。まさにクラシック音楽の醍醐味であった。ガッティは、さすが世界屈指の名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のシェフに選ばれるだけある。客演のフィルハーモニア管弦楽団からも見事な音楽を引き出した。

 
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2018年5月22日 (火)

信仰のための戦い Contending for the Faith

 

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ロイヤルウェディングが終わった。米国聖公会マイケル・カリー総主教の説教が話題になっているようだ(説教の全文翻訳は「クーリエ・ジャポン」誌のウェブサイトを参照→https://courrier.jp/news/archives/122309/)。伝統と格式を重んじる英王室の結婚式としてはスタイル及び内容とも型破りな説教であった。テレビ中継は、説教中当惑したり薄笑いを浮かべるロイヤルファミリーや招待客の様子を映し出していた。とはいえ、英国民はじめ世界中の人々からはおおむね好意的な評価であったと思う。総主教の名字のとおり(カレーライスのカレーと同じ綴り)、スパイスの効いた説教であった。
 
しかし、説教中に一番当惑していたというか、ハラハラしながら聞いていた人物は、結婚式を司式したジャスティン・ウェルビー・カンタベリー大主教だったのではないか。私の聞き違いでなければ、ウェルビー大主教は式辞の中で「結婚は男女間による」のフレーズを2回は繰り返していた。私には、「アングリカンの結婚(式)は異性間によるもの」を確認し強調するニュアンスが込められていたように思えた。他方、カリー総主教の説教は「愛は、LGBTQ にも至る道(love is the way)だ」と言わんばかりであった。(「クーリエ・ジャポン」誌の翻訳は "love is the way" を「唯一の道」と意訳しているが、私は違和感を覚える。) なぜそう感じたかといえば、カリー総主教の説教で「真理」についてほとんど全く言及が無かったからだ。真理抜きの愛は容易に世俗思想に堕する。カリー総主教が連呼した "イマジン imagine" という動詞は、ジョン・レノンの同名の曲と歌詞を想起させる。
 
2016年1月、アングリカン・コミュニオンは米国聖公会に対し、同性婚支持の姿勢を理由に、3年間の期間限定ながら会員資格停止(サンクション)を決議した。(同じ理由で昨年、スコットランド聖公会が会員資格一時停止処分となった。) カリー総主教の説教は、このような経緯と背景を考慮して聴かれる必要がある。2020年に開催される(本来は2018年が開催年)アングリカン・コミュニオンの世界会議である「ランベス会議」で米国聖公会のサンクションが再審議される予定だ。一方、アングリカン・コミュニオン内の保守派(または福音派)は来月、エルサレムで世界会議(GAFCON, Global Anglican Future Conference)を開催する。同性婚問題での結束を図るであろう。
 
私見だが、ジャスティン・ウェルビー大主教は、同性婚容認の影響と圧力の中で「結婚をめぐるアングリカン教会の伝統的立場」擁護のため "信仰のための戦い"(ユダ書3節)を勇敢に、しかし忍耐と寛容をもって戦っている。そしてアングリカン・コミュニオン内の和解と一致を懸命に模索している。下の動画は、英上院(貴族院)において国教会の立場を弁明する大主教である(特に3分32秒付近から)。私はウェルビー大主教のために祈りたい。
 
 
 

PS. 5月25日(金)記

ロイヤル・ウェディングでの M. カリー師の説教について、本日更新された川口マーン惠美さんのブログ(イギリスの「ロイヤル・ウェディング」 ドイツ人たちはこう見た)でもコメントされていた。少し引用させていただく。(下線( )はのらくら者による)

ただ、次に登壇したアメリカ人牧師、カリー氏の説教は、何とも場違いだった。熱狂的に、手振り身振りも大仰に語るものの、その中身があまりにも単純すぎた。
テーマは「愛」で、ほとんど各フレーズごとに「love」という単語が出てくるが、哲学とも格言ともまったく無縁。しかも、それが、微妙に政治的なのだ。
 
愛があれば、世の中は変わる
 
愛があれば、お腹を空かせてベッドに行く子供はいなくなる
 
カリー牧師は、キング牧師の存在を多分に意識していたが、しかし、それとこれとは話が違う。当時、キング氏が相手にしたのは、貧しい黒人労働者だった。そのレトリックが、知識人の最高峰ともいえるイギリス王族相手に通るわけがない。皆が半ば呆れたような顔で、ほとんど眉も動かさずに聞いていた。
 
日本では、世の中もクリスチャンたちもカリー師の説教を絶賛だった。しかしさすが川口マーンさんはドイツでの生活が長い方、ヨーロッパというものを肌感覚で理解しておられる。ヨーロッパ人(この場合イギリスも含む) にはあの説教がどう映ったかを的確に指摘された。要するに「思想的深みも無いのに妙に政治的なのだ。ヨーロッパの知識人層が最も嫌うスタイルである。また、なぜ王室に不評だったか日本人(&クリスチャンたち)もあれこれ論じているようだが、皆、的外れだ(カリー師の英語のアクセント(アメリカ英語)云々ではない )。川口マーン氏が言うように「イギリスでは王室&貴族こそ、知識人の最高峰」だからである。もしカリー師が「愛というビロードに包まれた鋼鉄の真理」を語っていたら、王室関係者も耳を傾けたのではないかと悔やまれる。
 
 
 

2018年5月17日 (木)

再掲 「イノベーションとしての信仰義認」

 
先日紹介した、池田信夫著 『資本主義の正体 マルクスで読み解くグローバル経済の歴史』(PHP研究所刊)の第4章「神の秩序と法の支配」に興味を引く洞察がある。著者の「教祖イエス・開祖パウロ」観には賛同しかねるが、ここでは百歩譲ってパウロ主義という観点から信仰義認論を眺めてみると、非キリスト者にはこれが「イノベーション」と映ることだ。以下に引用する(pp. 130-131)。例によって、下線(_)や太字はのらくら者による。
 

古代ローマから大英帝国に至るまで、植民地をすべて直接支配した帝国は少ない。統治にはコストがかかり、あまり強権的な統治を行なうと反乱が起こるので、名目的には属領の自治を認め、税を納めればその内政には干渉しないのが普通だった。この場合、各地の伝統宗教を認めると、文化的にバラバラになってしまい、帝国の求心力が失われる。かといって国家権力に依存する「御用宗教」では、植民地の住民は信じないだろう。

キリスト教を生んだのは祖国をもたないユダヤ人であり、それを信じて広めたのは民衆だった。キリスト教は、TCP/IP(インターネットの接続手順)のように無色透明な「デファクト・スタンダード」として世界に普及したのだ。誰でも自由に参加できるが、共同体の中では鉄の団結を誇るキリスト教会は、信徒が地縁でも血縁でもなく信仰のみによって結びつくというパウロ主義の生み出したイノベーションだった。
 
同じようなマーケティングは現代でも使われている。創価学会から日本共産党に至るまで、主な信者は地縁共同体から離れて大企業のような組織にも所属しない自営業者や未組織労働者などのノマド(非定住民)であり、彼らの入信の動機は孤独や不幸である。彼らを救済するのは「ただ信仰のみ」の普遍的な宗教を通じて互いに助け合う意志である。
 
イノベーションとは、シュンペーターも指摘するように科学的発見(「科学革命」)に似ている。但しここで言う科学的発見とは、パラダイムが確立された「通常科学」の中での素朴な実証主義(実験データから帰納して理論ができ、それを演繹して実験で検証するというサイクル)のことではない。むしろ例えば天文学での「天動説」と「地動説」という異なったパラダイム(枠組み・フレーム・仮説)が競合するようなケースである。その場合、どの仮説が正しいかを論理的に決める方法は原理的にはないので(ある観測や実験がパラダイムを反証するかどうかも、そのパラダイムに依存する←カール・ポパー)、どのパラダイムが多くの人に共有されるかで「科学革命」は決まる。このように互いに翻訳不可能なパラダイムが競合する現象は共約(通約)不可能性(incommensurability)と呼ばれる(→ポール・ファイヤアーベント『方法への挑戦:科学的創造と知のアナーキズム』)。そこで勝敗決めるのは客観的真理に近いかどうかではなく、いかに多くの人々と言葉を共有するかという「デファクト・スタンダード(de facto standard)」、つまり市場における競争や広く採用された「結果として事実上標準化した基準」である。インターネットの通信規格である TCP/IP やキーボード配列の QWERTY、古くは家庭用ビデオ規格のVHSなどはデファクト・スタンダードである。これらは、国際規格(ISO や JIS など)によって決められた規格ではなく、プラットフォーム競争において顧客とフレームを共有する言語ゲームで競争優位に立った結果、標準化した基準であるからだ。
 
翻って、キリスト教神学では使い古された感のある伝統的(NPP に対して)「信仰義認」が、ローマ帝国の異教社会においてはデファクト・スタンダードとしての「イノベーション」であったとの観察は非常に興味深い。同様に「宗教改革はパウロ主義に回帰した」のであれば、16世紀ヨーロッパのデファクト・スタンダードとして、「信仰義認」が世俗化したカトリック信仰からの「脱埋め込み化(disembed)」に作用し、世俗的な欲望を超えた精神的価値を拠り所にするイノベーションとなった可能性がある。こうしてみると、NPP(New Perspective on Paul)がデファクト・スタンダードに対する「デジュリ・スタンダード(de jure standard)」(国際標準化機関等により定められた標準←ユダヤ教との連続性の中で筋のとおった客観的真理)に見えてくるから不思議だ。NPP に押されっぱなしの感のある伝統的信仰義認論だが、ローマ帝国や16世紀ヨーロッパにおける宗教的イノベーションという観点からその立場を弁証できるのでは思った次第。NPP や N. T. ライトの神学が21世紀の教会にとってイノベーションとなるかは現時点で未知数である。
 
Innovation

2018年5月11日 (金)

ブロック・ロジックとトーンクラスター

 
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一見、何の関係も無いような『私たちの父アブラハム』(マービン・R・ウィルソン著)と『ピアノ曲 X(Klavierstück X)』(カールハインツ・シュトックハウゼン作曲)。実際、何の関係もない(笑)
 

とはいえ、前者の220頁〜で論じられている「ブロック・ロジック」と、後者の楽譜で指定された演奏法「トーンクラスター」との間には共鳴する思想があるように思う。つまり、どちらも「一見、不協和・不合理」である。ブロック・ロジックについてはぜひ、本書を手に取って読んでいただければと思う。(私は、教会員のH兄からこの邦訳書をお借りして読ませていただいている。)
 
シュトックハウゼンの『ピアノ曲 X』(Xは "第10番"の意)は、読譜(譜読み)・演奏とも最高難度を要求する20世紀の前衛音楽。トーンクラスターとは、五線譜の上の音と下の音を垂直の太線で結ぶ記譜をされ、その間の音をすべて同時に弾くよう指定している。音域が半端でないないため、10本の指だけで弾くことはできない。ではどう弾くか? 肘(ひじ)を使って「キャーン」「ドーン」と鍵盤を叩くのだ。慣れ親しんだ伝統音楽の既成概念(指を使って和音を奏でるものという常識)をぶっ壊している。
 
ブロック・ロジックもトーンクラスターも、「群(集合体)」という思想で共通している。前者は論理の集合体であり、後者は音の集合体(音群)だ。そして「一見、不協和・不合理」である。ウィルソンによれば、ヘブライ的思考とは「ブロック・ロジック」であり、そして聖書はブロック・ロジックに満ちている。
ウィルソンは、
 
「ヘブライ的思考は、矛盾を進んで受け入れようとしていましたし、神秘や明らかな矛盾が、しばしば神のしるしであることを知っていました。簡潔に言うと、ヘブル人は完全に理解することのできない場合にも信頼を寄せることを学ぶ、という知恵を持っていたのです。」(『私たちの父アブラハム』 p. 223)
 
と語る。こうしてみると、北アメリカの神学界で議論されている「オープン神論(開放神論、Open Theism)」は、ブロック・ロジックとは相容れない神学思想ではないかと思われる。ぶっちゃけて言うなら、非聖書的ということだ。
 
他方、松平 敬氏による『ピアノ曲 X』の分析にあるように、この曲は「全体を俯瞰すると、クラスターの割合がだんだん減少していくように計画されている。クラスター=ノイズ、和音=楽音、と見れば、ノイズから楽音の移行、というプロセスが計画されている、といえる」。つまりトーンクラスターの役割は一時的なものである。同様に、ブロック・ロジック(=ヘブライ的思考)も、それ自体が神の摂理を俯瞰する究極の視座ということではなく、終末の完成において「完全に知ることになります。」(I コリント13章12節)という秩序と調和へと導かれるまでの、不完全な罪の世界における過渡的な視座ということだ。(だから私は、"ヘブライ的思考"そのものを金科玉条とはしない。) この点については以前の投稿『天路歴程としての<ノクターナル Op.70>』を参照にしてほしい。
 
 
ピアノ曲 X』を大真面目に弾く現代最高峰のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ。トーンクラスター(肘による打鍵)をご覧あれ。
 

2018年5月 3日 (木)

ボストン再訪

 
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高齢の義母の今後をどうするか。妻の実家(米バージニア州)の家族会議に同道してアメリカに行ってきた。少し遅いイースター休暇でもあった。国際線はロンドンーボストン間。往路は妻と一緒だったが、滞在中は別行動。最後の数日は再びボストンで合流して一緒にロンドンに戻った。
 
ボストンを最初に訪れたのは今から40年近く前の留学時代。テネシー州からグレイハウンドバスに乗って38時間かけて着いた。以来、アメリカ嫌い(?)の私としては珍しくお気に入りの街になっている。最後に訪ねたのが3年前だった。日本からだとボストンへの直行便は日本航空(JAL)だけだが(それも13〜14時間かかる)、ロンドンからだと6〜7時間ほどであり、便数も多い。また、ニューヨークの J.F. ケネディー国際空港はマンハッタンまで遠いが、ボストンのローガン国際空港は市内中心部まで地下鉄で20分ほどだ。空港内の国内線乗り継ぎも便利である。アメリカの東海岸はボストンを拠点にするようにしている。妻も、乗り継ぎ便でワシントン D. C.(ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港) に向かった。実家はペンタゴン(国防総省)の近所にある。
 
滞在中はハーバード大学神学大学院(Harvard Divinity School)を再訪したり、ボストン交響楽団の演奏会に足を運んだ。ベルナルト・ハイティンク 指揮、ピアニストはエマニュエル・アックス 。プログラムはオール・ブラームス(ピアノ協奏曲第2番変ロ長調&交響曲第2番ニ長調)。31回目の結婚記念日(5/5)の前倒しで、ボストン名物のシーフードも堪能させていただいた。以下、画像参照。
 
 
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2018年4月19日 (木)

サイモン・ラトルのマーラー9番

 
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暑い、暑い、暑い。きょうのロンドンの最高気温は29℃に達した。BBCの報道によれば、4月でこれほど暑いのは1949年以来らしい(英国での4月の平均最高気温は11.9℃)。天気予報によると、次聖日(4/22)に開催される「ロンドン・マラソン」にも影響しないか心配される。それにしてもつい1ヶ月ほど前に「東からの獣(The Beast from the East)」とあだ名された大寒波に襲われた地とはとても思えない。
 
この暑さの中、きょうからロンドンで「イギリス連邦首脳会議(英連邦サミット、The Commonwealth Summit 2018)」が2日間の日程で始まった。前回の投稿で書いたように、53カ国の首脳が一同に会して重要な議題について協議する他、関連する行事も併せて開催される。もっとも南アフリカ・マフィケングで発生した暴動に対応するため、ラマポーザ大統領は会議を切り上げて緊急帰国した模様。連邦のトップである92歳のエリザベス女王はあいさつの中で「(チャールズ)皇太子がこの役目を務めることが私の願いです」と述べ、69歳のチャールズ皇太子が次の連邦トップになることを要請した。女王様には失礼ながら、英王室は「老老介護」状態だ。実際、国民の多くはチャールズ皇太子をスキップして(理由が年齢だけでないのは察していただけると思う)、息子のウィリアム王子が次の国王になることを望んでいる。
 
 
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この日はサイモン・ラトル指揮のロンドン交響楽団の定期演奏会でもあった。メインはマーラーの交響曲第9番。私の座席はF列で、普段であれば前から6列目の観るによく聴くによい席であるが、うっかりしていた。第9番は大編成のオーケストラを要求するため、舞台の拡張(stage extension)が行われることをすっかり忘れていた。バービカン・ホールでの場合、結局A列〜D列の前4列の座席が取り払われ、5列目のE列が最前列席となってしまうのだ。つまり、F列の私は舞台から2列目の席。指揮者を観るにはよいが、オケ全体を見渡したり音響のバランスの点では残念な座席となってしまった。
 
とはいえ、座席から数メートル先で指揮するラトル氏をよく観察できた。また、オケの配置が指揮者を挟んで第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが向かい合う「両翼配置」で、私の席は舞台に向かってやや右より、即ち第二ヴァイオリン群の前であった。従って、9番の第1楽章冒頭、第二ヴァイオリンが奏でるため息のような美しい第一主題、また第2楽章のやはり冒頭、管楽器に続く第二ヴァイオリンの力強いメロディー等々を堪能することができた。
 
同時にこの席は左斜め上、指揮者の向こうに第一ヴァイオリンのコンマス(コンサートマスター)をよく観察できる席でもあった。コンマスのローマン・シモヴィッチさん、この日は楽器の調子が良くなかったのか(弦を巻き替えたばかりだったのか)、音程を気にして曲中の休符や楽章間の休憩で何度も調弦の微調整を行っていた。コンマスの不調はすぐにオケ・メンバーに伝わる。そのためか第一ヴァイオリン群の音量とアンサンブルがイマイチだった。逆に第二ヴァイオリン群はよく踏ん張っていたと思う。今宵の9番は第二ヴァイオリン群の奮闘に救われたと言ってもよい。
 
 
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コンマスのシモヴィッチさん、音程の不安定だけでなく、音楽監督(指揮者)のサイモン・ラトルさんとの関係はうまく行っているのかな?と少し心配になる様子でもあった(と私には映った)。前の首席指揮者だったゲルギエフさんに可愛がってもらった人だからね。新しい親分に素直に従っているのだろうか。その辺が少し心配になる今晩のコンマスぶりであった。ラトルの棒に応えて第4楽章では弦楽群はマーラーの死生観を豊かにたっぷり表現していたが、アンサンブルの微妙なズレに興を削がれる場面があったのも正直なところだ。ベルリン・フィルのコンマスの樫本さんにしてもロンドン響のシモヴィッチさんにしても、最近の若手のコンマスはどうも身振りが大きく前のめりになる傾向がある。第4楽章の大事なところで指揮者は(テンポを)溜めているのに、第一ヴァイオリンが前のめってアンサンブルに傷が入る。目の前の第二ヴァイオリンがとても落ち着いていたので尚更気になった。
 
全体として、ラトルさんの解釈に異論はない。第3楽章だけ、バーンスタインの快速テンポに慣れていたので、ラトルのテンポ設定には少々違和感が残った。でもこれは飽くまで個人的感想である。それより、つい先週のマーラー1番で、サロネンとフィルハーモニア管の相互信頼に満ちた指揮者とオケの関係に触れたこともあり、ロンドン交響楽団の今後の課題を垣間見た思いであった。ラトルとロンドン響のコンビは今年9月に来日する。機会があればぜひ演奏会に足を運ばれて、ご自分の目と耳で確認していただければと思う。願わくばのらくら者の憂慮は杞憂だった、と。
 

2018年4月15日 (日)

天国の光景

 
日本ではほとんど報道されていないと思うが、オーストラリアのゴールドコーストで開催されている「2018年コモンウェルスゲームズ(XXI Commonwealth Games)」が本日閉会する。
 
コモンウェルスとは英語の Commonwealth of Nations のことで、日本では通常「イギリス連邦」または「英連邦」と訳されている。旧名が British Commonwealth だったからだ。コモンウェルスゲームズとは、イギリス連邦に属する国や地域が参加して4年ごとに開催される総合競技大会のことである。オリンピック競技の他に、英連邦で盛んないくつかの競技(7人制ラグビーやローンズボールなど)も行われる。イギリス連邦加盟国53カ国の他に、いくつかの旧加盟国等が加わって全体で(2018年の場合)70カ国・地域が参加した。尚、本国のイギリスはイングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドが別々にエントリーするので、実際には4カ国となる。
 
ここイギリスでは競技が毎日中継されているが、日本では皆無であろう。逆に例えば、大谷選手のMLBでの活躍など、こちらでのニュースは皆無である。日本ではイギリス発祥のサッカーも、アメリカ発祥の野球も、どちらもプロチームがあるほど盛んだ。幸せな国である。
 
話を戻す。日本では、イギリスと言えば「第二次大戦後の斜陽国」、「欧州連合(EU)の一加盟国」などが一般認識かと思うが、実際には現在も国際社会に隠然たる影響力を持つ国である。イギリス本国(=連合王国、United Kingdom)は、英連邦53カ国(人口は約24億人)の盟主であり、内16カ国はエリザベス女王を国家元首に頂く「英連邦王国(Commonwealth realm)」なのだ。ロンドンとは従って、連合王国6千5百万人の首都のみならず、英連邦53カ国24億人の首都でもある。ロンドン市内では英語はもちろんのこと、実に300の言語が話されているという。
 
私が思うに、天国の光景とは黙示録7章9節「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、・・・」)、日本の日常の光景よりは、ロンドンのそれの方がイメージとしてずっと近いと思う
 
 
尚、画像にはイギリス連邦加盟国54カ国とあるが、2016年にモルディブが脱退しているので、現在は53カ国である。
 
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2018年4月13日 (金)

エサ=ペッカ・サロネンのマーラー1番「巨人」

 
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お笑い芸人・山本高広が俳優・織田裕二のものまねをして「地球に生まれてよかったー!」と叫ぶのがある。エサ=ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団演奏会に足を運ぶ都度、私も「サロネンがーキタァァァ 地球に生まれてよかったー!」と叫びたくなる。今晩も期待に違わぬ素晴らしい演奏会であった。何より、6月に還暦を迎えるサロネンの渾身の指揮ぶりには毎度感動させられる。そして大事なことは、それが空振りに終わるのではなく、オーケストラが全身全霊で応えていることだ。サロネンは作曲家としても一家を成している。作曲家としての透徹した洞察力で作品を把握した自信が指揮ぶりとなって表れるのだろう。指揮者とオケの互いの尊敬と信頼が、演奏を通じて聴覚だけでなく、視覚を通じてもびんびん伝わってくる。そして曲を介して演奏者と聴衆の間に何とも言えぬ「ラポール(rapport)」が生まれるのだ。
 
曲目は、
 
ベートーヴェン作曲 『ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調』  独奏者 David Fray
 
マーラー作曲 『交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 』
 
 
マーラーの1番は、大変ユニークな解釈であった。私の印象を一言で表現するなら「あたかもオルフの『カルミナ・ブラーナ』を聴くような、世俗カンタータの如き」であった。演奏のあちこちで、高尚の中にそれを皮肉るような庶民の「遊び心」がちりばめられている。こんな「巨人」は初めてだ。とはいえ、第4楽章コーダの金管群(ブラス・セクション)の咆吼は圧巻。指揮台の猛獣使いはオケにフルスロットルを要求。怒濤のフィニッシュに聴衆は打ちのめされた。終演後は例によってブラボーの嵐とスタンディングオベーション。サロネンの演奏会はまるでロック・コンサートだ。
 
 
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2018年4月11日 (水)

来年のことを言えば

 
鬼が笑うというが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の公演チケットだけはそうも言ってられない。これは本場ウィーンや東京だけでなく、ここロンドンでもそうらしい。来年2月下旬の公演でも、すでに1階中央席はほぼ完売状態。
 
来年のロンドン公演の注目は単にウィーン・フィル公演ということだけでなく、指揮者がアダム・フィッシャー(Adam Fischer 1949- 、ハンガリー人指揮者。弟のイヴァン・フィッシャーも指揮者)、曲目はG. マーラーの『交響曲第9番』ということもあるからだろう。この曲が現在のマイブームであることは以前のブログで書いた
 
アダム・フィッシャーはオペラの世界で叩き上げてきた指揮者であり(欧州ではオペラが振れないと一流指揮者とは認められにくい)、特にR. ワーグナーの大作『ニーベルングの指環』を知り尽くした指揮者として名声を不動のものとしている。コンサート指揮者としても、J. ハイドンの交響曲全曲(104曲)録音を敢行する偉業を達成している。それゆえヨーロッパはもとより日本の音楽ファンの間でも名匠としてすでに広く認知されている。その彼がマーラーの9番を振るのだ。それもウィーン・フィルで。どういう解釈を聴かせてくれるのか、今から楽しみである。
 
それにしてもこちらのチケットは日本に比べて安い。ウィーン・フィルの日本公演のS席は最高4万2千円の値がついていたことを記憶している(会場や曲目にもよるがだいたい 35,000円〜42,000円の間らしい)。これに対して来年のロンドン公演のS席は80ポンド(£1=150円として12,000円)。日本の約3分の1から4分の1である。日本での趣味だったオオクワガタ飼育(イギリスでは当然無理)もクラシックギター(楽器を置いてきた)もクルマの運転(こちらでは自動車無しの生活)も辞めている現在、唯一の趣味として楽しめる範囲の額である。
 
 
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2018年4月10日 (火)

還暦記念論文集

 
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もう7年前になるが、ウィクリフ・ホールでの旧約聖書の恩師、ゴードン・マコンヴィル先生の還暦を記念する論文集(Festschrift)が出版された(2011年)。私は 1994ー1995年の1年間、先生の薫陶をいただいただけでなく、先生のご家族とは一緒のフラットに住むご近所でもあった。先生ご一家は1階、私たちは3階の住人だった。このことは以前のブログでも書いたことがある。家族ぐるみの親しいお交わりをいただいた思い出は今でも我が家の宝である。先生は学問においては容赦なく厳しい教師であったが(提出したエッセイではいつもダメ出しを受けていた)、根は北アイルランド人らしい親切で情に厚い方であった。
 
この記念論文集は、マコンヴィル先生の恩師(博士論文指導教官 Doktorvater)であり後にグロースターシャー大学での同僚となるゴードン・ウェナム博士が記念論文寄稿と編集者の一人としての役目を買って出られた。実はウェナム博士の最初の博士論文指導学生がマコンヴィル先生であった。その点でマコンヴィル先生は、東京基督教大学の木内伸嘉教授や故人となられた遠藤嘉信牧師(元聖書宣教会教師)の兄弟子にあたる方でもある。
 
マコンヴィル先生のご専門は申命記である。従って本論文集のタイトルも申命記32章4節の聖句中の「主は真実な神(a God of faithfulness、エル・エムナーאֵל אֱמוּנָה )」から取られている。ウェナム博士は "It is this God who is always the central focus of Gordon's life, as family man, scholar and churchman.  Gordon's desire to respond to the faithfulness of God is revealed in his own devotion to scholarship and in his desire to fulfil this calling by bringing greater light to our understanding of the Scripture." とマコンヴィル先生の信仰と学識を称賛している。私も短い期間ではあったが、身近で先生の信仰者・学者としての佇まいを見せていただいた者として、ウェナム博士の称賛に心から同意し、また証しする者である。
 
 
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2018年3月31日 (土)

説教に民主主義はない

 

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往年の名車、いすゞ・ピアッツァの内装。ジョルジェット・ジウジアーロ の、人間工学に基づいたデザインによるサテライト・スイッチ&デジタルメーターは運転席というよりまさにコックピットであった。これが1980年代のクルマって信じられるか? ジウジアーロのデザインは「他とは違う!」と思わせる革新性とオリジナリティーに溢れている。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場するタイムマシン・カー「デロリアン DMC-12」だってジウジアーロのデザインだ。
 
そのジウジアーロの名言「デザインに民主主義はない」。彼の常識を打ち破る革新性とオリジナリティーの信念がこの言葉に込められていると言ってよい。デザインとは、コンセンサスからでも、皆で仲良く一緒につくることからも生まれるものではないと彼は言う。デザインとはひとりの人間が生み出すものである、と。
 
「人間の体と頭には "無意識" に多くの蓄積がある。たとえば見たもの、食べたもの、行った場所の記憶から、喜び、悲しみ、怒り、聞いたこと、話したこと、そういうことが蓄積されている。これらの蓄積をカタチにできる個人がデザイナー、放出されたものがデザインです。」
 
ジウジアーロが言う "デザイン" を、「芸術」でも「音楽」でも「説教」でも置き換えてみればよい。実は私がいわゆる「説教塾」に参加しない理由もここにある。ジウジアーロが言うように、デザインを論理化するのはそれが生まれてからである。その逆はない。デザインはひとりの人間が生み出すもの。なぜなら、その人の経験・蓄積すべてがそこに込められるから。
 
説教塾や説教道場が盛んな昨今。レベルは(格段に)上がったと感心する一方、同時に「みんな同じになってきたなあ」とも感じる。そりゃそうだ、皆で仲良く(批評しながら)一緒に作るのだから。でも私は、下手でも欠点があっても、「デザイン(説教)に民主主義はない」の信念で行きたい。 その意味で、ロイドジョンズが拘るように、説教とは sermon というより preaching でなければならないと思う。 
 

2018年3月29日 (木)

ロシアの脅威

 
きょうは3月29日。ちょうど1年後の本日、つまり2019年3月29日にブレグジット(Brexit、英国のEU離脱)は完了する。とはいえ、2020年末まで経過措置としての移行期間(Transition Period)を設けることで双方が大筋合意に達している

この「移行期間」、当初はブレグジット交渉で揉めるのではと予想された。ところが予想に反し意外とすんなりと決まった。背景として、英国ソールズベリーで起こった元ロシアのスパイセルゲイ・スクリパリと娘の暗殺未遂事件が影響していると思われる。日本でも報道で知られていると思うが、英国は23人のロシア外交官を国外追放(その後ロシア側も対抗措置)。英国との「特別な関係」にあるアメリカも歩調を合わせて60名のロシア外交官の追放を発表した。現在ではロシアへの対抗措置を講じた国は26カ国に上り、100名を超えるロシア外交官が放逐される事態となっている。

この事件はブレグジット交渉にも大きな影響を及ぼしたと思われる。離脱完了後の移行期間がすんなり合意に達したのも、ロシアにつけ入る隙を見せられないと英国・EU両者の利害が一致したためではないだろうか。英国内にも欧州大陸諸国内をにも、極右・極左を問わず親ロシア勢力は多数存在する。その意味で、今回の事件はロシアの脅威が英国及びEUの存在意義に再考を促したと言えるだろう。それは、アゴラでの矢澤 豊氏の寄稿にあるように、「いままで経済を基盤として結束していたEU諸国とその政策が、外交・軍事という軸にシフトしていくことになることを意味している」。
 
ところでロシア、特にプーチンのロシアを知る上で欠かせないのが旧KGBを知ることである。ブライアン・フリーマントル著『KGB』(新潮選書 1983年刊)は依然名著だと思う。本書は1978年9月にロンドンで起きた、ブルガリアの反体制作家ゲオルギー・マルコフの暗殺事件から始まっている。今回のスクリパリ父娘暗殺未遂事件を彷彿とさせる。因みに、メイ首相は内務大臣時代、2006年にロンドンで毒殺された元KGB職員で反体制活動家のアレクサンドル・リトビネンコ氏の死因を「プーチン大統領が関与したロシア政府の国家犯罪の可能性」として糾弾した。本書の第10章「裏切り者には死を("To Defect Is To Die")」に次の一文がある。
 
ソ連もしくは衛星国を離脱する者は反逆者となる。かならずしも事務的に片付けてしまうわけではないにせよ、判決文はおしなべて死刑といってよい。(A person who defects from the Soviet Union or any of its satellites is a traitor and although not automatic the sentence is almost invariably death.)

旧ソ連もロシアもこの方針は一貫している。そして彼らが心底恐ろしいのは、世界を敵にまわそうが孤立を招こうが、断固としてかつ冷徹にそれを遂行することである。

 
 
次のようなのことばが私にあった。「人の子よ。メシェクとトバルの大首長である、マゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言せよ。」 
 
それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。「である主はこう言われる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、まさに、おまえは知ることになる。おまえは北の果てのおまえの国から、多くの国々の民とともに来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。」
(エゼキエル書 38章1ー2節;14ー15節  新改訳聖書 2017)
 
 
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2018年3月16日 (金)

光を恐れるのではなく

 
これも先月の出来事であるが、私たちの教会が礼拝の場としてお借りしているイギリス国教会福音主義の教会 Christ Church Kensington(ケンジントン・キリスト教会)で、ジョン・レノンならぬジョン・レノックス博士 (Dr John Lennox, Professor Emeritus of the University of Oxford)を招いての講演会が行われた(画像参照)。レノックス博士はオックスフォード大学の名誉教授。数学者の立場から無神論に対するキリスト教信仰の弁証を英国はじめ世界各地で積極的かつ精力的に行っている方である。この日の講演会に私はあいにく出席できなかったが、妻と教会役員のM兄が出てくれた。大盛況だったそうである。ロンドン大学の学生はじめ多くの学生の参加があったらしい。関心の高さが窺える。
 
ところで理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士 が他界した。もっとも本人は別の世界の存在を信じていない方だったので「他界」ではなく単に「亡くなった」でよいのかもしれないが。。ホーキング博士もレノックス博士も科学者であり理系の人間だが、その世界観は正反対であった。二人の対照的なことばが次のとおりである。
 
ホーキング博士
「天国とは、闇を恐れる人々のためのおとぎ話(架空の世界)である。("Heaven is a fairy story for people afraid of the dark.")」
 
レノックス博士
「無神論とは、光を恐れる人々のためのおとぎ話(架空の世界)である。("Atheism is a fairy story for those afraid of the light.")」
 
 
ホーキング博士の世界観は、純粋に科学者としての考察の帰結というよりは、病に苦しんだ半生とその人生観から発された叫びだったのかもしれない。闇に向かって罵倒するのもひとつの人生かもしれないが、僅かな光に賭けてみるのもまた人生ではないかと思うのだが。
 
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 (ヨハネの福音書 8章12節  「聖書 新改訳 2017」)

 
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2018年3月 7日 (水)

2月の出来事から

 
初孫との対面
Img_0862_4 リディーマー長老教会(NY)での礼拝と交わり
 
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カーネギーホールにて(リッカルド・ムーティ指揮 シカゴ交響楽団)
 
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2018年3月 2日 (金)

この奇妙奇天烈な大学を知るために

 
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当ブログで繰り返しているように、世界大学ランキングなるものは所詮「当たらずも遠からず」程度の目安である。他方で、上位12位くらいまでは毎年ほぼ不動である他、どのように順位が入れ替わっても驚きはない。
 
英国のTHES(タイムズ・ハイアー・エデュケーション、The Times Higher Education)が毎年公表しているランキングでここ2年トップとなったオックスフォード大学。THESが英国の格付け会社ゆえのお手盛りと陰口をたたかれているが、かつては米ハーバード大学を6年連続1位と格付けるなど、言われているほど不公平とは思われない。しかし繰り返す。所詮「当たらずも遠からず」程度である。
 
このオックスフォード大学(英国内では双璧のケンブリッジ大学も)、大学のシステムや習慣が日本の大学とは相当異なり、日本人にはとても分かりづらい。解説本はすでに多く出ているが、今月に入って最適任の著者による新刊書が発売された。著者は英国人ジャーナリストのコリン・ジョイス氏である。氏の著書は日本ですでに何冊も刊行されている。かつて日本で暮らしていた経験から(アメリカでの生活経験もある)、氏は異文化比較を広範な知識と軽妙な文体で綴るのだ。日英の文化・習慣に通じるだけでなく、ジョイス氏自身もオックスフォード大学出身である。この奇妙奇天烈な大学を知るための一冊としてお薦めしたい。
 
1箇所文句をつけるとすれば、「38のカレッジに分かれている」とあるが、氏は Permanent Private Hall (キリスト教神学を専門とする「常設私立学寮」と呼ばれるカレッジ)6校を含めていない。またジョイス氏の本書での説明(pp. 218-219)はややネガティブである。しかし Wikipedia の解説にあるとおり "Students at PPHs are members of the University of Oxford and have full access to the University's facilities and activities." なのだ。本書が「オックスフォード大学(The University of Oxford)」を語る本であるなら、"The University of Oxford has 38 Colleges and six Permanent Private Halls (PPHs) of religious foundation." を前提とすべきではなかったか。38の College と6つの PPH がオックスフォード大学を構成するのだ。
 
蛇足ながら、現代を代表する神学者、アリスター・マクグラス N. T. ライト(トム・ライト)  も、オックスフォード大学の卒業生である。
 
 
 
なぜオックスフォードが世界一の大学なのか コリン・ジョイス 菅しおり訳

定価:本体1500円+税
四六判 並製 240ページ+カラー8ページ
ISBN978-4-908655-09-8 C0036
発行:三賢社

●本書の内容

Ⅰ オックスフォードはどこが優れているか
  1. 1.すべては“カレッジ”から始まる
  2. 2.ユニークで世界一公正な入学試験
  3. 3.大学院くらいきびしい専攻課程
  4. 4.世界に冠たる二大科目
Ⅱ オックスフォード生はこうして知性を磨いていく
  1. 5.一流の学者による個人レッスン
  2. 6.“勉強中毒”になる理想的な環境
  3. 7.世界でいちばん難度の高い卒業試験
  4. 8.学生を格付けする成績評価システム
  5. 9.勉学の“助け”にもなる課外活動
Ⅲ オックスブリッジは特権階級?
  1. 10.“ザ”・ボート・レースの謎
  2. 11.オックスフォードかケンブリッジか
  3. 12.本当に門戸は開かれているのか
  4. 13.オックスブリッジはエリートへの道?
Ⅳ さらに深く知るオックスフォード
  1. 14.オックスフォードのトリビア
  2. 15.カレッジの殿堂、オール・ソウルズ
  3. 16.オックスフォード語ミニ辞典
  4. 17.変わりゆくオックスフォード
  5. 18.そして、オックスフォード生は今……

オックスフォードについて、

いくつ知っていますか。

    • ・国立大学でも私立大学でもない
    • ・大学に通うのはふつう3年間
    • ・1年の半分以上は授業がない
    • ・38のカレッジに分かれている
    • ・個別指導の授業が中心である
    • ・卒業試験は正装して受ける
    • ・サッカーのFAカップに優勝した

 

 

2018年2月24日 (土)

正しすぎてはならない・・

 
日本から眺めていたドイツと、イギリスから眺めるドイツの印象はかなり異なる。日本から眺めていたとき、ドイツは「崇敬の国」であった。しかし現在、イギリスから眺めていると「危なっかしい国」と映る。
 
昨年9月の総選挙からこのブログを書いている2月24日現在、ドイツでは未だ新政権が正式には発足していない。与党CDU/CSU(キリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟)と野党SPD(社会民主党)はすったもんだの末、去る2月7日に(再度の)大連立政権樹立の合意に達した。が、SPD内の党員選挙の結果次第ではご破算になる可能性がある(開票結果は3月4日に発表)。両者が恐れるのは再選挙。昨年の総選挙までは泡沫政党扱いであった極右政党「AfD(ドイツのための選択)」が、総選挙後は第三党に躍進。再選挙になればAfDが更に票を伸ばす可能性がある。票を失うのは連立与党である。
 
それにしても総選挙前まではドイツの女帝&EU(欧州連合)の盟主として君臨し、4選後も盤石の政権運営が予測されていたメルケル首相の凋落ぶりは目を覆うばかりである。なぜ彼女は墜ちたのか? 一言でいうなら「難民問題」である。詳細は端折るが、2015年、ドイツ政府は超法規的措置で百万人規模の難民の入国を許可した。政治難民と経済難民を区別することなくであった。ドイツ国民も政府の決断に概ね好意的であった。しかし民族も言語も宗教も習慣も違う人々を一気に百万人単位で受け入れたら国がどうなるかはちょっと理性と常識を働かせれば分かるのではないか?とイギリス人は思ったものである。当時のキャメロン首相は「イギリス人にも(政治難民を受け入れる)ハート(心)はある。しかし理性を働かせなければならないときもある」と(ドイツを横目に)コメントした。その後ドイツ人はようやく現実に目覚めた。それがメルケルさんの凋落、極右政党の躍進という総選挙の結果であった。大衆という振り子は極端から極端に振れるものだ。
 
イギリスから眺めているとドイツ人の危うさがよく見える。ではドイツ人の危うさとは何か? シュトゥットガルト在住の作家・川口マーン惠美さんは次のように述べている。
 
ドイツ人というのは、私が見る限り、正しい人間でありたいという願望のとても強い人たちです。倫理的でありたい、正しい行動を取りたい。つまり、周囲から尊敬される人になりたいのです。
そして、正しいと思う行動を取れるとき、彼らは大変幸せで、心洗われた気分になり、自己陶酔に陥る。そういう場合のドイツ人の自画自賛たるや、相当なものです。
さらに奇妙なところは、ときどき皆がこぞって、突然、理性をかなぐり捨ててしまうことです。そして、倫理観だけを前面にかざし、自己礼賛とともに、非合理の極みに向かって猪突猛進していく。こういう状態になった時のドイツ人は、大変情緒的で、絶対に他の意見を受け付けません。 (『週刊現代』 2015年10月17日号より)
 
 
つまりドイツの難民問題への対処も、善意にもとづいた正しさ(倫理観)からだったのであろう。しかし「地獄への道は善意で舗装されている」と巷でも言うではないか。聖書にもこう書いてある。「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(箴言 14章12節;16章25節 「聖書 新改訳 2017」) "正しさ" とは往々にして「善意」にもとづいていないであろうか。善意だけに異論を唱え辛い問題がある。そしてそれは「まっすぐに見える」のだ。その正しさは「絶対に他の意見を受け付け」ない頑なさがある。
 
現代のキリスト教会のカルト化の問題も案外リーダー(牧師)や指導層(役員会)の「善意」が発端かもしれない。上記の川口マーン惠美氏が指摘する「皆がこぞって、突然、理性をかなぐり捨ててしまう」状態はカルト化した教会に見られる現象である。こういう教会ではまともな人(集団ヒステリーの中で理性を働かせる人)が狂って見える。因みに、「カルト」の定義は1985年アメリカで開かれた「カルト問題:学者と識者のための協議会」で採択された以下の定義が指針となる。
 
カルトとは、ある人間か、観念か、物に対して、過度の忠誠心・献身を現し、非倫理的な方法で人を操作したり、高圧的な手段により人を説得したり、コントロールしたりしようとする集団、あるいは運動である。(その方法とは、友人や家族から隔離させること、衰弱させること、暗示感応性や服従心を高めるための特別な手段の使用、グループによる強い圧力、情報統制、個性の抹消や批判的な考えの停止、グループに対する依存心やグループを離れることに対する恐怖心を助成することである。) これらの手段は、グループの指導者たちの目的を推進するためのものであり、実際に信者自身やその家族、及び社会に損害をもたらす(あるいはその可能性を秘めている)ものである。」 (赤字はのらくら者による)
 
カルト化した教会の見分け方の一例として、例えば、教会総会において「無記名投票」ですら人目を気にすることなく自由に投票できない雰囲気があるとすれば(指導層に逆らう者への "犯人捜し"の横行)、もう間違いなくカルト化していると断言できる。こういうときは少数者の勇気ある「まともな人たち」こそが希望である。
 
 
最後に、ドイツ人の名誉のために申し添えておく。たとえ現在の国政が混乱しているとしても(新政権の未発足)、また危うさがあるにしても(極右政党の台頭)、現実に目覚め、選挙で指導者に対して「否」を突きつけたドイツ国民には希望がある。ドイツの新政権のために祈っている。
 
あなたは正しすぎてはならない。
自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。
(伝道者の書 7章16節  「聖書 新改訳 2017」)
 
愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。
しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。
(箴言 12章15節   「聖書 新改訳 2017」 )
 

2017年12月11日 (月)

「恥知らず」の意味

 
聖書 新改訳 2017』でルカの福音書11章8節にある「アナイデイア(ἀναίδεια)」という語がどう訳されるかに関心を持っていた。入手できたので見てみたが「(友だちの)しつこさのゆえなら」と訳されてあった。直訳では「恥知らず」「ずうずうしさ」であるためか、転じて執拗さやしつこさの意味で訳されるようだ。新改訳聖書第3版では「頼み続ける」、新共同訳聖書では「しつように頼む」とそれぞれ訳されている。
 
しかしこのように訳すことによって、このたとえ話のポイントがパンを求めている側にあるように解されてしまう。(『聖書 新改訳 2017 』の脚注にはルカ18:1ー6のたとえ話が参照として紹介されている。) そうなると結局、キリスト教も熱心に求める「行為」によって救われる宗教と誤解される危険はないか。このたとえ話のポイントはむしろパンを求められた友人の側にある。
 
トリニティー神学校の D. A. カーソン教授が指摘するように、英語で shameless とは恥を恥とも思わない「恥知らず」を意味するが、ギリシャ語の「恥知らず」とはその行為によって恥を免れること、つまり shame-less を意味する。従って11章8節のアナイデイアをカーソン教授が提案する私訳「(近所の仲間内で)恥を受けたくないと願う」と訳すことで、渋々求めに応じる友人の姿勢にスポットが当たってくる。つまり、(旅人をもてなすことが当然とされる文化の中で)恥をかきたくないからという情けない理由で重い腰を上げるこの人でなしですら最終的に求めに応じるなら、まして神は・・というのがたとえ話のポイントとなる。こう解釈することで13節のイエスの言葉「それならなおのこと、天の父は・・・聖霊を・・・」に繋がるようになる。やはり神は恵みの神なのだ。私たちは熱心に求めるという「行為・行い」によって何かを得たり救われるのではない。神の恵みを信じて憩いたい。
 
 
画像は私たちの教会が礼拝の場としてお借りしているイギリス国教会の礼拝堂。アドベント第2週の聖日は今年初雪の日となった。
 
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2017年11月28日 (火)

ようやく読了?

 
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6月に行われた私の就任式に列席くださった恩師の P. ジョンストン先生と奥様。お祝いにと、先生が編集者の一人として携われた本をプレゼントしてくださった。ケンブリッジのティンデル・ハウスのプロジェクトによる結婚と家族関係に関する研究論文集である。書名からの印象ではただの結婚や家族に関する本と思われるかもしれないが、ジェンダー問題・同性婚や LGBTQ、更には性同一性障害の問題まで踏み込んだ極めて意欲的な論文集である。先生は編集者として大御所やベテラン学者にも遠慮なく「朱筆」を入れたらしい。若手学者は素直に聞いてくれるが、ベテランほどゴネたそうだ。でも先生はめげなかった。 やはり本は著者だけでなく、優れた編集者を得てはじめて作品となる。
 
編集者の苦労話を伺ったので愛着の湧く本となった。8月の夏休みに一気に読むはずだったが、結局ずるずると年末近くまで来てしまった。ようやくひととおり目を通したものの、内容が非常に高度で咀嚼するには再読が必至。振り出しに戻った感じ。まあ、よい。歳をとったから濫読より精読だ。思えば若い頃は「万をもって一にあたる」の姿勢で手当たり次第読み漁ったものだ。今はむしろ「一をもって万にあたる」が信条。著者の渾身の力作をじっくり読んだ方がずっと益になる。渾身の力作などそう何冊もあるものではない(最近の数少ない一冊が過日のブログで紹介したJohn Barclay の本)。従って、かつてのようにジャーナリスティックに新刊神学書を追いかけることへの関心もめっきり減った。神学界も否応なく資本主義の波に呑まれているので(Publish or perish)、20年どころか10年ももたない(時代遅れとなる)神学書が次々出版されている。
 
読む数(冊数)を減らした分、大事になってくるのが「アウトプット」。インとアウトのバランスが大事なことに気づかされている。最後に「余計なお世話」を書いて終わることにする。
 
説教は神学のアウトプットという面がある。いわゆる教職者と一般信徒の間に(信仰ではなく)知識とスキルの差があるとすれば、それはアウトプットの量の違いである。詰め込んだ知識はアウトプットしなければ真に自分のものとはならない。例えば、もしある教会のすべての教会員が教会学校の先生を担当したら(アウトプットしたら)、その教会の雰囲気は一変し、教会の神学レベルはぐんと上がるであろう。牧師もいい加減な説教はできなくなる。「うちの教会の説教は退屈」ともしあなたが思っているなら、その説教を作っているのは、実はあなたを含む教会員全員でもあるのだ。
 
 
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2017年11月24日 (金)

鄙(ひな)の論理

 
サイモン・ラトルも、今晩のマリス・ヤンソンス(Mariss Jansons, 1943〜 ラトビア・リガ出身)も、キャリアの出発はオーケストラ界の地方オケ&二流オケからだった。ラトルは1980年からイギリスのバーミンガム市交響楽団(当時)で18年間にわたり指揮者を務め、このオケを一流楽団に成長させた。ヤンソンスも1979年から2002年にかけて23年にわたりノルウェーのオスロ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として同楽団を一流オケに育てた。
 
その昔、『鄙の論理』という本があった。著者は細川護煕氏(元内閣総理大臣)と岩國哲人氏(メリル・リンチ元米国本社副社長)。細川氏は首相の前に熊本県知事を、岩國氏はメリル・リンチ社を経て島根県出雲市長をそれぞれ務めた。鄙の論理の「鄙(ひな)」とは、例えば「鄙びた温泉旅館」の鄙である。要するに「地方」ということだ。本の詳しい内容はもう忘れてしまったが、主旨と共に書名はいつまでも記憶に残っている。
 
不思議なことだが、ラトルからもヤンソンスからも、私は匂いのような「鄙の論理」を感じる。それは「素朴さ」であり「逞しさ」でもある。都会で仕事をしても都会ずれしない。そんな純粋さでもある。ラトルは今シーズンをもってクラシック界の「中央」ベルリンを辞して来年には「偉大なる田舎」のロンドンに帰還する。ヤンソンスは望めば恐らく間違いなく「中央」ベルリンに進出できたのに、「地方」のミュンヘンでの契約延長を選んだ。自発的にラトルの後任レースから降りたのである。
 
そういえば牧師・伝道者も、「鄙(ひな)」の匂いをまとった人とそうでない人がいるように思われる。今をときめくKGKの総主事さんも、本格的なキャリアの始まりは雪深い北陸地方であった。反対に「鄙」を全く感じさせない人もいる。私はなぜか本能的にそういう人とは肌が合わない。だから無理して付き合わないようにしている。ストレスが溜まるから。多分、相手も私を田舎っぺと思っていることだろう。仕方がない。
 
今晩の演奏終了後に「ロイヤル・フィルハーモニック協会」から今年の金賞受賞者であるヤンソンスへの祝辞の時間が設けられた。協会会長の他、ピアニストの内田光子氏も招かれて祝辞を述べた。答辞をしたヤンソンスは受賞の光栄を感謝しつつ、「しかしオーケストラ抜きの指揮者は何者でもありません。だから私の受賞はオーケストラのものでもあるのです」とバイエルン放送交響楽団との蜜月ぶりをアピールした。確かに今晩の演奏からも両者の信頼関係はひしひしと伝わってきた。ヤンソンスは今年で74歳。「70歳以上のオケの音楽監督は老害」と断言した過日の拙ブログ文も、このコンビについてだけは例外としなければならないかもしれない。「鄙」を愛したマエストロの面目躍如の一夜であった。
 
 
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2017年10月15日 (日)

マイブーム

 
直前で働いた教会そして今いる教会での経験に基づく私見だが、指揮者も牧師も70歳も過ぎて「音楽監督」とか「主任牧師」など組織の長の地位に留まるのは "老害" 以外の何ものでもないと思っている。もちろん諸事情の中で賛否あることは承知で物申している。しかし敢えて言う。70歳を過ぎて後継者にバトンタッチする用意もできてないなど私には論外だ。その点で、ジョン・パイパー師や今年7月にリディーマー長老教会(NY)の主任牧師を辞したティモシー・ケラー牧師の引き際は本当に見事であった。伊達政宗の 「梵天丸もかくありたい」ではないが、私もそうありたいと思う。だから私は着任したと同時に離任のタイミングを考えて働きの計画を逆算するように努めている。現在仕える教会でもいつまでも居座る気は毛頭ない。召された働きを終えたら次の人に(若い世代になるべく早く)バトンタッチしたい。拙ブログ読者の方々にはそのために祈っていただけたら幸いである。
 
高齢者が組織の長に留まるのは反対だが、他方で、例えば高齢の指揮者がフリーの立場で他のオーケストラに客演したり、ベテラン(元々の意味は「退役軍人」)の牧師がフリーランスとして他の教会で奉仕することには大賛成だ。ドクターX ならぬパスターX は積極的に応援したい。その人の経験が豊かに用いられると信じている。フリーランスの働きに年齢制限など必要ない(とはいえ、人は「年相応に枯れる」ことが大事とも思う。枯れ方は各自が決めればよい)。そのためにも、日本の教会も牧師在任時から牧師と教会員(特に役員会と)が退職金や年金等引退後の備えを忌憚なく話し合っておくことが望ましい。牧師をコキ使っておいて用が済んだらポイではあまりにひどい。
 
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思えば私自身も年を取ってきた。年を重ねて良いこともある。今まで見えなかったものが見え、分からなかったことが分かってくる祝福がそこにはある。話は急に飛躍するが、グスタフ・マーラーの交響曲など私にとって良い例だ。若い頃はマーラーの交響曲の意味・意義がさっぱり分からなかった。しかし50代の半ばに来て現在のマイブームはマーラーの交響曲、特に第9番の交響曲だ。数多の指揮者&オーケストラの演奏を漁り、特に第4楽章「アダージョ」に涙するきょうこの頃である。今年から来年にかけて、以下の実演にも足を運ぶ予定。できれば60代以上の指揮者が振る実演に接したいのだ。
 
2017年11月 エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団(@ロンドン)
2018年 4月 サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団(@ロンドン) 
2018年 6月 ベルナルド・ハイティンク指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(@アムステルダム)
 
数多の名演のCDがあるが、映像での実演記録では何と言っても(晩年にフリーランスとなった)レナード・バーンスタインウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した演奏を推したい。以下の動画でまずは第4楽章を視聴していただければと思う(56分20秒付近から)。バーンスタインの渾身の指揮によりまるでその場で曲が作られるが如くの演奏に私などは感涙してしまう(バーンスタインの変幻自在のテンポにウィーン・フィルはよく追いてきている)。老害は嫌だが、円熟の巨匠が指揮界にも牧師界にもいなくなったのを嘆くのは私だけだろうか。。
 
 

2017年10月13日 (金)

ワレリー・ゲルギエフ指揮オックスフォード・フィルハーモニック

 
超大物指揮者がイギリスの地方オーケストラを振るというので興味が湧き出かけた。曲目は以下のとおり。協奏曲のソリスト(英語ではソロイスト)はロンドン交響楽団(LSO)のコンサートマスターを務めるローマン・シモヴィッチ。このオーケストラの演奏会は通常オックスフォード大学のシェルドニアン・シアター(Sheldonian Theatre)で行われるが、今回は市役所のホール(Oxford Town Hall)で行われた。たった560名ほどのための贅沢な演奏会であった。因みに、ゲルギエフは今年12月に来日する
 
G. ロッシーニ 『ウィリアム・テル序曲』
 
I. ストラヴィンスキー 『ヴァイオリン協奏曲』
 
F. メンデルスゾーン 『交響曲第4番 「イタリア」』
 
I. ストラヴィンスキー  バレエ音楽 組曲『火の鳥』
 
 
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2017年10月 9日 (月)

神の愉快な雲上人

 
場所柄か私たちの教会には時々、いわゆる有名人の方が礼拝出席される。もう4ヶ月近くも前になるが今年の6月下旬、その日の礼拝にドイツ文学者と英文学者のご夫妻が出席された。往年のNHKテレビ『ドイツ語講座』の視聴者だった私にはご主人はまさに雲上人の方だ。奥様も某女子大学の教授を歴任された英文学者。しかし何よりご夫妻はとっても素敵なクリスチャン夫婦だった。初対面の私もたちまち打ち解けてしまった。礼拝後に教会員のB夫妻も交えて近所のレストランでお交わりの時を持たせていただいた。カール・バルト著『モーツァルト』の翻訳者でもあられる。時間があればじっくりお話を伺いたかった。残念。
 
 
 
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2017年9月22日 (金)

サイモン・ラトル&ロンドン交響楽団

 

サイモン・ラトル指揮のロンドン交響楽団(LSO)定期公演。9月に入り、いよいよ 2017ー2018年のシーズンが始まった。今シーズンの注目は何と言っても LSOの音楽監督(Music Director)に就任したサイモン・ラトルの本格始動。とはいえ彼は今秋からの1年間だけはベルリン・フィルの芸術監督も兼任する(11月にベルリン・フィルと来日公演)。ロンドンっ子たちはラトルの帰英を大歓迎。

昨晩のプログラムはオール・ストラヴィンスキー。(バレエ音楽)
『火の鳥』(1910年の全曲版)
『ペトルーシュカ』
『春の祭典』

良くも悪くもニュートラルなサウンドの LSOがラトルの元では俄然燃えていた。このコンビの今後を期待させる素晴らしいスタートであった。

 

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2017年9月14日 (木)

神学の前進を喜ぶ

 
"Fortfahren heißt in der Thelogie: noch einmal mit dem Anfang anfangen." 「前進するとは、神学においては、もう一度はじめからはじめることを意味する」との『福音主義神学入門』でのカール・バルトの言葉が好きだ。これは "dasselbe immer wieder anders"「同一のことを繰り返し別の仕方で」と "immer wieder anders dasselbe"「繰り返し別の仕方で同一のこと」を語ることである。
後藤 敏夫著『神の秘められた計画 福音の再考ー 途上での省察と証言』(いのちのことば社)を読みながらバルトのこの言葉を思い出していた。神学の前進をよろこびたい。
 

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2017年7月22日 (土)

近況

 
ロンドンで暮らしています。
 
 
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2016年11月 6日 (日)

天路歴程としての<ノクターナル Op. 70>

 

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見てますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」  

コリント人への手紙 第一 13章12節 (新改訳聖書第3版)

 
 
2013年という年は、2人のイギリス人作曲家にとってのメモリアルイヤーでした。その2人とは、ジョン・ダウランドJohn Dowland、1563ー1626)とベンジャミン・ブリテンBenjamin Britten、1913ー1976)です。前者にとって生誕450年後者にとって生誕100年の記念の年でした。クラシックギター界ではこの年を境に、ある曲がギタリストたちの演奏会で取り上げられる頻度が以前に増して上がっている気がします。その曲とは、20世紀後半のギター音楽最高傑作の一つとして誉れが高い、ベンジャミン・ブリテン作の『ノクターナル  Op. 70』(Benjamin Britten、Nocturnal after John Dowland、Op. 70)です。 
 
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この曲はイギリスの名ギタリスト、ジュリアン・ブリームJulian Bream、1933ー )の委嘱によって作曲され、1964年6月にオールドバラ(Aldeburgh)で行われた音楽祭でブリームの独奏によって初演されました。(出版譜には前年の「1963年11月11日オールドバラにて」と記されています。ダウランド生誕400年を記念する意味が込められていると考えられます。)
 
この作品は、7つの変奏[I. Musingly(瞑想して)、II. Very agitated(非常に激しく)、III. Restless(休みなく)、IV. Uneasy(不安げに)、V. March-like(行進風に)、VI. Dreaming(夢見ながら)、VII. Gently rocking(やさしく揺れながら)]、長めのパッサカリア(Passacaglia)、そして最後に主題(〜Slow and quiet ゆっくり静かに〜)が来るという構成の変奏曲です。ブリテンによって<ノクターナル>の主題として採用されたのはダウランドの『歌曲集第1巻』(1597年)の中の第20曲<来たれ、深き眠りよCome, Heavy Sleep)>です。歌詞では、悲嘆にくれる「私」が眠りに逃れたいと切望します。非常にネガティブな印象を受けるかもしれませんが、ギタリストの北口 功氏は「ただ、悲嘆に訴えたいというよりも、この状況におかれてみると、数々の言葉が、率直な意味で腑に落ち、力強いつながりで光を増すという点が、詩作の主眼であったと見るべきでしょう。唐詩や室町時代以前の和歌(百人一首など)と同じです。」と解説しています(『現代ギター』2013年7月号 No. 593、p. 22)。
 

Come, heavy sleep, the image of true Death;

(来たれ、死の陰宿した、深き眠りよ)

And close up these my weary weeping eyes:

(泣き疲れた我が悲しみの眼を閉ざしたまえ)

Whose spring of tears doth stop my vital breath,

(あふれる涙が我が息を止め)

And tears my heart with Sorrow's sigh-swoll'n cries:

(心は嘆きの溜息で膨らみ張り裂ける)

Come and possess my tired thought-worn soul,

(いざ来たりて奪いたまえ、疲れ果てた魂を)

That living dies, till thou on me be stole.

(私は生ける屍がごとし お前が来るまでは)
 

北口 功訳

 
ここから<ノクターナル Op. 70>の初演者であり最良の解釈者であるジュリアン・ブリームによる円熟の演奏をお聴きいただきましょう。まずは出だしの I. 「Musingly(瞑想して)」です。
 
 
 
この後、変奏を重ねてパッサカリアに入ります。この音楽形式らしく、ここでは低音のドーシラソーファーミーの下降モチーフが執拗に繰り返され(30回以上)、バロック音楽の技法を駆使しつつモチーフの合間を縫ってモダンな音楽がエネルギッシュに展開されます。このパッサカリアから主題(Slow and quiet 〜ゆっくり静かに〜)に至る箇所を上記の北口 功氏に解説していただきましょう。尚、引用部の太字はのらくら者によります。
 

このパッサカリアの終結では、そこまで執拗に繰り返されてきた低音の下降のモチーフが上へ下へと入り乱れますが、そこに挟まっているのは、まるで悲鳴のようにも聴こえる和音の掻きならしです。この和音は実はEのコードなのですが、2回3回と鳴らされるうち、このEコードが音たちをホ長調の秩序へと吸い込みながら、音楽を鎮静させ、乱暴に登場したはずの掻きならしも、いつの間にか、えも言われぬ典雅な響きに印象を変えています。

 

この導入に続いて極めて幻想的にダウランドの歌が到来し<ノクターナル>は終わります。ここに至って織りなされる純然たる調の秩序は、まるで、宇宙のはるかな長旅から帰還して来てようやく見えた地球の姿のようです(私は、人工衛星はやぶさの最後の電送写真を思い起こします)。何という帰宅感、これほどまでのロマンを実現するギター作品がほかにあるでしょうか。(北口 功 『現代ギター』2013年7月号 No. 593、p. 25)

 
では上記の解説を心に刻んでブリームの名演奏をお聴きください。
 
 
 
いかがでしたか? では、本作品の独創性と深遠さはどこにあるのでしょう。これについては南米ウルグアイ出身のヴィルトゥオーゾ&学者ギタリストであるエドゥアルド・フェルナンデスEduardo Fernandez、1952ー )が素晴らしい解説をしてくれています。以下がその引用です。太字赤字はのらくら者によります。 
 

ブリテンは、変奏と主題の順番を逆にするという形而上学的なトリックを作り出しています。作品を聴いていると、その全ての変奏の背景に、何か共通するエレメントを感じます。しかし、それは直感的な認識であり、共通する主題を示す変奏と変奏の間の関係のようなものです。秩序に対する潜在意識であって、隠喩的に言えば、秩序の香り、秩序への漠然とした感じです。しかし、それが何であるかを正確に知ることはできません。最後にジョン・ダウランドの曲が現れると、それが何であるかが解るのです。これは聖パウロが「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントの信徒への手紙13章)と書いた啓示のようなものです。おそらくブリテンも同じことを思っていたのでしょう。最後にダウランドの主題と共に真実が現れ、突然すべてのことが意味を持つようになるまで、我々は1つの驚きから次の驚きに、1つの夢から次の夢に、進まなくてはならないのです。

(中略)

ブリテンは以前からダウランドと波長が合っていたようです。しかし、主題と変奏の順序を変えるというのは、私はとても良いアイデアだと思います。各楽章は、文字通り主題に基づいていますから、絶え間なく変奏の中に形を変えて存在します。主題を知ると、主題と離れた音が一音たりとも存在しないことがよくわかります。しかし、初めてこの作品を聴く人は、ダウランドのメロディーが、変奏の中で何かを起こしているように感じるはずです。あなたを引き付ける何かを感じ、そして、最後にそれを知るというのは素晴らしい瞬間です。エドゥアルド・フェルナンデス談 『現代ギター』 2013年8月号 No. 594 p. 56)

 
 
北口氏がそして E. フェルナンデスが<ノクターナル Op. 70>の意義を鮮やかに解き明かしてくれたとおり、この曲がたたえる独創性と深遠さとは、実はキリスト教終末論そのものではないでしょうか。変奏と主題の順番が逆になっていること、変奏(現世での信仰生活)の中に主題(キリストの再臨による完成)がすでに形を変えて埋め込まれていることは、まさに私たちキリスト者の天路歴程の道程でありましょう。そして最後の主題に導かれる「帰宅感」と「秩序への回帰」の安堵とは「キリスト教固有のメッセージである<希望>」(ユルゲン・モルトマン談)ではないでしょうか。フェルナンデスは「おそらくブリテンも同じこと(I コリント13章12節)を思っていたのでしょう」と推察します。これがそのとおりだとすれば、この曲が持つ奥深さとは、キリスト教終末論(consumation)に由来する深遠さと言っても過言ではないでしょう。
 
<ノクターナル Op. 70>、素晴らしい作品です。ブリテンがこのような傑作をギターのために書いてくれたことに感謝したいです。またそうなるよう働きかけてくれたジュリアン・ブリームの貢献を改めて特筆したいと思います。演奏には高度なテクニックと音楽性が要求されます。現在の私には歯が立つ作品ではありませんが、いつの日かものにすべく練習に励みたいと思います。しかしそれ以上に、信仰生活によってこの曲を奏でてみたいと願うのです。