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2018年10月17日 (水)

「戦後日本の国体」:脱神話化のために

 
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リチャード・ボウカム著の『聖書と政治 社会で福音をどう読むか』(いのちのことば社 2,000円+税)は、「政治における聖書の使用(Use of the Bible in politics)」、つまり政治の解釈学として優れた本である。今までキリスト教社会倫理の本といえば「聖書における倫理(Ethics in the Bible)」という視点からしか提供されて来なかったからだ。つまりそこには聖書と現実問題との解釈学的螺旋(hermeneutical spiral)という、対話的要素が欠落していたのだ。それゆえに、特に難解な政治の分野における解釈学を手ほどきするボウカムの著書の邦訳は、日本の教会にとって画期的な出来事と評価できるだろう。

とはいえ、入門書たるこういう本では解釈学的アウトラインは描けても肉付けまでには至らない。要するに「かゆいところに手が届かない」のだ。肉付けはいわゆるキリスト教書ではなく、一般書籍の良質な研究から補完される必要がある。「かゆいところ」とは、重要な疑問でありながら、キリスト教神学者では十分に答え切れない問題点のことである。例えば本書 p. 76 に次のような言及がある。

・・・新約の教会は、特に政治的ではない国際的な共同体として、旧約のイスラエルと連続であり、また非連続でもある。イスラエルのように教会は、その生活のあらゆる面において神に献身した聖なる民であるように召されている。それゆるレビ記の標語(レビ19:2)は、ペテロの手紙第一の1章15ー16節において教会にも適用される。教会はその普遍的な開放性と、その根源的な聖さへの献身において、より終末的理想に近づくことを目指している。しかしそれができるのは、教会が政治的存在ではないからである。それゆえ教会は常に政治的存在になる誘惑に抵抗しなければならない。(※太字はのらくら者による)
 
 
ボウカムの賢明な勧告にもかかわらず、今日、プロテスタント主流派・福音派を問わず、少くない数の牧師・伝道者が「政治的存在」となり、そしてその指導により教会が「政治的存在」となっている現状があるのではないか。ボウカムの言う「政治的」とは、正確には「政治党派的=政党色」という意味であろう。私見では、本書の翻訳者の言説(終末論講解の改訂版等)にもその傾向が垣間見られる。有り体に言うならば、牧師や教会の「左傾化」である。近年では、ヨーロッパ的な左翼思想や左派勢力と区別し、日本に独特な「戦後リベラル 」としての左翼という意味で「サヨク」とカタ仮名で綴るようである。牧師や教会の「サヨク化」と言った方が分かり易いかもしれない。
 
牧師のサヨク化。私にとって長年の謎だった。神学を究め、素晴らしい聖書注解や神学書・神学論文をものする知性鋭敏な彼らが、どうしてそのように傾くのかが理解できなかった。
 
そんな中、私はある時期から(5、6年前だろうか)、経済学者・池田信夫氏のブログを通じて丸山眞男の思想と著作を知るようになった。冒頭画像の『丸山眞男と戦後日本の国体』(白水社 2018年 1,400円+税)は、池田氏が丹念に丸山の著作や論文を読み・思索し・対話した労作である。冒頭<はじめに>で、池田氏は本書の趣旨を次のように述べる。(原書の漢数字はここではアラビア数字に置き換えた)
 
戦後の日本には、リベラルの輝いた時代があった。それを代表するのが丸山眞男(1914-96)である。彼は1950年代まで日本の論壇をリードし、1960年の日米安全保障条約改正のときは反対運動の中心になった。彼の本業は東京大学法学部の教授として政治思想史を教える研究者だったが、世間的に注目されたのは論壇のスターとしてだった。彼は60年代以降、政治運動から身を引き、研究に専念するが、60年代後半の東大紛争では学生に批判される側になり、「戦後民主主義」とか「近代主義者」というレッテルが貼られた。 (中略) 今も丸山を慕う人々は、戦後民主主義の黄金時代を懐かしみ、その「原点」を継承して憲法改正を阻止しようと考えているのかもしれない。 
 
だが憲法第9条の平和主義は、丸山の原点ではなかった。戦後政治の最大の分岐点は、憲法ではなく講和条約だった。丸山は1950年に米ソと同時に平和条約を結ぶ「全面講和」を主張した。1960年の安保改正のときは強行採決を批判し、「民主主義を守れ」と主張した。こうした運動は失敗に終わり、60年代には丸山はアカデミズムに退却した。
(中略)
丸山の敗北を検証することは、彼個人を超えた意味がある。彼に代表されるリベラルな気分は、今も多くの人に受け継がれているからだ。空文化した憲法の平和主義は、篠田英朗の指摘するように「戦後日本の国体」として人々を呪縛している。ここで国体を護持するのは野党であり、自民党政権がそれを否定して「自主憲法」をつくろうとする逆転が生じている。 
(中略) 
本書は論壇のスターだった丸山と、日本人の「古層」について考えた丸山を統一的にとらえようとする試みである。
丸山の論文は戦後の知識人の共有する神話として、大きな影響を政治にも日本人の思考にも与えた。彼の物語を読み解いて「脱神話化」し、戦後の知識人がどこで間違えたのかを検証することは現代的な意味をもつと思う。 (※太字はのらくら者による)
 
 
戦後の知識人(ーここに神学の専門教育を受けたインテリとしての牧師・神学者も含まれるだろうー)がどこで間違えたか? 上記<はじめに>でも引用されている篠田英朗氏 (東京外国語大学 大学院総合国際学研究院教授)は、丸山眞男に3つの挫折を見るー現実の国際政治に裏切られた丸山、「国民」に裏切られた丸山、日本思想史に裏切られた丸山ーである。ノン・ポリ(アカデミズムへの退避)に留まり、マルクス主義を嫌悪する丸山にとって、残された政治的立場は非同盟主義(全面講和主義)と非武装中立論しかなかった。アマゾンの某レビューアー氏は「こうした政治的立場が左翼思想に与するものと見なされ、社会党の理論的支柱として利用されることになった」と語る。本書の帯にある(画像参照)「われわれは、いつ、どこで、間違えたか・・・・」の問いに対し、篠田氏は本書趣旨に応答する。「最初から、その構図の本質において、間違いが内包されていた」、と。
 
丸山の「永久革命」は、半ば自作自演のヒロイズムを象徴する概念だ。永久に続く革命などあるはずがないこと、永久革命家とは達成されない目標をわざと掲げて万年革命家を自認することを趣味としている者でしかないこと、などについて、醒めた視線を送る者は、多い。私もそうだ。政治学は、結果に関するアートだから、永久革命が永久革命であるがゆえに正当化されるということは、政治学者の間では、通常はあまりない。
 
 
「永久革命家とは達成されない目標をわざと掲げて万年革命家を自認することを趣味としている者でしかない」。しかるに、"その普遍的な開放性と、その根源的な聖さへの献身において、より終末的理想に近づくことを目指している教会"(リチャード・ボウカム) の牧師が「永久革命家」を気取るのであれば、あまりに悲しいではないか。「戦後日本の国体」の呪縛はきつい。丸山眞男の物語を「脱神話化(=脱サヨク化)」する作業は、キリスト教会(界)の課題でもあろう。池田氏の労作、一読をおすすめする。
 
 
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2018年10月16日 (火)

ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会@RFH

 

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(Gewandhausorchester Leipzig)のロンドン公演。演奏会場はテムズ河畔のロイヤル・フェスティバル・ホール(Royal Festival Hall)。この楽団は市民階級による自主運営オーケストラとしては世界最古の歴史を誇り、今年で創設275年周年(!)を迎えた。他の楽団で音楽監督(首席指揮者)に相当ポジションも、この楽団では古式ゆかしき<カペルマイスター Kapellmeistar、楽長>の名称を用いる。あのメンデルスゾーンもかつて楽長だった。

 
ゲヴァントハウス管は、現カペルマイスター(楽長)のアンドリス・ネルソンス (Andris Nelsons, 1978ー ラトビアのリガ出身)の指揮によって実力を遺憾なく発揮。2日間にわたって、名門の名に恥じない見事なマーラーを聴かせてくれた。ネルソンスは米ボストン交響楽団の音楽監督も兼任する。彼は先月、BBCプロムスにボストン交響楽団を率いて客演した。私は、従って、今年2度目のネルソンスの演奏会であった。ネルソンスは米欧のトップオケの音楽監督のみならず、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの客演も常連の、現代指揮界の寵児である。1日目の演奏会後にはトークショーが行われた。彼の素敵な人柄が伝わってきた。
 
尚、2日目の公演の独唱者クリスティーネ・オポライスはネルソンスの元夫人(正確には前夫人と言うべきか・・)。彼らは今年3月に離婚したとのこと。(よく一緒に共演するなあ・・。うーむ、この辺の感覚は私の理解を超えている。。) 二人の間には7歳の娘がいる。「子は鎹(かすがい)」とはちょっと悲しい。。
 
 
アンドリス・ネルソンス(楽長・首席指揮者 Gewandhauskapellmeister)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(Gewandhausorchester Leipzig)
 
10月8日(月)
ベルント・アロイス・ツィンマーマン(Bernt Alois Zimmermann 1918ー1970)
 <Nobody knows de trouble I see>(トランペット協奏曲)
 ※ホーカン・ハーデンベルガー(Håkan Hardenberger、トランペット独奏
 
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler  1860ー1911)
 <交響曲第5番 嬰ハ短調>
 
 
10月9日(火)
アンドリス・ドゼニティス(Andris Dzenitis  1978ー )
 <管弦楽のためのマーラ(Mara for Orchestra)>(英国初演)
 
P. I. チャイコフスキー(P. I. Tchaikovsky  1840ー1893)
 リーザのアリオッソ(歌劇『スペードの女王』から)
 ポロネーズ&タチアーナの「手紙の場」(歌劇『エフゲニー・オネーギン』から)
 ※クリスティーネ・オポライス(Kristine Opolais、独唱
 
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler  1860ー1911)
 <交響曲第1番 ニ長調>
 
 
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2018年10月12日 (金)

この証し、多くの人に読んでほしい

 
ニューズウィーク日本版から。
 
元・中国人、現・日本人の李小牧(り・こまき)の証し。
 
 
 
 
 
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2018年10月 9日 (火)

2019年版(2018-2019) THE 世界大学ランキング

 
英タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(Times Higher Education、THE)は2018年9月26日(イギリス現地時間)、THE世界大学ランキング2019(THE World University Rankings 2018-2019)を発表した。
 
「THE世界大学ランキング」は、2004年から公開されている世界的な大学ランキング。 教育力研究力研究の影響力(論文の引用数)国際性産業界からの収入の5領域、13項目についてデータを収集し、総合力を評価、分析したうえで世界の大学をランキング化している。
 
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ランキングの結果、3年連続で1位はイギリスのオックスフォード大学、2位は同ケンブリッジ大学と続いた。3位はアメリカのスタンフォード大学、4位にマサチューセッツ工科大学(MIT)がランクイン。ハーバード大学は昨年と同じ6位、8位にはイェール大学が新たにランクインとなった。 
 
日本はトップ200に入ったのは東京大学と京都大学の2大学のみで、東京大学は過去最低だった昨年の46位から4位上がって42位、京都大学は65位だった。国内3位には総合251-300位の大阪大学と東北大学が続いた。
 
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個人的に注目しているのが今回9位のインペリアル・カレッジ・ロンドン。うちの教会員M兄の学部出身校である。以前はロンドン大学を構成する1つのカレッジであったが、現在は独立し、独自の学位を授与している。理系分野ではオックスブリッジに比肩する名門であり、ここ何年かで THE 世界大学ランキング・ベスト10ランクインの常連大学になっている。キャンパスはロンドンのケンジントン地区にあり、近くに「BBCプロムス」が開催されるロイヤル・アルバート・ホール(RAH)や王立音楽大学(Royal College of Music)もある。理工系及び医学の学位取得を目指してロンドン留学を考えている方は入学目標の大学にするとよいと思う。
 
 

2018年10月 7日 (日)

どんな境遇にあっても

 
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。』 (ピリピ人への手紙 4章11ー12節  「聖書 新改訳 2017」)
 
 
現在、三重県鈴鹿市でF1日本グランプリが開催されている。テレビで予選を視ていたが、鈴鹿サーキットや鈴鹿山脈、伊勢湾の景色など、懐かしい光景が画面に映っていた。明日(日本ではすでに「本日」)はいよいよ本戦だ。
 
私はロンドンに来る前、三重県津市で11年間過ごした。本ブログ読者はご存知のように、こちらに来てからの私の趣味は音楽鑑賞、特にオーケストラ鑑賞(だけ)になった。日本に比べて料金がずっと安いのが主な理由だ。とはいえ、オーケストラやクラシックギターの演奏会に行くのは日本にいた頃からの趣味ではあった。自分の(小遣いで)お金を払っての、最初の外来オーケストラ演奏会は14歳の時であった。(因みに、それは小澤征爾指揮のボストン交響楽団だった。)  つまり、オーケストラ鑑賞はこちらに来て始めた趣味ではない。機会とお金があれば、日本にいた時でも行きたかったのだ。三重県の前は名古屋にいたが、大学生伝道の仕事だったこともあり、オーケストラを含めそれなりにコンサートゴーアーズ・ライフは楽しんだ。 
 
しかし三重県にいた11年間は、オーケストラの演奏会には一度しか行ったことがない。ギタリストの山下和仁さんがアランフェス協奏曲を弾くというので、スペインのグラン・カナリア・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を福島県まで聴きに行ったのだ。それだけである。三重県での11年間で行った主なコンサートはクラシックギターの演奏会である。
 
理由は簡単。行く時間的余裕がなかったからだ。牧会していた教会の教勢は最大時で約150名、開拓株分けやその他の事情で減少した後でも120名前後の教勢であり、その半数以上が60代から上の世代であった。ぶっちゃけた話、いつ教会員や家族の訃報が飛び込むか分からない現場だったのだ。葬儀は休暇日もへったくれもない。有無を言わさず入ってくる。せっかく買ったチケットもパーになる可能性もある。従って、チケット代の高いオーケストラの演奏会は敬遠せざるを得なかった。比較的チケット代の安い(数千円前後)ギターのコンサートを選んだのである。これなら急に葬儀の仕事が入っても諦めがつく。
 
人は、神に召された本業に専念しなければならない。地方の教会、高齢者の多い教会に導かれたのだから、葬儀(前夜式と告別式)や記念会の仕事は宿命だ。だから、オーケストラ鑑賞の趣味とは決別を心がけた。上記のとおり、11年間でたった一度だけである。欲求不満やフラストレーションが全く無かったと言えばウソになる。一度、津市でズービン・メータ指揮のイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演があった。こんな田舎に(津市民の皆さんゴメンナサイ)にメータとイスラエル・フィルが来るなんて!と興奮し、さっそくチケットを購入しようかと思ったが、生憎、日曜日(牧師の勤務日)午後の公演であり、加えてその日の午後には教会の役員会があったのだった。ガッカリ・・・。そんなこともあったが、オーケストラ鑑賞の趣味を断った11年間に後悔はまったくない。召された境遇で満ち足りるを学ぶがキリストの弟子道である。
 
 
さて、現在のロンドン生活。三重県時代とはまた状況が変わった。教勢は少ないし、高齢者もずっと少ない。従って、葬儀も少ない(赴任してから葬儀の司式はまだ一度もない)。以前書いたように、こちらではオオクワガタ飼育もクルマの運転もギターの趣味もないので、コンサートに行くくらいしか私の趣味はない。だからオーケストラの演奏会に足を運んでいる。この境遇は境遇で満ち足りることを学んでいる
 
とはいえ、神様が私に、再び日本に戻って、それも大都市圏ではなく地方での牧会伝道に戻れと仰せられたとしても、私はいつでもコンサート三昧(?)の生活を捨てて戻る心備えはできている。私の尻は軽いのだ。現在の生活にしがみつく気は毛頭ない。もちろん、召されている間は、足に根が生えた如くその場にしっかり腰を据えるべきである。他方、召し(召命)が変われば、ひょいと尻軽く示された場所に行くのみである。
 
私にとって、ロンドンに残るのであれ、日本に戻って大都市圏に召されるのであれ、はたまた地方に召されるのであれ、私はパウロのようにどんな境遇にも対処する用意はできていると言える。何も自慢できるものはないが、それだけははっきり言える。日本であれ外国であれ、大都市圏であれ地方であれ、召された時に召された場所へ遣わされるだけである。
 
以上が私の心意気だ。ここロンドンにいる間は、ここでの趣味を楽しもう。でもそれを神様が終わらせるなら、それはそれで結構。いつでも移される心備えはできている。
 

2018年10月 4日 (木)

Wycliffe Hall Is a Dangerous Place to Go to Theological College.

 
是々非々が信条なので、たとえ自分の出身神学校、愛する母校でも、悪い傾向には物申す。
 
下段の写真は、ウィクリフ・ホールが誇らしげに自身のFB(フェイスブック)に投稿した画像である。英語で言うなら "ポッシュ(posh)" で "コーズィー(cosy)"な学生寮の写真である。高級ホテルかと見紛う豪華さだ。もちろん私は、神学校が財政戦略として学生の休暇中に寮を開放し、臨時の宿泊施設として「外貨」を稼ぐ実状を知らない訳ではない。し・か・し、神学校がこんなものを自慢するようではお先真っ暗だ。
 
ウィクリフ・ホール関係者はジョン・パイパー師の警告に耳を傾けるべきだ。この動画は、パイパー師が1999年9月に、アメリカの南部バプテスト神学校(Southern Baptist Theological Seminary, SBTS)が開講した Mullins Lecture の講師として招かれた折、神学校の教師・学生・関係者を前にして実際に語ったことばである(度胸あるなあ。まさに預言者だ)。動画中の一部の画像は、YouTube 投稿者が内容に合わせて適宜編集したものとのこと。
 
 
 
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2018年10月 2日 (火)

ガッティ解任後のコンセルトヘボウ管、その他の話題

 
首席指揮者ダニエレ・ガッティを電撃的に解任したオランダの名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。首席指揮者だけにその公演回数も多く、その穴埋めは大変だったと思われる。有名指揮者になるほど数年先までスケジュールは決まっているし、かといってコンセルトヘボウ管ほどのオーケストラであれば代打が誰でもよいという訳にはいかない。
 
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本日、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団から電子メールが届き、今後の指揮者の予定がほぼ決まったようである。次の指揮者が来年前半の代打となるとのこと。いずれも押しも押されぬ実力派指揮者ばかりだ。
 
ベルナルト・ハイティンク (Bernard Haitink
 
フランソワ=グザヴィエ・ロト (François-Xavier Roth
 
ダニエル・ハーディング (Daniel Harding
 
ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン (Jaap van Zweden
 
ハイティンクは1月下旬のコンサートでモーツァルトの40番やブラームスの4番などを振る。ロトも同じく1月下旬のコンサートでR. シュトラウスの『英雄の生涯』やピエール=ローラン・エマール(Pierre-Laurent Aimard)を独奏者に迎えてベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番などを振る。ダニエル・ハーディングはコンセルトヘボウ管が2月に行うアメリカ・ツアーに同行する。ハーディング君は今シーズンをもって現在のパリ管弦楽団音楽監督を降りる意向とのことだし、以前から同世代の指揮者に比べてポストに恵まれている訳でもなかったので、比較的時間はあるのだろう。ヴァン(オランダ語発音だと「ファン」)・ズヴェーデンは3月上旬のマーラー7番を指揮する。
 
私は来年3月のマーラー7番のチケットを予約済みだった。ガッティの降板でがっかりしていたが、ズヴェーデンなら予定どおり行くことにしよう。ズヴェーデンは1979〜1995年の16年間にわたりにコンセルトヘボウ管のコンサートマスターを務めた人で、その後指揮者に転向した。ダラス交響楽団の音楽監督を経て、2018年のシーズンからアメリカ五大オーケストラ(「ビッグ・ファイブ」)の1つ、名門ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任している。今回のピンチヒッター要請、古巣の危機なのだから、ズヴェーデンはひと肌もふた肌も脱ぐことだろう。
 
 
ところで、ヨーロッパのオーケストラは、指揮者交代くらいでは払い戻しなど応じてくれない。もっとも公演そのものが中止になれば話は別だが。そういえば、以前投稿した「アムステルダムでのマーラー9番」の続きを書いてなかったことを思い出した。この際である、払い戻しのこととからめて後日談を記しておこう。
 
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今年6月7日(木)のコンセルトヘボウ管の定期演奏会だった。指揮者はかつてこの楽団で長く首席指揮者を務めたベルナルト・ハイティンク。登壇した時からアムステルダムの聴衆は興奮して拍手していた。それゆえ、私は悪い予感がした。だいたい過度な期待とは裏切られるものだ。それにハイティンクは、今年5月のボストン交響楽団でのブラームス2番で、なんとも個性の感じられない指揮ぶりだったのだ。悪い予感は的中。期待したマーラー9番の演奏から、円熟の巨匠らしい音楽はついぞ聴けなかった。コンセルトヘボウ管は相変わらず上手だったが。それでもアムステルダムの聴衆は熱狂していた。熱狂の中でシラけていた私だったが、御年89歳の現役指揮者の音楽を聴けたことはそれはそれで収穫はあった。
 
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ところが事故は翌日(6月8日)の晩のコンサートで起こった。なんと、ハイティンクが舞台上で転倒、負傷したのだ。89歳である。本人はなんとかがんばって3日目(6月9日)の務めを果たそうと願ったものの結局断念。急遽、代役指揮者が立てられて演奏会は強行されたのだった。この時も楽団は払い戻しには応じなかったそうである。代役を指名されたのは、このオケの副指揮者を務める弱冠26歳のイギリス人指揮者ケレム・ハサン(Kerem Hasan)だった。(画像を見て「え、イギリス人?」と思った人もいるだろう。テニスの大坂なおみ選手を「え、日本人?」と思ったのと同様に。でも認識を変えよう。世界は刻々と変化し、人々の意識も変わっているのだ。ハサンの風貌のイギリス人などわんさかいる。) ハイティンクの助手を務め、指揮者コンクールで優勝の経験もある将来有望な若手指揮者との触れ込みだったが、なにせ巨匠ハイティンクの代打。ハイティンクの登場を期待していた聴衆には役不足と映ったようで、演奏開始直後に席を立って退場した人たちもいたとか。しかし、なんと、なんと、蓋を開けてみれば演奏会は大成功。聴衆はこの若い指揮者のデビューを心から祝福した。彼はハイティンクの代役として立派にマーラー9番を振ってのけたのだった。
 
このニュースを後日耳にして、私はふと思った。果たして私はラッキーだったのだろうか?と。予定どおり、ハイティンクの登場と演奏には触れることはできた。それはそれでラッキーだったであろう。しかし、2018年6月9日という日は、もしかすると後に「巨匠誕生の瞬間」と歴史に刻まれる日となるかもしれない。そのような日を逸してしまった点において私は不運だったのかもしれない。思い起こすと、今日、名指揮者と呼ばれている人たちの中には、巨匠や大先輩の代役としてデビューした人がけっこういるのである。人生のチャンスとは、案外そういう時にめぐってくるのかもしれない。大事なのは、チャンスがチャンスだと気づくことである。その意味で、6月9日のケレム・ハサンはチャンスを見事ものにした。また、演奏会場を退場しなかった聴衆も同様である。
 
 
主イエス・キリストは、公生涯を「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書 1章15節 新改訳聖書 2017)との宣言で開始された。「時が満ち」の「」とは、ギリシャ語で時の流れ・経過としてのクロノスではなく、出来事としての時つまり「カイロス」である。この語はギリシャ神話のカイロス神に由来するという。この神の風貌の特徴は、「前髪は長いが後頭部は禿げている」である。大阪・通天閣のビリケンさんに似ている。カイロスは前髪しかない。つまりカイロスとは、すぐに前方から捉えなければ後から捉えることはできないチャンス(好機) のことである。キリストは、ご自身の福音(良き知らせ)を「カイロス=好機」と宣言された。かつて私の職場の上司はこう喝破した。「人間は二種類しかいない。チャンスをチャンスと気づく人と、気づかない人である。」  主イエスの「悔い改めて福音を信じなさい」との招きは、チャンスである。あなたはこの好機に気づいているであろうか?
 
 

2018年9月30日 (日)

市民の義務

 
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先週の木曜日(9/27)は、フィルハーモニア管弦楽団のシーズン(2018ー2019)・オープニングの演奏会だった。フィルハーモニア管のみならず、ヨーロッパ中のオーケストラの新シーズンが今月から始まる。
 
この日の指揮者はエサ=ペッカ・サロネン。メインの曲目は A. ブルックナーの交響曲第6番だった。演奏はいつもながら素晴らしかったのだが、肝心の聴衆の集中力がイマイチ。シーズンの始まりだというのに、指揮者登場時の拍手からして気が抜けていた。なんというか、期待感に溢れてないのだ。理由は分かっていた。この日、BBCのニュースチャンネルは昼間から夜までずっとブレット・キャバノー(カバノー)米最高裁判事候補の上院司法委公聴会を実況していたのだ。うちの妻も、イギリス人も1日中テレビに釘付けだった。公聴会の中継が終了したのがイギリス時間の夜11時過ぎだったから、皆さん、渋々テレビを離れて演奏会に来た感じ。そりゃ集中力を欠きますわ。演奏終了後も、残って拍手したりブラボーを叫ぶ人もあったが、そそくさと席を立つ人が本当に多かった。気の毒な指揮者とオケ・メンバー・・・。
 
さて、件の「キャバノー騒動」である。日本でどの程度報道されているか知らないが、アメリカはじめ英語圏では極めて関心が高い。キャバノー判事に対して現時点で3人の女性が性的暴行を受けたと主張している。その1人、クリスティーン・フォード教授は公聴会で宣誓証言し、キャバノー判事も同様に行った。フォード教授は、キャバノー氏の暴行意図は「100%」確信していると主張。これに対しキャバノー判事は全面否定した。上院の要請を承けて大統領はFBI(連邦捜査局)に捜査を指示。上院での採決は1週間後となった。
 
今回の争点は36年前の出来事である。もっとも、フォード教授の訴えが事実であれば「36年も前のこと」などと片付けることはできない。現在の最高裁判事はすでに保守派5人、リベラル4人で、保守派が優勢な構成になっている。最高裁判事の任期は終身なだけに、最高裁判事たちの政治的傾向が圧倒的に保守寄りになった場合、その判決はトランプ大統領の任期満了後も長く米社会に影響を及ぼすことになる。米国の最高裁は市民生活に重要な影響力を持つ。人工中絶、死刑制度、投票権、移民政策、政治資金、人種偏向のある警察の行動など、激しい賛否両論のある法律について最終判断を示すほか、連邦政府と州政府の争いごとや、死刑執行停止の請求などについても最終判断を示す。 従って、判事任命の調査は慎重かつ徹底的になされるべきだ。
 
しかしそれにしてもこの騒動、11月の中間選挙を控え、共和党と民主党の代理戦争に利用されている感が強い。それでもこのタイミングで訴えたその動機・理由をフォード教授は「市民の義務」と表現した。
 
 
話は全く変わるが(本当に変わる!)、「市民の義務」で思い出したことがある。英BBCテレビはつい最近まで「カウンシル・ハウス・クラックダウン(Council House Crackdown)」 という朝の番組を放送していた。カウンシル・ハウスとは、主に低所得者のためにイギリスの自治体が格安で提供する賃貸住宅のことである。クラックダウンとは「取り締まり」や「摘発」を意味する。つまりこの番組は、所得や財産を偽って低所得者用住居に居住したり、もっと悪質なケースとして、その住居を他人に「又貸し(subletting)」して家賃を懐に入れる不届き者らを当局が摘発する様子を追うドキュメンタリー番組である。今回はシリーズ4であった。シリーズ1が全5回、以後シリーズ2と3、そして今回の4がそれぞれ全10回の番組構成であった。即ち、今までのシリーズ1〜4で、計35回にものぼる回数が放送されたことになる。これは何を意味するか? それは、カウンシル・ハウスをめぐる不正は看過できない深刻な社会問題ということだ。特にロンドンの住宅不足と不動産の高騰は著しい。カウンシル・ハウスに入居する資格のあるイギリス人の低所得者が入居できない深刻な現実問題がある。一方、不正申告者や不法滞在外国人による申請や「又貸し」に起因する深刻な事態も起きている。昨年起こったグレンフェル・タワー火災事故 では、当初、消防及び警察当局は正確な犠牲者数を発表できなかった。それは、この高層カウンシル・ハウスに実際に住んでいた住人の家族構成や人数が把握できなかったからである。残念ながら、ここでも住人の不法入国や「又貸し」の不正があったと言われている(なぜか英マスメディアはこの部分を語ろうとしない)。
 
このような不正を実際に目撃したり、知ったのであれば、「市民の義務」として当局に通報する義務があるだろう。この通報は決して「たれ込み」や「チクリ」ではなく、「公益通報」である。
 
私には今、1つの悩みがある。それは、カウンシル・ハウス・クラックダウンの対象になるのではないかと思われる、在ロンドン日本人社会の身近なケースを知ってしまったからである。傍目には限りなくブラックと思われるグレーゾーンであり、またあまりにも身近ゆえに、正当な就労ビザを許可された「市民の義務」として公益通報を行うかべきかどうかを悩んでいる。しばらく祈って考えたい。
 
 

2018年9月22日 (土)

ダニエル・ハーディング&ベルリン・フィル

 
前首席指揮者兼芸術監督のサイモン・ラトルは、2017-2018年のシーズンをもって退任した(現在はロンドン交響楽団の音楽監督)。次期芸術監督のキリル・ペトレンコは2019年9月のシーズンから着任する。従って、2018-2019年のシーズンはベルリン・フィルにとって芸術監督(首席指揮者)不在の期間なのだ。それゆえ、今秋からのシーズンは主に客演指揮者たちとの共演の年となる。私はイギリスの指揮者ダニエル・ハーディングの公演に行ってきた。
 
演目はアントン・ブルックナーの『交響曲第5番 変ロ長調』。曲の構築性とフィナーレの力強さにおいて、交響曲第8番と並び立つ傑作との評価もあるらしい。しかし私はどうもまだブルックナーの交響曲の偉大さが分からない。この日のハーディング&ベルリン・フィルによる演奏(解釈)からも最後までこの曲の傑作性は私には伝わって来なかった。恐らく彼にとってブルックナーの交響曲は未だ自家薬籠中のレパートリーとはなっていないのだろう。  
 
ベルリン・フィルにしてはなにか、燃焼しきれない演奏会であった。BBCプロムスでの完全燃焼が記憶に鮮明過ぎるのかもしれないが・・。まあいい。新シーズンは始まったばかりだ。芸術監督不在のこの1年。折々に彼らの演奏を見守って行きたい。
 
 
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2018年9月15日 (土)

音楽<を>学ぶから、音楽<で>学ぶへ

 
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菅野 恵理子著
 
ハーバード大学は「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育
 
アルテスパブリッシング 2,000円+税
 
一読して、よく取材している、よく調査している、そしてよく思索している書との印象。本のテーマを見定める着眼点が良い。文体も熟れていて好感をもって読める本である。副題にあるように、本書はまずアイビー・リーグをはじめとしたアメリカの大学におけるリベラル・アーツ(基礎教養課程)で、「音楽」がどのような目的・内容・方法でカリキュラムに組み入れられ、実践されているかを豊富な取材で紹介している。主なところでは、
 
ハーバード大学 ー 音楽で「多様な価値観を理解する力」を育む
ニューヨーク大学 ー 音楽で「歴史をとらえる力」を学ぶ
マサチューセッツ工科大学 ー 音楽で「創造的な思考力」を高める
スタンフォード大学 ー 音楽で「真理に迫る質問力」を高める
カリフォルニア大学バークレー校 ー 地域文化研究の一環として
コロンビア大学とジュリアード音楽院 ー 単位互換から共同学位へ
 
という具合である。
 
例えば日本で「東京大学」と言っても即座に「音楽」とは結びつかない。しかし本書第4章が解題するように、アメリカのトップレベルの諸大学に限らず、アメリカの大学がお手本とした英国のオックスフォード・ケンブリッジ両大学でも、大学教育と音楽の深い関係はカリキュラムの歴史の中で自明である。ヨーロッパ大陸の伝統的な諸大学においてもだ。
 
各章の見出しを紹介しておこう。
 
第1章 音楽<も>学ぶ ー教養としての音楽教育
 
第2章 音楽<を>学ぶ ー大学でも専門家が育つ
 
第3章 音楽を<広げる> ー社会の中での大学院の新しい使命
 
第4章 音楽はいつから<知>の対象になったのか ー音楽の教養教育の歴史
 
第5章 音楽<で>学ぶ ー21世紀、音楽の知をもっと生かそう
 
 
本投稿のタイトルは、本書の第2章と第5章から取った。音楽の<知>は、「知の蓄積」から「知の活用」へと展開されることにより、リベラル・アーツ課程での音楽教育の目的にある「起業精神」と「リーダーシップ」を身につけた人材育成を推進する。最終目的は「音楽<で>学ぶ」である。ビル・ゲイツ(Microsoft)、故スティーブ・ジョブズ(Apple Computer)、ジェフ・ベゾス(Amazon.com)、ラリー・ペイジ&セルゲイ・ブリン(Google)、マーク・ザッカーバーグ(Facebook)、イーロン・マスク(Tesla、スタンフォード大学大学院を2日で退学!) etc. etc. が、アメリカの大学のリベラル・アーツの土壌から輩出されるのも合点が行く。
 
個人的には、音楽をめぐる古代から中世ヨーロッパ、そして新大陸へと継承される学術史を紐解いた第4章「音楽はいつから<知>の対象となったのか」を関心をもって読んだ。余談ながら、欧米のオーケストラ楽団とは「生きた化石」と思わされた次第。伝統を継承し社会の中で生きている。しかし絶滅危惧種でもある。伝統は付加価値ではあっても本質ではない。音楽関係者も「音楽<で>学ぶ」者とならなければならない。
 
 
 

2018年9月12日 (水)

カレッジ・フォト

 
ウィクリフ・ホール 1985〜1989年卒業生の同窓会が間もなくある。画像の最後列左から2人目に伊藤明生先生(東京基督教大学教授)のお姿がある。前から2列目の一番左の人物が、伊藤先生の論文指導教官であり私の恩師でもあるデイヴィッド・ウェナム先生(Rev. Dr. David Wenham)。
 
因みに、アリスター・マクグラス先生(Rev. Dr. Alister McGrath)は最前列左から6人目である。また、北アメリカで活躍するリフォームドの神学者マイケル・ホートン博士(Dr Michael Horton)は3列目右から5番目におられる。当時、マクグラス先生の指導で博士論文を書いていた。 同じ3列目の右端には私の新約神学の恩師だったピーター・ウォーカー先生(いのちのことば社から『聖地の物語 目で見る聖書の歴史』が邦訳出版されている)のお姿もある。当時は神学生だった。
 
その他、日本では知られていないが、英国では著名な牧師・神学者がこの写真の中には何人もいる。いや、最も大事なことは、(すでに召された人たちを含め)全員が神の国の福音のために働いておられる方々である。
 
最後に、3枚目の画像は1995年のカレッジ・フォト。当時2年生だったが、さて、私・のらくら者はどこにいるでしょう?
 
 
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2018年9月 6日 (木)

キリル・ペトレンコの魅力

 
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前回の投稿でベルリン・フィル次期首席指揮者兼芸術監督キリル・ペトレンコの大ファンになったことを書いた。私が評価する例えばエサ=ペッカ・サロネンも、ペトレンコも、全身全霊で指揮する姿は共通する。しかし身振り手振りだけなら指揮台上の独善ダンスだ。そうならない秘訣が彼らにはある。今回、ペトレンコにそれを感じた。
 
音楽評論家の舩木篤也(ふなき・あつや)氏は、クラシック音楽界の「コンクラーベ(ローマ教皇選出選挙)と呼ばれるベルリン・フィルの次期芸術監督(首席指揮者)選出過程において、「ヴェテランを別とすればキリル・ペトレンコが最善と考える」と早くから<予言>されていた方である。その根拠を今からちょうど3年前(2015年8月)に氏は次のように語っている。
 
昨年、バイロイト音楽祭で聴いた彼の《ニーベルングの指環》には、舌を巻いたものだ。
 
ベルリン・フィルとの演奏会は、2012年の模様が「デジタル・コンサートホール」にアップされているが、そこで見られるとおり、彼はいかにも全身全霊で指揮する。しかしそれが、単なる独り善がりのダンスでないことは明白だ。どの音も、指揮者の強烈な関心に射抜かれ、燃え立つようでありながら、くっきりとした輪郭を示しているではないか。バイロイトでも、まさにこうだった。
 
Petrenko_score秘密は、スコアの精緻な読みにあるだろう。
 
《指環》では、耳慣れない強弱法や緩急法がとても新鮮だったのだが、後でスコアを開いてみれば、これがまったく書いてある通り。ワーグナーが明示していない措置であっても、複数の版を突き合わせてみれば、それらが作曲者の「口頭による指示」に倣ったものであることが判明する。当時の助手たちによる注記を、可能なかぎり参照しているのだ。ペトレンコはワーグナーの手稿譜も研究したというから、その成果も盛り込まれていることだろう。
 
急激に売れっ子になり、忙殺され、ろくに準備もせず R. シュトラウスあたりを振り散らかすーーそういった手合いとは、一線を画す。ベルリン・フィルは、実質を求めるなら、このような人と仕事をしたほうがいい。  
(『モーストリー・クラシック』 2015年8月号 p. 21 太字赤字はのらくら者による)
 
 
そして、ベルリン・フィルは、実際にそのような指揮者を選出した。実はペトレンコは以前、ベルリン・フィルに客演した際にドタキャンした前科がある。それでも選出された。 さすがである。BBCプロムス・デビューを果たしたペトレンコ。2日間にわたる演奏で、ロンドンの聴衆に自身の矜持(きょうじ)をしっかり示したと言えよう。
 
上記の「スコア」という語を「聖書」に置き換えれば、説教者もペトレンコの姿勢に学べるだろう。思うに今日の説教者の問題は、聖書の精緻な読みも中途半端、聖書の言葉が説教者の関心によって射抜かれ、燃え立つようでありながらくっきりとした輪郭を描く、講壇での「全身全霊」さも中途半端なことだろう厳しく自戒の念を込めつつ、分野は違っても、ペトレンコの指揮ぶりから学んで行きたい。
 
"What is preaching ? Logic on fire ! Eloquent reason ! Are these contradictions ?  Of course they are not.  Reason concerning this Truth ought to be mightily eloquent, as you see it in the case of the Apostle Paul and others.  It is theology on fire.  And a theology which does not take fire, I maintain, is a defective theology; or at least the man's understanding of it is defective.  Preaching is theology coming through a man who is on fire.  A true understanding and experience of the Truth must lead to this.  I say again that a man who can speak about these things dispassionately has no right whatsoever to be in a pulpit; and should never be allowed to enter one."  
D. Martyn Lloyd-Jones, "Preaching and Preachers", p. 97)
 
では説教とは何か。それは燃え立つ論理、雄弁な理性です! これは矛盾しているでしょうか。むろんそうではありません。使徒パウロやほかの人々に見られるように、みことばの真理に対して理性は大いに雄弁になります。それは燃え立つ神学です。私は燃えない神学は欠陥のある神学だと主張します。少なくともそのような人の神学理解には欠陥があります。説教は燃えている人を通してもたらされる神学です。みことばの真理を真に理解し、経験するならそこに通じます。こうした事柄を冷淡に語るような人は講壇に立つ権利はなく、決して許されるべきではありません。」 
D. マーティン・ロイドジョンズ 小杉克己訳 『説教と説教者』  いのちのことば社 pp. 141-142)
 
音楽でも説教でも、「光のない熱」も「熱のない光」も不完全である。光(神学)と熱(雄弁さ)が必要なのだ。今日の悲劇は、そのお手本(role model)をキリスト教会にではなく音楽界に求めなければならないことだ。キリル・ペトレンコやエサ=ペッカ・サロネンは当分の間、私のお手本となろう。
 
 

2018年9月 5日 (水)

ベルリン・フィル公演@BBCプロムス(2)

 
BBCプロムスでのベルリン・フィル公演の2日目。念のため曲目は次のとおり。
 
9月2日(日) 午後8時〜
キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  曲目
  ・R. シュトラウス 交響詩『ドン・ファン』
  ・R. シュトラウス 交響詩『死と変容』
    <休 憩>
  ・L. ベートーヴェン 『交響曲第7番 イ長調』
 
 
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最初に言っておこう。2日間の公演を通じて、私はベルリン・フィルの次期芸術監督キリル・ペトレンコの大ファンになってしまった。2005年〜2016年にかけての私の追っかけ対象はギタリストの山下和仁氏だった。今後つまり2019年シーズンからはペトレンコ、特にペトレンコ&ベルリン・フィルのコンビとなろう。
 
教会の礼拝は午後2時半からで、5時過ぎには交わりも終えて解散である。教会から会場のロイヤル・アルバート・ホールまで歩いて10分ほどだ。妻と一緒にハイストリート・ケンジントン(要するにケンジントン地区の大通り)にあるテイクアウトの中華の店で数品調達し、ウィリアム王子ご一家が住むケンジントン宮殿近くの公園ベンチに座って夕食を済ませた。公園内を歩きながら会場に向かう。
 
さて、この夕べの圧巻は何と言ってもベートーヴェンの7番。大編成オケで演奏された R. シュトラウスの交響詩2曲の演奏ももちろん素晴らしかった。しかしベルリン・フィルの真価を示したのはむしろ古典派で小編成のベートーヴェンの交響曲だった。とりわけ弦楽セクションの重量級サウンドはさすがの貫禄であった。コンマスが日本人の樫本大進さんだったのもうれしかった。彼はもうすっかり楽団員の信頼を得ているようで、例によって大きな身振りであるが空回りしない。楽団員は彼に付いてくる。ロイヤル・アルバート・ホールのようなだだっ広い会場ではピリオド奏法も意味なしであろう。弦に弓を深く当てて野太い音、重量感のある音を追求する方が正解だ。シュトラウスの交響詩では舞台側に5プルト(つまり計8プルト)だった第一ヴァイオリンがベートーヴェンでは4プルトになった。しかしベートーヴェンでの方が音はずっと大きく聞こえた。
 
もうこれ以上私の底の浅い感想を書くのは止めておこう。せっかくの感動が台無しになってしまう。代わりに、 ベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールから、同じベートーヴェン7番の第4楽章の動画を以下に紹介しておく。今年8月24日フィルハーモニー(ベルリン・フィルの本拠地ホール)からの中継だから、BBCプロムスのほんの1週間ほど前の演奏である。
 
 

2018年9月 3日 (月)

ベルリン・フィル公演@BBCプロムス(1)

 
 
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9月1日(土)と2日(日)のBBCプロムスはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。指揮者は2019年のシーズン(秋)から首席指揮者兼芸術監督に就任することが決まっているキリル・ペトレンコサイモン・ラトルの後任である。ベルリン・フィルはカラヤン(墺)アバド(伊)ラトル(英)らに続く次のシェフにロシア人指揮者を選んだ。今晩はまたペトレンコにとってBBCプロムスのデビューでもあった。
 
曲目は次のとおり。
 
1日(土) 午後7時30分〜
キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  曲目
  ・P. デュカス 『「ペリ」へのファンファーレ』
  ・S. プロコフィエフ 『ピアノ協奏曲第3番 ハ長調』 独奏者:ユジャ・ワン
  ・F. シュミット 『交響曲第4番 ハ長調』
 
2日(日) 午後8時〜
キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  曲目
  ・R. シュトラウス 交響詩『ドン・ファン』
  ・R. シュトラウス 交響詩『死と変容』
  ・L. ベートーヴェン 『交響曲第7番 イ長調』
 
 
今回は初日(9/1)の印象を少々。
ドゥカスの「ペリへのファンファーレ」は曲名のとおり、金管群によるファンファーレで始まる。ベルリン・フィルブラス・セクションの輝かしい名人芸が冒頭から聴衆の心を鷲づかみにする。このオケのずば抜けたアンサンブルと幅広い音量のダイナミック・レンジは終始聴衆を圧倒。公演の冒頭からまことにこのオーケストラが別格の存在であることを改めて我々に印象づけた。
 
前半のプログラムのメインはセルゲイ・プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」。ピアニストは今をときめく中国出身のユジャ・ワン。ワンの超絶技巧と豊かな音楽性そして圧倒的なオーラ(ステージ衣装も)に、さしものベルリン・フィルも霞んでしまうほどであった。終演後は、聴衆の熱狂に応えてアンコールを2曲も弾いてくれた。
 
YouTube動画はベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールから。このコンビによる同曲の第1楽章の抜粋。
 
 
 
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プログラム後半のメインはフランツ・シュミット(1874ー1939)という日本人には聞き慣れないオーストリアの作曲家の『交響曲第4番 ハ長調』。次期芸術監督のキリル・ペトレンコは、ラトルやアバドましてカラヤンといったベルリン・フィルの前任者たちと比べれば決して「華」のある指揮者ではない。しかし今晩の演奏からはっきりと分かったが、非常に緻密に指揮をする人であり、同時にスケールの大きな音楽を構築する人である。ラトルの後任人事にはいろいろな下馬評があったし、結果としてベルリン・フィルの意外な人選に驚いたものだが、ペトレンコのような人を選び出す彼らの眼力に改めて感服し深く納得した次第である。初めて聴くシュミットの交響曲だったが、「こんなにいい曲だったか!」と感動した。今晩の話題はユジャ・ワンに拐われるかなと思ったが、ペトレンコ&ベルリン・フィルはさすがの底力を見せつけた。脱帽だ。
 
それにしても、こんな贅沢な演奏会がロンドンではたった(それでも英国の相場からすれば高価な部類だが)52ポンド(≒7,800円)で聴けるのだ。日本だったら4万円以上だ。有難いことである。
 
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2018年8月30日 (木)

現在の読書

 
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画像の左側の本、"Where Is Boasting? : Early Jewish Soteriology and Paul's Response in Romans 1-5"(2002年刊) の読書に没頭している。正確には再読である(日本で初版を持っていたが引っ越しのドタバタで紛失。こちらで再購入した)。これは著者ガザーコールがダラム大学神学部大学院に提出したの博士論文が下敷きになっている。彼の論文指導教官(Doctoral Supervisor)はジェームズ・ダン教授(Prof.James D.G.Dunn、当時)だったが、博士論文はダンや N.T.ライトらのNPP(New Perspectives on Paul)に真っ向反論する主旨だった。それでも見事、博士号が授与された。これが英国の大学の良さである(同様の逸話は F. F. ブルースの自伝 "In Retrospect" にも出てくる。そこでの反骨者はマーレイ・J. ハリス氏 Dr Murray J. Harrisであった。後に米国トリニティー神学校で教鞭を執った<釈義の達人>)。
 
ガザーコールの名を最初に知ったのは画像右側の本、D.A.カーソンらが編集した論文集 "Justification and Variegated Nomism" の第2巻 The Paradoxes of Paul2004年刊) だった。"Where Is Boasting?" を読む時間の無い人は、本書に収められたガザーコールの論文を読まれればよい。実質的なダイジェストだからである。余談ながら神学校時代の友人が「N. T. ライトは本論文集やガザーコールの本を「一瞥」したかもしれないが本当に読んだのだろうか?」と訝しんでいた。彼が言うには、ガザーコールが論破した内容が ライトの"Paul and the Faithfulness of God" の中で繰り返されているらしい。私自身は未確認である。
 
著書等の紹介欄には、ケンブリッジ大学神学部の「上級講師(Senior Lecturer)」と書かれているが、ケンブリッジのウェブサイトによると現在は「最上級講師(Reader)」とのことである。ほどなく「教授(Professor)」になるのはほぼ間違いないと思われる。所属学寮(college)は「フィッツウィリアム・コレッジ(Fitzwilliam College, Cambridge)」。同じくウェブサイトによると博士課程の研究生を受け入れているとのことなので、関心のある方は問い合わせを。
 
 
 
米テキサス州ヒューストンで行われた一般向けレクチャーはガザーコール入門としてお薦め。

2018年8月28日 (火)

お嘆きの貴兄に・・・

 
(50代以上の読者向け。菊正宗のCMにかぶせて)
 
最近は甘口の贖罪論(勝利者キリスト)が多いとお嘆きの貴兄に、
 
まだ甘口の贖罪論(道徳感化説)が多いとお嘆きの貴兄に、
 
辛口の「刑罰代償説(懲罰的代理説)」を贈ります。
 
♪やぁっぱりぃ、おぉれはぁあああ〜、だいしょおぅ〜せぇつぅ〜♪  
 
辛口一筋、刑罰代償説。
 
 
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 (ローマ 5章8節  新改訳聖書第3版
 
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 (II コリント 5章21節  新改訳聖書第3版)  
 
 
 
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2018年8月25日 (土)

ロンドン交響楽団 日本ツアー 2018

 
来日公演、来月に迫る!
 
音楽監督サイモン・ラトル氏から日本の聴衆へメッセージ。
 
 
 
指揮:サー・サイモン・ラトル
ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン
ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン

9月23日(日)14:00 大阪/フェスティバルホール【プログラムE】
問:フェスティバルチケットセンター 06-6231-2221
(大阪国際フェスティバル)

9月24日(月祝)18:00 東京/サントリーホール【プログラムA】
TDK オーケストラコンサート2018 (特別協賛: TDK株式会社)
問:カジモト・イープラス 0570-06-9960

9月25日(火)19:00 東京/サントリーホール【プログラムC】
TDK オーケストラコンサート2018 (特別協賛: TDK株式会社)
問:カジモト・イープラス 0570-06-9960

9月27日(木)19:00 東京/NHKホール【プログラムD】
問:NHKプロモーション 03-3468-7736
(NHK音楽祭2018)

9月28日(金)19:00 横浜/横浜みなとみらいホール 大ホール【プログラムC】
問:横浜みなとみらいホール チケットセンター 045-682-2000
(開館20周年記念)

9月29日(土)14:00 東京/サントリーホール【プログラムB】
TDK オーケストラコンサート2018 (特別協賛: TDK株式会社)
問:カジモト・イープラス 0570-06-9960


【プログラムA】
バーンスタイン:交響曲第2番「不安の時代」(ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン)
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集 op.72
ヤナーチェク:シンフォニエッタ

【プログラムB】
ラヴェル:マ・メール・ロワ
シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン)
シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 op.82

【プログラムC】
ヘレン・グライム:織り成された空間(日本初演)
マーラー:交響曲第9番 ニ長調

【プログラムD】
ラヴェル:マ・メール・ロワ
シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン)
ヤナーチェク:シンフォニエッタ

【プログラムE】
バーンスタイン:交響曲第2番「不安の時代」(ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン)
マーラー:交響曲第9番 ニ長調

2018年8月23日 (木)

歴史は繰り返すのか

 
先週まで約2週間ほど一時帰国していた。N. T. ライトの著書も新たに出版されたようだったので購入した。『新約聖書と神の民 下巻』と『悪と神の正義』である(画像参照)。今月、新たにもう1冊が邦訳出版されるとのこと。原題 "Surprised by Hope" が『驚くべき希望 天国、復活、教会の使命を再考する』という邦題で刊行されるらしい。続々の邦訳出版は "ライト応援団"(?)の方々には喜ばしい出来事であろう。素直にお慶び申し上げたい。次回の一時帰国の折には私も『驚くべき希望』を購入してぜひ読んでみようと思う。ライトの豊かな霊性と深い学識から学べることは確かに多い。
 
ただ、"ライト応援団" の方々には申し訳ないが、ライトの著作を読めば読むほど、私の中ではある種の懸念も大きくなっている。もしかして "歴史は繰り返す" のではないか、と。何の歴史か? 19世紀の「テュービンゲン学派」と「ケンブリッジ学派」の拮抗関係のことである。
 
前者は F. C. バウル、後者は J. B. ライトフットという二人の人物に集約される。両者のライバル関係を山田耕太氏は「バウルが正しく問うたことを、ライトフットは正しい歴史的視野の中に置いた」と表現する(『新約学の新しい視点』 すぐ書房 p.106)。正しい歴史的視野とは、ライトフットの著作から鑑みるなら、それは使徒教父文書研究であり聖書注解聖書釈義)に他ならない。特に後者だ。神学史的には、テュービンゲン学派の体系は、ケンブリッジ学派の精緻な聖書釈義によって解体された。NPP やライトの問題意識は正しい(多分)。しかし提出された答えは果たして正しい歴史的視野(=誠実な実証研究や帰納的な聖書釈義)に置かれたのであろうか。最近、ケンブリッジ大学のサイモン・ガザーコール Simon Gathercole や、アバディーン大学大学院出身のプレストン・スプリンクル Preston M. Sprinkle らによる著作に接する中でとみにそう思わされる(第二神殿期ユダヤ教文書に関する彼らの実証的研究とそれらの成果に基づく聖書釈義は特筆されよう)。脱線するが、特にガザーコールは間違いなく新約学界における Rising Star である。そもそも彼はケンブリッジのエデン・バプテスト教会の長老職(Elder)にある忠実な教会員だ。
 
話を戻す。ライトの、新約神学叢書に代表される彼の神学的総合をテュービンゲン学派に見立てるのは安易かもしれない。しかし時代が変わっても、およそ<体系>や<総合の試み>なるものに突きつけられる課題は「細部の煮詰め」である。釈義に耐えられなければいずれ淘汰される運命にある。それが「歴史は繰り返す」だ。日本では「N. T. ライト祭」の活況を呈しているが、ここイギリスで眺めるかぎり、英語圏での趨勢は決しつつあるように見える。なんといっても、議論は日本より20年進んでいるのだ。現在の日本は、20数年前のイギリス及び北アメリカの光景である。
 
19世紀の歴史は21世紀に繰り返すのだろうか。
 
 
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2018年8月20日 (月)

方針変更を検討中

 
有難いことです。
このようなマイナーブログに何人もの方々から問い合わせをいただきました。
会員制にしてほしくない、と。
 
@nifty のココログから引っ越して別のプロバイダーでの再開を準備していました。すでに契約も済ませています。従って、会員制移行への全面中止は困難です。しかし、以下のように部分的な方針変更を検討しています。
 
渡英前のすべての投稿(一部を除く)、及び『石が叫ぶ ルカ 19:40 』、『議論』等のカテゴリーは予定どおり別プロバイダーの会員制ブログ(パスワードによるアクセス)へ移行。
 
②渡英後に投稿したその他のカテゴリー、また①のカテゴリー以外の新規の投稿は従来どおりのプロバイダー(@nifty のココログ )にアップロード。
 
恐らく、このように方針変更することになるかと思います。その場合、近いうちに②のカテゴリーのバックナンバーを再掲載する予定です。
 
 

2018年8月10日 (金)

会員制ブログへの移行

 
件名のこと、かねてより現行の不特定多数への発信から特定多数への発信へ移行する準備を進めていましたが、このほどその準備が整いました。急な連絡で大変申し訳ありませんが、当ブログは明日8月11日から、パスワードによるアクセスの会員制ブログへと移行いたします。2008年のブログ開始時からの記事を含めた現在までのすべての記事をそちらに移します。従って現行の @nifty ココログでの表示は明日をもって終了いたします。
 
一度終了したブログでありましたが、渡英後に再開。再度アクセスしてくださった方々には深く感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 

2018年8月 4日 (土)

RCO、ガッティ氏をセクハラ疑惑で解任

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(アムステルダム)は、首席指揮者ダニエレ・ガッティ氏をセクハラの疑いで解任した。当ブログでも絶賛した才能豊かな指揮者であったが、報道が事実なら当然の処分である。

 https://www.asahi.com/sp/articles/ASL8415R4L83UHBI03Q.html?iref=sptop_8_02

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Royal Concertgebouw Orchestra terminates cooperation with chief conductor Daniele Gatti

Dear Sir, Madam,

We attach great value to inform you that the Royal Concertgebouw Orchestra has terminated the cooperation with chief conductor Daniele Gatti with immediate effect.

On 26 July, the Washington Post published an article in which Gatti was accused of inappropriate behavior. These accusations and Gatti’s reactions with this respect have caused a lot of commotion among both musicians and staff, as well as stakeholders both at home and abroad. Besides this, since the publication of the article in the Washington Post, a number of female colleagues of the Concertgebouw Orchestra reported experiences with Gatti, which are inappropriate considering his position as chief conductor. This has irreparably damaged the relationship of trust  between the orchestra and the chief conductor.

All concerts scheduled with Daniele Gatti will proceed with other conductors.

Kind regards,

Jan Raes – managing director Royal Concertgebouw Orchestra

2018年7月29日 (日)

最近の再会と出会い

 
本日の礼拝に懐かしい人が来てくれた。KGK東海地区主事時代の同僚だったカレン・ダルダさん。オーストラリア・シドニーのCMS宣教師で、現在は某国の日本人コミュニティーのために働いているとのこと。礼拝後に妻と3人でケンジントンのレストランで夕食。昔話、お互いの近況に花が咲いた。それにしてもカレンさん、速射砲のような日本語でよーしゃべるわ。昔と全然変わってない(笑)
 
日付は前後するが、今月19日に行われた VIP ロンドン支部夕食会で、グレースシティチャーチ東京の主任牧師/チャーチプランター、福田真理先生と奥様に初めてお会いした。福田先生から連絡をいただき、VIP の例会での出会いが実現した次第。先生の講演(大都市宣教の意義と可能性について)は大変 inspiring であった。先生と私はほぼ同世代であるが、お互い若い時期にはジャック・エリュールの『都市の意味』(すぐ書房)を読んだものである。エリュールは聖書から都市の罪悪性を指摘するわけであるが、この影響ゆえに大都市での伝道に対してネガティブな印象も植え付けられたものであった。福田先生は、1989年からニューヨーク市マンハッタンのど真ん中で開拓伝道を始めたティモシー・ケラー師(言わずと知れたリディーマー長老教会の元主任牧師)の論考を紹介しつつ、またご自身の開拓伝道の証しを交えつつ、大都市での宣教の意義を積極的に捉え直してみせられた。ただ、私なりに補足させていただくなら、ケラー師は常々 "I learned the most from my nine years as a pastor of West Hopewell Presbyterian Church in the small blue-collar town of Hopewell, Virginia." と語っている。要するにケラー師は、かつてバージニア州の片田舎、ブルーカラー労働者の町の9年間の牧会で必要なことのほとんどを学んだ、と。大都市伝道にこそ「鄙(ひな)の論理」が必要ではないかと思うのだが。
 
 
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2018年7月25日 (水)

窮寇は追うことなかれ(7/26 追記)

 
ヘルシンキでの米ロ首脳会談に先立ち、トランプ大統領は英国を公式訪問した。メイ首相との会談でトランプ氏は「EU を訴えろ(Sue the EU.)」とアドバイスしたらしい(トランプ氏は「提案」と言い直してオブラートに包んでいるが)。メイ首相が BBCテレビ 朝のトーク番組で明かしていた。ブレグジット(Brexit, EU からの離脱交渉)で、メイ首相が「迷首相」になり果てている姿にトランプ大統領は業を煮やしたのだろうか。メイ氏は「それはやり過ぎ」と一笑に付したそうだが、私はトランプ大統領の言葉をイミシンに捉えている。「訴えろ」とは字義的・法的意味ではなく、「交渉なんてやめてしまえ」という意図だろう。実際、トランプ氏は中国との関税戦争に突入したことは周知のとおりだ。
 
最近 EU は、メイ政権がまとめた EU 離脱方針の「白書」をめぐり、金融サービスに関する英国の要求を拒否した(7/23 付の「フィナンシャル・タイムズ」紙報道)。これは英国の国際的な金融街「シティ」の将来にも影響を与えよう。EU 側が英国の要求を突っぱねる理由も分からなくはないが、追い詰め過ぎて「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」が繰り返される愚を歴史の教訓として思い出した方がよい。第一次世界大戦後、敗戦国ドイツを追い詰め過ぎた反動として第二次世界大戦が起こったことを。何が一番怖いかと言えば、退路の断たれた者、失うものが無くなった者の反撃・暴挙である
 
ロンドンの金融街「シティ」の盛衰をめぐっては主に2つの憶測が流れている。
①国際金融特区「シティ」の空洞化。
②「パナマ文書」によって世界の注目を集めた「タックスヘイブン」問題への影響。
 
①については各国金融機関のいろいろな動きがある上、専門家たちの見通しも様々であるゆえ、現時点では何とも言えない。一方、「シティ」の起源は16世紀にまで遡り(1566年の王立商品取引所の設立)、その後、今日まで450年の歳月をかけて世界の金融市場で独自の地位を築いてきた。また1980年代のサッチャー政権による「金融ビッグバン」でその地位は更に確固たるものとなった。欧州大陸において、「シティ」に比肩する金融商品の開発力と金融技術ノウハウの蓄積を有した代替地があるとは思えない(独フランクフルト? 冗談でしょ)。従って、「シティ」の金融機能が EU 離脱によって急速に失われるとはちょっと考えにくい。
 
むしろ、ブレグジット交渉において追い詰められつつある英国が、トランプ大統領の発した "Sue the EU."、つまり「EU との交渉は無駄」との言葉に連動して「窮鼠猫を噛む」のまさに窮余の策に出る可能性が無きしもあらずであり、その環境が整いつつある。これが懸念材料だ。それが②の「タックスヘイブン」の問題である。タックスヘイブンとは租税回避地のこと。世界の富裕層は制度的に納税が免除されるこのような場所に預金を移動させるため、膨大な資金が「オフショア金融センター」たる租税回避地に集まる。「パナマ文書」の中米パナマや、カリブ海のバミューダ、ケイマンといった島国、アジアでは香港やシンガポール、アメリカではデラウェア州がタックスヘイブンとして知られている。実は「シティ」とは、スイスと並び、オフショアの膨大な資金が環流し、運用・管理されている場でもあるのだ。欧州大陸(ユーロ通貨圏)では他に、ルクセンブルグ・アイルランド・キプロスなどの小国では、タックスヘイブンの金融手数料収入が国家財政の大きな部分を占めている。
 
もうお分かりであろう。EU側がこのまま英国の要求を突っぱね、最終的に英国の「パスポート(EU圏内での自由な金融取引の許可証)」が剥奪される事態となれば、窮鼠となった英国はリーマンショック以来の金融規制強化の流れに公然と反旗を翻し、なりふり構わぬ大規模規制緩和を断行しかねない。つまり、英国自体がタックスヘイブン化するという反撃・暴挙である。トランプ大統領の助言「EU を訴えろ(=交渉するな)」とは穿ってみればそういうことではないか。そうなれば、世界中の資金、特にオフショア資金は「シティ」に集中する。この事態が現実となれば、上記の EU圏の小国(ルクセンブルグ・アイルランド・キプロス等)は既得権益を失って破綻するであろう。EU も無傷ではいられない。また「パナマ文書」や「パラダイス文書」の暴露で盛り上がった、世界的な不正蓄財摘発の機運も急速に萎む方向に進む。
 
元国税調査官で、『お金の流れで探る現代権力史 』『元国税調査官が暴く パナマ文書の正体 』等の著書がある大村大次郎氏は次のように語る(「東洋経済 ONLINE」のサイトより)。
 
『このマネーゲームの総本山といえば、ニューヨークのウォール街を真っ先に思い浮かべるかもしれない。確かにウォール街は、金融取引量自体は世界一である。だが、ウォール街の場合、その大半は国内の取引である。アメリカという市場がそれだけ大きいということだ。
 
では、マネーゲームの本当の総本山はどこか。実は、ロンドンのシティなのである。
 
世界金融全体のシェアを見てみれば、ロンドンのシティがウォール街を凌駕している。国際的な株取引の約半分、国際新規公開株の55%、国際通貨取引の35%は、ロンドンのシティが占めているのだ。
 
また、イギリスの外国為替取扱量は、1日当たり2兆7260億ドルであり、世界全体の40%を占めている。もちろん、断トツの1位である。2位のアメリカは、イギリスの半分以下の1兆2630億ドルである。「国際金融センター」としての地位は、いまだにロンドンのシティが握っているのである。
 
なぜロンドンのシティが、これほど世界金融に影響力を持っているのか?
 
もちろんそれは、イギリスがタックスヘイブンの総元締めだからである。
 
国際決済銀行(BIS)によると、イギリスとその海外領のオフショア銀行預金残高は推定3兆2000億ドルであり、世界のオフショア市場の約55%を占めているという。つまり、タックスヘイブンのおカネの多くは、イギリスが取り扱っているのである。
 
イギリスの「経済力」というのは、世界経済の中でそれほど大きいものではない。世界のGDPのランキングでは、だいたい第5位である。米国のGDPの6分の1にすぎない。そのイギリスが、金融の国際取引において、最大のシェアを持っているのだ。タックスヘイブンの存在が、いかに世界のおカネの流れを歪めているか、ということである。』

 
忘れてはならないのは、以前の投稿で指摘したとおり、「ロンドンとは英連邦53カ国24億人の首都でもある」。バミューダもケイマンも英領(海外領土)であり、香港と英国の歴史的結びつきは言わずもがなだ。画像左側の図で、世界のタックスヘイブンと英連邦諸国や地域または旧大英帝国とどれ程重なっているか確認してみれば分かる。世界のタックスヘイブンの首根っこを押さえているのが英国という国だ。普段は紳士的な国だが、「死に物狂い」となったときはプラグマティズム(現実主義)を冷徹かつ冷酷に断行する国でもあることは歴史が物語っている。EU も「いじめ(bullying)」はほどほどにして、そろそろ英国と現実的な交渉に入った方がよい。「窮寇(きゅうこう)は追うことなかれ」だ。
 
 
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2018年7月21日 (土)

対岸の火事ではない

 
前回の投稿で「BBC交響楽団の弦楽セクションはパワーなさ過ぎ」と書いたら、友人から「会場のロイヤル・アルバート・ホール(以下 RAH)が広過ぎるからではないのか」とのコメントがあった。確かにこのホールは大きい。6千人はゆうに収容できるし、天井までの高さは40m近くある。また、普通のコンサートホールでは舞台の上に大きな反響板があって、舞台で立ち上った音を客席に跳ね返す役割を果たしているが、RAH のそれは十分機能しているように思えない。従って、階上の席になるほど音が散ってしまう。確かに RAH はお世辞にもコンサート向きのホールとは言えない。とはいえ、このホールで数々の名演奏が生まれていることも事実なのだ。
 
その内の1つが、1990年のBBCプロムスでの小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラの公演であろう。動画の50分付近、ブラームスの交響曲第1番4楽章のコーダ(終結部)から聴いていただきたい。弦楽セクションの音の大きさ&分厚さは、RAH いっぱいに響いて聴衆を圧倒している。終演後の熱狂がそれを物語っている。この名演に比べたら、18日のBBC交響楽団の弦はあまりに貧弱だった。もっとも、名手ぞろいのヴィルトゥオーゾ集団であるサイトウ・キネン・オーケストラと比べるのは酷かもしれないが。。いずれにしても、ホールのせいばかりとは言えないであろう。
 
 
話は脱線するが、今から28年前のこのコンサート・ビデオを観ながらふと気がついた。終演後、拍手する立ち席の聴衆をご覧いただきたい。立ち席なので安いこともあるが、若者または若い世代が多く目につく28年後の今日、BBCプロムスの同じ立ち席はおじさん・おばさん・おじいさん・おばあさんたちばかりだ。28年前の彼らがそのまま年をとってそこにいるが如くである。つまり、若い世代の聴衆がそこにはない。5年後10年後に現在のコンサート・ゴアーズ(concert goers)がいなくなったら、クラシック音楽の演奏会の多くは成り立っていないのではないかと思われる。ここ2年ほどの観察で、状況はロンドンでもニューヨークでもボストンでもアムステルダムでも同様であった。クラシック音楽の演奏会に若い人が来ていない。これは危機的な状況だと思う。皮肉なことに、キリスト教会と同じ光景である。この危機感がキリスト教界で共有されているのだろうか。。クラシック音楽界の状況は対岸の火事では決してない。
 
 
 

2018年7月20日 (金)

サカリ・オラモ指揮 BBC交響楽団

 
7月18日のBBCプロムス。ロイヤル・アルバート・ホールにて。
 
メインはオリヴィエ・メシアンの『トゥランガリラ交響曲』。
 
3年前のエサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏が良過ぎて比較の対象にならない。皮肉なことに同じフィンランド出身の指揮者同士なのだが。。
 
ピアノ独奏のアンジェラ・ヒューイットさんは6楽章から7楽章にアタッカ(楽章の境目を切れ目なく演奏すること)で入ったが、楽譜にそんな指定あったかな? 解釈としても唐突感を否めない。楽員も慌てて楽譜めくっていたぞ。リハーサルで打ち合わせなかったのだろうか。
 
BBC交響楽団の弦楽セクションはパワーなさ過ぎ。この不満は、9月のベルリン・フィル公演で晴らしてもらわねば。
 
特にコメントなし。以上。
 
 
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『科学的教義学』の刊行はいつ?

 
アリスター・マクグラス先生にお会いしたらぜひ訊いてみたいのが「『科学的教義学』の第1巻はいつ刊行されるのでしょうか?」である。方法論の大著『科学的神学』(全3巻)での予告からかれこれ15年近くが経過しているが兆しもない。日本では方法論のダイジェストである『神の科学』(教文館刊)が出ただけであるから、『科学的教義学』のプロジェクトはもう忘れ去られているかもしれない。
 
過去記事で『科学的神学』について書いたことがあったので参考までに以下に再掲しておく。
 
 
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思うに、キリスト教の長い歴史と伝統の中で、自然神学が退けられたのは20世紀のみだったのではないでしょうか。もちろん、あのカール・バルトの巨大な影響です。私は最近、弁証論の授業準備の中で改めてジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』(渡辺信夫師による「改訳版」)、とりわけ第1篇を注意深く読んでみましたが、少なくともカルヴァン自身は、バルトのように自然神学を理解していなかったとの結論に達しています。

バルトを始め20世紀の神学者たちが自然神学を退けたのは、自然神学を「(啓蒙主義の影響により)人間理性による神存在の証明とそれへの道筋」と見なし、本来の意味を逸脱してしまったからではないかと思うのです。(もちろん、バルトがそのように傾斜した、ナチスの台頭等、彼の置かれた時代状況や時代精神は十分に理解できます。)

残念なことは、キリスト教神学において自然神学の地位が失われると、啓蒙主義が助長した「宗教の私事化」と相俟って、神学自体の「公共性」も失われて行きました。今日、多くのクリスチャンにとって神学とは、教会の中だけで通用する学問と受け止められています。幸か不幸か、ポストモダンの到来により、マイノリティーに対する発言権付与の恩恵で、神学は「教会のための学」と自称することで、かろうじて諸科学のパブリック・スクエア(公共の場)において存在の認知を得ているのが実状かと思われます。

アリスター・マクグラスは、自著『科学的神学("A Scientific Theology")』の中で、「科学的神学は一つの公共の神学(a public theology)である」と述べています。つまりキリスト教神学は、神の創造としての「自然の神学」を発信しなければならないということです。ポストモダンの勃興によって啓蒙主義の「普遍的理性」の地位は終焉を迎え、発言権を与えられた各立場が「自然」の見方について、公共の場で競合するようになりました。キリスト教神学がこの競合に参加できるかどうかが、21世紀のキリスト教を考える上で極めて重要な課題となる。ここにマクグラスの危機意識とキリスト教の展望が込められていると見ることができるでしょう。キリスト教神学をもう一度学問の主流に引き戻すためには、「伝統に媒介された合理性」(アラスデア・マッキンタイアによる洞察)、つまり諸学問との対話を成し遂げる必要があるわけです。

従ってマクグラスにとって自然神学を語るとは、「キリスト教の伝統からの創造の教理の再発見」であり、同時に、自然諸科学による自然の解釈とそれにより成立する作業仮説の「方法論」を援用することで、ちょうど自然科学が観察データを理論化するように(自然科学の諸法則探求の方法論の背後にあるより確かな存在論への確信である「批判的実在論(critical realism)が要請される)、神学は自然(マクグラスは第2巻において自然をも含むより広義の「実在(Reality)」が神学の対象であることを語る)の表象としての理論、つまり「教理」の形成へと向かうことであるのです。教理とは、共同体(教会)の外観を形成する機能(マクグラスは『教理の誕生("The Genesis of Doctrine")』という本の中で、これを 'social demarcation' と呼ぶ)だけではなく、競合する他の共同体とのコミュニケーション手段でもあるのです。それは公共の場で、教会が他の共同体と直面しつつも、なおその独自性を維持して存在し続けることの正当性を担保するためなのです。

『科学的神学』は、第1巻「自然(Nature)」、第2巻「実在(Reality)」、第3巻「理論(Theory)」の全3巻から成る、1000ページにもわたる「神学方法論」の本です。残念ながら現時点では邦訳はありませんが、マクグラス自身が全3巻をダイジェストにまとめた本、"The Science of God" が、『神の科学:科学的神学入門』という邦題で教文館から出版されています。この邦訳の出版意義は大きいのです。

『科学的神学』は神学方法論であり、これから本論の著述へと向かうわけですが、マクグラスはその本論を『科学的教義学("A Scientific Dogmatics")』と仮称しています。本論へ向かう作業過程をまとめた本が2006年に出版されました。"The Order of Things: Explorations in Scientific Theology" という本です。

マクグラスは一歩一歩『科学的教義学』へと向かっています。最近出版された "The Open Secret" や来年のギフォード講義等で自然神学の更なる復権に務め、2010年以降には第1巻が刊行されるのではないでしょうか。オックスフォード大学は自然神学研究の最先端の一つとなりつつあります。

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本書の核心部となる議論の一部を紹介しておきます。本文の中に「伝統Aがその歴史の中において十分に答えることのできなかった問題を伝統Bが答えることができる、と伝統Aは認識できるか」という問題提起があります。監訳者の稲垣久和先生は「訳者あとがきと解説」の中で、伝統A=日本的伝統、伝統B=キリスト教的伝統と仮定し、「日本的伝統がその歴史の中において十分に答えることのできなかった問題をキリスト教的伝統が答えることができる、と日本的伝統は認識できるか」と提起した時、マクグラスの批判的実在論も稲垣先生の創発的解釈学においてもその答えは、『然り』 であります。但し、稲垣先生は後半部の「日本的伝統」には主体としての参与者、即ち日本人キリスト者が実践的に参画した日本社会という意味が含まれている(創発している=emergence)という点が重要であると条件づけています。教会という存在自体が公共の存在なのだから、神学の公共性云々を問うのがそもそもナンセンスという主張もありますが(例えば、佐藤優氏の『神学部とは何か』参照)、《創発(emergence)》 という視点が欠落するとそういうことになるのかもしれません。伝統Bは、異質かつ異教的な伝統Aとの接触により、あたかも触媒(catalyst)に接したかのように、自らの本質を変えずに伝統B’へと創発して行くゆえに、伝統Aの中で公共性を形成して行くということでしょうか。 

『科学的神学』 は方法論の詳述です。 本論である 『科学的教義学』(仮題)の刊行がそろそろ待ち遠しい昨今です。

 

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2018年7月17日 (火)

BBCプロムス 2018(7/21 公演追加)

 
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BBCプロムス(BBC Proms)とは、ロンドンで毎年夏に開催される、8週間におよぶ一連のクラシック音楽コンサート・シリーズのこと。ロンドンのサウス・ケンジントン地区にある「ロイヤル・アルバート・ホール」を中心に100以上のイベントが行われる、世界最大のクラシック音楽祭である。私たちの礼拝場所(Christ Church Kensington)からこのホールまで歩いて10分ほどだ。
 
今年は先週7月13日(金)が初日、千秋楽の「ラスト・ナイト」は9月8日(土)の日程で行われる。画像はチケットと日程表。5公演以上を予約すると、千秋楽の「ラスト・ナイト」のチケットを申し込む抽選資格を得られる。会場のロイヤル・アルバート・ホールは6千人を収容する大ホールであるにもかかわらず、申し込みが殺到するため「ラスト・ナイト」のチケットは入手困難である。
 
ぜひ「ラスト・ナイト」の抽選資格を得たかったので、奮発して6公演を予約した(5公演に加え1公演を追加)。以下が私が聴きに行くコンサート。
 
サカリ・オラモ指揮 BBC交響楽団
  曲目
  ・G. ガーシュイン 『パリのアメリカ人』
  ・O. メシアン 『トゥランガリラ交響曲』
 
イヴァン・フィッシャー指揮 ブダペスト祝祭管弦楽団
  曲目
  ・F. リスト 『ハンガリー狂詩曲第1番 嬰ハ短調』
  ・J. ブラームス 『ハンガリー舞曲第1番 ト短調』
  ・F. リスト 『ハンガリー狂詩曲第3番 変ロ長調』
  ・P. サラサーテ 『チゴイネルワイゼン』
  ・J. ブラームス 『ハンガリー舞曲第11番 ニ短調』
  ・J. ブラームス 『交響曲第1番 ハ短調』
 
ヤニック・ネゼ=セガン指揮 ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団
  曲目
  ・F. リスト 『ピアノ協奏曲第2番 イ長調』 独奏者:イェフィム・ブロフマン
  ・A. ブルックナー 『交響曲第4番 変ホ長調 <ロマンティック>』
 
キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  曲目
  ・P. デュカス 『「ペリ」へのファンファーレ』
  ・S. プロコフィエフ 『ピアノ協奏曲第3番 ハ長調』 独奏者:ユジャ・ワン
  ・F. シュミット 『交響曲第4番 ハ長調』
 
キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  曲目
  ・R. シュトラウス 交響詩『ドン・ファン』
  ・R. シュトラウス 交響詩『死と変容』
  ・L. ベートーヴェン 『交響曲第7番 イ長調』
 
アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団
  曲目
  ・L. バーンスタイン 『セレナード』  独奏者:バイバ・スクリデ(Vn)
  ・D. ショスタコーヴィチ 『交響曲第4番 ハ短調』
 
 
「ラスト・ナイト」のチケットについてはダメもとで抽選に応募したのだが、なんと、なんと、抽選に当たってしまった!!  それもペアで!  妻と一緒に行ける! 
 
以前から、私はBBCプロムスの「ラスト・ナイト」で、イギリスの第二の国歌とも呼ばれる『エルサレム』を会場の人たちと歌ってみたかったのだ。この曲は、18世紀のイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの預言詩「ミルトン」の序詩に、チャールズ・パリーが1916年に曲をつけたオルガン伴奏による合唱曲である。映画『炎のランナー』を観た人は、映画冒頭の葬儀のシーンで流れていた曲として思い出していただけるであろう。歌詞はやや異教的(異端的?)な趣きがないわけではないが(受肉前のキリストがイングランドに来たのか?)、とにかくイギリス特にイングランドでは愛唱されている合唱曲である。
 
以下の動画は、2012年「ラスト・ナイト」でのエルサレムの大合唱である。英語の他、日本語訳が付されている。BBCプロムス「ラスト・ナイト」の会場の雰囲気を味わってもらえればと思う。
 

いつか北海道で暮らしたい

 
用事は済んだ。ほぼ予想どおり。
金沢の詩人・室生犀星(むろう さいせい)の如く「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても 帰るところにあるまじや」と詠うことにしよう。東海地方は愛する故郷であるが、私の中では(犀星の詠う)「ふるさと」になりつつある。
 
もう1つ別の調査のために北海道に行った。55年の人生でたった二度目の訪問だった。人生の再出発によい土地かもしれない。でも、神様はこういう願いは叶えてくれないだろうなあ。
 
まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」    (ヨハネの福音書 21章18節 「聖書 新改訳 2017」)
 
 
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2018年7月12日 (木)

マクグラス先生激賞の本

 
アリスター・マクグラス先生が選んだ3冊のうちの1冊(動画の3分46秒付近から)。リリン・ロビンソン著の『ギレアド』(新教出版社 ¥ 3, 240)。 ピュリツァー賞受賞の作品。
 
2005年ピューリツァー賞・全米批評家賞受賞小説。アイオワ州のギレアドという片田舎の町。 カルヴァンとバルトを愛読する老牧師が自らの死期を意識し、若い妻との間にもうけた幼い息子に手紙を綴る。南北戦争から冷戦期にいたる三代にわたる牧師一家の信仰の継承と屈折。帰郷した知己の青年と妻との関係。自らの揺れる心。隣人たちの人生――。 「私はこの本の虜になった」 バラク・オバマ。
 
 
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2018年6月23日 (土)

1983年のウィクリフ・ホール

 
この年は興味深いことが起こっている。
 
デイヴィッド・ウェナム先生アリスター・マクグラス先生がこの年からウィクリフ・ホールの教師(tutor)となった。画像はカレッジ・フォト。最前列の右から4人目がウェナム先生。同じく最前列の左から4人目がマクグラス先生である。お二人とも若い!(笑)
 
同じ年、「アルファ・コース」で知られるニッキー・ガンベル師が法廷弁護士(barrister)のキャリアを投げ打って献身。ウィクリフ・ホールの神学生となった。画像のどこに写っているか探してみてください。
 
余談だが、オリヴァー・オドノヴァンは1972ー1977年の5年間、ウィクリフ・ホールの教師であった。ついでに蛇足ながら、オドノヴァンを通らずしてジョン・H. ヨーダースタンリー・ハワーワス、またリチャード・ヘイズに走るのは危ない。
 
 
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2018年6月12日 (火)

ブラックウェル書店にて

 
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きょうはレディング(Reading)というロンドンの西方にある町での家庭集会の後、久し振りに古巣のオックスフォードに足を伸ばした。今月は大学の最終試験の時季。サブ・ファスクと呼ばれる正装で試験に臨む学生たちを街中で見かける。21年前の自分を思い出した。ケンブリッジ大学は試験での服装規定を取りやめたと聞くが、オックスフォードは頑固に守り続けている。この町に来るたび「時計を500年くらい巻き戻さないと」と思う。
 
 
 
 
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毎月ではないが、本日のようにレディングでの家庭集会のついでにオックスフォードに来ることはある。主な目的は「ブラックウェル書店」詣である。書店内のノリントンルームにある神学書コーナーは20年前と全く変わっていない。新刊の神学書が目当てというよりは、キリスト教の各伝統(正教会、カトリック、プロテスタント)の神学書がバランスよく取りそろえられていて、購入はしないがそれらを立ち読みするにはうってつけの本屋なのである。また、日本ではほとんど未開拓の分野の研究書なども英語圏では手にすることができる。
 
画像右のような "聖書の自然史" の学際的分野は個人的にも関心をそそられる。翻訳聖書にある動植物(昆虫なども含む)の訳語は、実はとてもアバウトなのだ。例えば日本人にとって「蝉(せみ)」という昆虫は、それが「ミンミンゼミ」なのか、「ヒグラシ」なのか、はたまた「ツクツクボウシ」なのかで、同じ「夏」の風物詩でも状況が違ってくる。ミンミンゼミは盛夏の昼間だし、ヒグラシは朝夕の涼しいときであり、ツクツクボウシは晩夏の蝉である。しかし欧米人には単に「セミ(英語では cicada)」でしかない。文化の違いである。一方パレスチナの風土では、私たち日本人が単に「牛」とか「羊」で訳し済ませている動物に実は細かい識別があったりする。植物も同様である。
 
 
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きょうは書店に2時間ほど滞在したが、2時間の立ち読みで10頁ほどしか読み進められなかった本がこれ。キリスト教倫理学の巨人、オリヴァー・オドノヴァン(Oliver O'Donovan)の3部作である。私が神学生の頃、オドノヴァンはオックスフォード大学神学部の「倫理学及び牧会神学・欽定講座担当教授(Regius Professor of Moral and Pastoral Theology )」だった。オックスフォード退官後はエディンバラ大学の教授を務めた。現在は名誉教授(professor emeritus)だと思う。
 
ところでオックスブリッジ(オックスフォード&ケンブリッジ)に残る「欽定講座担当教授」という教授職は往年の名残である。ラテン語のレギウス(regius、英語の発音は「リージャス」)は「王様の」を意味する。その名のとおり、かつては国王にご進講した教授の肩書きであった。その由来からするならば名誉ある職務であったのだろう。そう、かつて「神学」は王様に進講する学問だったのだ。国王(女王)はイギリス国教会の長でもあるから、神学の素養は不可欠だったに違いない。現在の欽定講座担当教授にその任務があるのかどうかは知らない。
 
話を戻す。"Ethics as Theology" と題されたオドノヴァンの3部作は彼のキリスト教倫理学者としての集大成なのだろう。第1巻が2013年、第2巻が2014年、そして最終巻が昨年2017年にそれぞれ刊行された。驚くのは、集大成でありながら、各巻は300頁にも満たないボリュームなのだ(第3巻だけは少し厚い)。本日は第3巻を立ち読みしたのだが、2時間かけても10頁と進めなかった。そう、オドノヴァンの本は恐るべき著作なのだ。短い文章の中に膨大な読書と思索が凝縮されている。だから、2時間かけても10頁も読み進められなかった。単に難解ということではなく、思索の深遠さに畏怖するのだ。そういえば、今をときめく神学者ケヴィン・ヴァンフーザー(Kevin Vanhoozer)が以前、オドノヴァンの生命倫理学の小著 "Begotten or Made ?" を激賞していた。小著に見合わぬ内容の濃さゆえであろう。 
 

2018年6月 7日 (木)

アムステルダムでのマーラー9番

 
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オランダの首都アムステルダムへ。ロンドンからたった1時間の飛行。今年4月から、あのユーロスター(イギリスと大陸を結ぶ超特急列車)もアムステルダムまで延伸された。(但し当分の間はロンドン→アムステルダムの片道のみ。アムステルダム→ロンドンは、いったん特急タリスでまずベルギーのブリュッセル南駅へ行き、そこでイギリスの入国審査を受けてからユーロスターに乗車する。アムステルダムにイギリスの入国審査場が開設される時期は未定。) 今回は空路を選んだ。
 
アムステルダムのスキポール国際空港はチェックイン・カウンターから搭乗口までとんでもない距離を歩かされる空港である。ガイドブックには世界のベスト空港にたびたび選ばれるほどの便利な空港とあるが、にわかに信じ難い。英ヒースロー空港の第5ターミナル(ブリティッシュ・エアウェイズ専用ターミナル)も大きいが、「トランジット」と呼ばれる電車がA・B・Cの各搭乗ゲート群を結んでいる。スキポール空港にはそのような設備も無ければ、「動く歩道」も少ない。結果、途方もない距離の歩行を余儀なくされる。足が棒になった。
 
画像左は空港内のブリティッシュ・エアウェイズのラウンジ。改装されたらしくきれいになった。帰路はここでひと息入れて搭乗口に向かった。(飛行機の出発時刻が遅延となったので、結果的に2時間以上もここで待機することになったが。)
 
空港のキオスクで Amsterdam Travel Ticket という公共交通機関乗り放題のパスを購入。直通列車で「アムステルダム中央駅」(画像右)へ。ここからトラム(路面電車)の5番に乗って目的地の「コンセルトヘボウ(オランダ語で「コンサートホール」の意)」に向かう。
 
 
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トラムは「ミュージアム広場(Museumplein)」という駅で下車する。この広場の周りに「国立ミュージアム(Rijksmuseum)」や「ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)」、そしてコンセルトヘボウがある。観光に便利な場所だ。国立ミュージアムはレンブラントの『夜警』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』、フランス・ハルスの『笑う男(陽気な酒飲み)』などの名画や多種の絵画を鑑賞できる美術館であり、同時に、古今の骨董品・工芸品・ジュエリー・楽器・家具などを展示する博物館でもある。
 
ゴッホ美術館はその名のとおり、オランダの巨匠ファン・ゴッホの作品をはじめ、同時代を生きたゴーギャンやロートレックら、ゴッホの作風に影響を与えた画家の作画や素描等も展示されている。また、ゴッホによって収集された相当数の浮世絵も鑑賞することができる。いずれにしても、今回は演奏会が主な目的であったが、いつか日を改めてこれらミュージアムや美術館の鑑賞に訪れたいものだ。
 
 
 
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コンセルトヘボウは、名門「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団」の本拠地である。音響に優れたホールとして知られ、古典的な建築によるシューボックス型コンサートホールとしては、ウィーンのムジークフェライン・ザール(楽友協会ホール)や米ボストン・シンフォニー・ホールと並んで、世界三大ベストホールの一つと称される。私の印象では、特に木管楽器が大変美しく響くホールである。1888年にオープンし、客席数は2037席とのこと。
 
音楽学者の中村孝義氏(大阪音楽大学教授)はこのホールについて次のように解説している。
 
ところでよいオーケストラが生まれるためには、そのオーケストラが本拠とするよいホールに恵まれることが必須の条件とされる。演奏していて気持ちよい美しい響き、個々の楽器の音の粒立がよく、しかもそれらがブレンドしたとき、絶妙の芳醇な響きになるようなホールで演奏していると、個々の奏者は自然と他の音もよく聴くようになり、自らの音色も磨かれるし、互いに調和するような美しい響きを生み出す能力を備えていくことになるからだ。そして実はこの希有のオーケストラが本拠するホールこそが、おそらく世界で1,2を争う素晴らしい響きを持つアムステルダムのコンセルトヘボウなのだ。 (『モーストリー・クラシック』誌 vol. 226、2016年3月号 p. 68)
 
余談だが、よいオーケストラがよいホールによって育てられるなら、よい説教者はよい会衆によって育てられると言えないだろうか。教会では、よい会衆こそが「よいホール」である。よい会衆に恵まれた説教者は幸福だ。 
 
(続く)
 
 

2018年5月27日 (日)

EXILE(エグザイル)

 
といっても、ダンス&ボーカルグループのことではない。
 
最近の読書から。
 
来月下旬に N. T. ライトの講演会に行く予定だったが、都合がつかなくなってしまった。残念。
 
 
 
Exile

2018年5月24日 (木)

ダニエレ・ガッティ指揮 フィルハーモニア管弦楽団

 
オランダの名門、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(旧称 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)の首席指揮者であるダニエレ・ガッティがフィルハーモニア管弦楽団に客演した。
 
曲目は、
 
メンデルスゾーン 『交響曲第4番イ長調 「イタリア」
 
ブラームス 『交響曲第2番ニ長調
 
ブラームスの2番の実演は今年で3回目だ。2月にニューヨークで R. ムーティ指揮のシカゴ交響楽団、今月上旬にB. ハイティンク指揮のボストン交響楽団、そして今回のガッティである。 
 
もう眠たいので感想を簡潔に記す。
 
私は滅多に「ブラボー!」を叫ばない。むしろ(日本の演奏会でよく見かける)「ブラボー屋」を嫌悪している。しかし今晩、ブラームスの2番の最終楽章が終わった瞬間、私は「ブラボォォォーーー!!!」を叫んでいた。
 

ムーティの演奏もハイティンクの演奏も、当ブログではコメントしなかった。なぜか? 演奏評に値しない出来だったからである(理由は言わない)。しかしガッティは、私の大好きなブラームスの2番にいのちの息吹を吹き込んでくれた。同じ曲が解釈の違いでこうも鮮やかに変貌する。まさにクラシック音楽の醍醐味であった。ガッティは、さすが世界屈指の名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のシェフに選ばれるだけある。客演のフィルハーモニア管弦楽団からも見事な音楽を引き出した。

 
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2018年5月22日 (火)

信仰のための戦い Contending for the Faith

 

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ロイヤルウェディングが終わった。米国聖公会マイケル・カリー総主教の説教が話題になっているようだ(説教の全文翻訳は「クーリエ・ジャポン」誌のウェブサイトを参照→https://courrier.jp/news/archives/122309/)。伝統と格式を重んじる英王室の結婚式としてはスタイル及び内容とも型破りな説教であった。テレビ中継は、説教中当惑したり薄笑いを浮かべるロイヤルファミリーや招待客の様子を映し出していた。とはいえ、英国民はじめ世界中の人々からはおおむね好意的な評価であったと思う。総主教の名字のとおり(カレーライスのカレーと同じ綴り)、スパイスの効いた説教であった。
 
しかし、説教中に一番当惑していたというか、ハラハラしながら聞いていた人物は、結婚式を司式したジャスティン・ウェルビー・カンタベリー大主教だったのではないか。私の聞き違いでなければ、ウェルビー大主教は式辞の中で「結婚は男女間による」のフレーズを2回は繰り返していた。私には、「アングリカンの結婚(式)は異性間によるもの」を確認し強調するニュアンスが込められていたように思えた。他方、カリー総主教の説教は「愛は、LGBTQ にも至る道(love is the way)だ」と言わんばかりであった。(「クーリエ・ジャポン」誌の翻訳は "love is the way" を「唯一の道」と意訳しているが、私は違和感を覚える。) なぜそう感じたかといえば、カリー総主教の説教で「真理」についてほとんど全く言及が無かったからだ。真理抜きの愛は容易に世俗思想に堕する。カリー総主教が連呼した "イマジン imagine" という動詞は、ジョン・レノンの同名の曲と歌詞を想起させる。
 
2016年1月、アングリカン・コミュニオンは米国聖公会に対し、同性婚支持の姿勢を理由に、3年間の期間限定ながら会員資格停止(サンクション)を決議した。(同じ理由で昨年、スコットランド聖公会が会員資格一時停止処分となった。) カリー総主教の説教は、このような経緯と背景を考慮して聴かれる必要がある。2020年に開催される(本来は2018年が開催年)アングリカン・コミュニオンの世界会議である「ランベス会議」で米国聖公会のサンクションが再審議される予定だ。一方、アングリカン・コミュニオン内の保守派(または福音派)は来月、エルサレムで世界会議(GAFCON, Global Anglican Future Conference)を開催する。同性婚問題での結束を図るであろう。
 
私見だが、ジャスティン・ウェルビー大主教は、同性婚容認の影響と圧力の中で「結婚をめぐるアングリカン教会の伝統的立場」擁護のため "信仰のための戦い"(ユダ書3節)を勇敢に、しかし忍耐と寛容をもって戦っている。そしてアングリカン・コミュニオン内の和解と一致を懸命に模索している。下の動画は、英上院(貴族院)において国教会の立場を弁明する大主教である(特に3分32秒付近から)。私はウェルビー大主教のために祈りたい。
 
 
 

PS. 5月25日(金)記

ロイヤル・ウェディングでの M. カリー師の説教について、本日更新された川口マーン惠美さんのブログ(イギリスの「ロイヤル・ウェディング」 ドイツ人たちはこう見た)でもコメントされていた。少し引用させていただく。(下線( )はのらくら者による)

ただ、次に登壇したアメリカ人牧師、カリー氏の説教は、何とも場違いだった。熱狂的に、手振り身振りも大仰に語るものの、その中身があまりにも単純すぎた。
テーマは「愛」で、ほとんど各フレーズごとに「love」という単語が出てくるが、哲学とも格言ともまったく無縁。しかも、それが、微妙に政治的なのだ。
 
愛があれば、世の中は変わる
 
愛があれば、お腹を空かせてベッドに行く子供はいなくなる
 
カリー牧師は、キング牧師の存在を多分に意識していたが、しかし、それとこれとは話が違う。当時、キング氏が相手にしたのは、貧しい黒人労働者だった。そのレトリックが、知識人の最高峰ともいえるイギリス王族相手に通るわけがない。皆が半ば呆れたような顔で、ほとんど眉も動かさずに聞いていた。
 
日本では、世の中もクリスチャンたちもカリー師の説教を絶賛だった。しかしさすが川口マーンさんはドイツでの生活が長い方、ヨーロッパというものを肌感覚で理解しておられる。ヨーロッパ人(この場合イギリスも含む) にはあの説教がどう映ったかを的確に指摘された。要するに「思想的深みも無いのに妙に政治的なのだ。ヨーロッパの知識人層が最も嫌うスタイルである。また、なぜ王室に不評だったか日本人(&クリスチャンたち)もあれこれ論じているようだが、皆、的外れだ(カリー師の英語のアクセント(アメリカ英語)云々ではない )。川口マーン氏が言うように「イギリスでは王室&貴族こそ、知識人の最高峰」だからである。もしカリー師が「愛というビロードに包まれた鋼鉄の真理」を語っていたら、王室関係者も耳を傾けたのではないかと悔やまれる。
 
 
 

2018年5月17日 (木)

再掲 「イノベーションとしての信仰義認」

 
先日紹介した、池田信夫著 『資本主義の正体 マルクスで読み解くグローバル経済の歴史』(PHP研究所刊)の第4章「神の秩序と法の支配」に興味を引く洞察がある。著者の「教祖イエス・開祖パウロ」観には賛同しかねるが、ここでは百歩譲ってパウロ主義という観点から信仰義認論を眺めてみると、非キリスト者にはこれが「イノベーション」と映ることだ。以下に引用する(pp. 130-131)。例によって、下線(_)や太字はのらくら者による。
 

古代ローマから大英帝国に至るまで、植民地をすべて直接支配した帝国は少ない。統治にはコストがかかり、あまり強権的な統治を行なうと反乱が起こるので、名目的には属領の自治を認め、税を納めればその内政には干渉しないのが普通だった。この場合、各地の伝統宗教を認めると、文化的にバラバラになってしまい、帝国の求心力が失われる。かといって国家権力に依存する「御用宗教」では、植民地の住民は信じないだろう。

キリスト教を生んだのは祖国をもたないユダヤ人であり、それを信じて広めたのは民衆だった。キリスト教は、TCP/IP(インターネットの接続手順)のように無色透明な「デファクト・スタンダード」として世界に普及したのだ。誰でも自由に参加できるが、共同体の中では鉄の団結を誇るキリスト教会は、信徒が地縁でも血縁でもなく信仰のみによって結びつくというパウロ主義の生み出したイノベーションだった。
 
同じようなマーケティングは現代でも使われている。創価学会から日本共産党に至るまで、主な信者は地縁共同体から離れて大企業のような組織にも所属しない自営業者や未組織労働者などのノマド(非定住民)であり、彼らの入信の動機は孤独や不幸である。彼らを救済するのは「ただ信仰のみ」の普遍的な宗教を通じて互いに助け合う意志である。
 
イノベーションとは、シュンペーターも指摘するように科学的発見(「科学革命」)に似ている。但しここで言う科学的発見とは、パラダイムが確立された「通常科学」の中での素朴な実証主義(実験データから帰納して理論ができ、それを演繹して実験で検証するというサイクル)のことではない。むしろ例えば天文学での「天動説」と「地動説」という異なったパラダイム(枠組み・フレーム・仮説)が競合するようなケースである。その場合、どの仮説が正しいかを論理的に決める方法は原理的にはないので(ある観測や実験がパラダイムを反証するかどうかも、そのパラダイムに依存する←カール・ポパー)、どのパラダイムが多くの人に共有されるかで「科学革命」は決まる。このように互いに翻訳不可能なパラダイムが競合する現象は共約(通約)不可能性(incommensurability)と呼ばれる(→ポール・ファイヤアーベント『方法への挑戦:科学的創造と知のアナーキズム』)。そこで勝敗決めるのは客観的真理に近いかどうかではなく、いかに多くの人々と言葉を共有するかという「デファクト・スタンダード(de facto standard)」、つまり市場における競争や広く採用された「結果として事実上標準化した基準」である。インターネットの通信規格である TCP/IP やキーボード配列の QWERTY、古くは家庭用ビデオ規格のVHSなどはデファクト・スタンダードである。これらは、国際規格(ISO や JIS など)によって決められた規格ではなく、プラットフォーム競争において顧客とフレームを共有する言語ゲームで競争優位に立った結果、標準化した基準であるからだ。
 
翻って、キリスト教神学では使い古された感のある伝統的(NPP に対して)「信仰義認」が、ローマ帝国の異教社会においてはデファクト・スタンダードとしての「イノベーション」であったとの観察は非常に興味深い。同様に「宗教改革はパウロ主義に回帰した」のであれば、16世紀ヨーロッパのデファクト・スタンダードとして、「信仰義認」が世俗化したカトリック信仰からの「脱埋め込み化(disembed)」に作用し、世俗的な欲望を超えた精神的価値を拠り所にするイノベーションとなった可能性がある。こうしてみると、NPP(New Perspective on Paul)がデファクト・スタンダードに対する「デジュリ・スタンダード(de jure standard)」(国際標準化機関等により定められた標準←ユダヤ教との連続性の中で筋のとおった客観的真理)に見えてくるから不思議だ。NPP に押されっぱなしの感のある伝統的信仰義認論だが、ローマ帝国や16世紀ヨーロッパにおける宗教的イノベーションという観点からその立場を弁証できるのでは思った次第。NPP や N. T. ライトの神学が21世紀の教会にとってイノベーションとなるかは現時点で未知数である。
 
Innovation

2018年5月11日 (金)

ブロック・ロジックとトーンクラスター

 
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一見、何の関係も無いような『私たちの父アブラハム』(マービン・R・ウィルソン著)と『ピアノ曲 X(Klavierstück X)』(カールハインツ・シュトックハウゼン作曲)。実際、何の関係もない(笑)
 

とはいえ、前者の220頁〜で論じられている「ブロック・ロジック」と、後者の楽譜で指定された演奏法「トーンクラスター」との間には共鳴する思想があるように思う。つまり、どちらも「一見、不協和・不合理」である。ブロック・ロジックについてはぜひ、本書を手に取って読んでいただければと思う。(私は、教会員のH兄からこの邦訳書をお借りして読ませていただいている。)
 
シュトックハウゼンの『ピアノ曲 X』(Xは "第10番"の意)は、読譜(譜読み)・演奏とも最高難度を要求する20世紀の前衛音楽。トーンクラスターとは、五線譜の上の音と下の音を垂直の太線で結ぶ記譜をされ、その間の音をすべて同時に弾くよう指定している。音域が半端でないないため、10本の指だけで弾くことはできない。ではどう弾くか? 肘(ひじ)を使って「キャーン」「ドーン」と鍵盤を叩くのだ。慣れ親しんだ伝統音楽の既成概念(指を使って和音を奏でるものという常識)をぶっ壊している。
 
ブロック・ロジックもトーンクラスターも、「群(集合体)」という思想で共通している。前者は論理の集合体であり、後者は音の集合体(音群)だ。そして「一見、不協和・不合理」である。ウィルソンによれば、ヘブライ的思考とは「ブロック・ロジック」であり、そして聖書はブロック・ロジックに満ちている。
ウィルソンは、
 
「ヘブライ的思考は、矛盾を進んで受け入れようとしていましたし、神秘や明らかな矛盾が、しばしば神のしるしであることを知っていました。簡潔に言うと、ヘブル人は完全に理解することのできない場合にも信頼を寄せることを学ぶ、という知恵を持っていたのです。」(『私たちの父アブラハム』 p. 223)
 
と語る。こうしてみると、北アメリカの神学界で議論されている「オープン神論(開放神論、Open Theism)」は、ブロック・ロジックとは相容れない神学思想ではないかと思われる。ぶっちゃけて言うなら、非聖書的ということだ。
 
他方、松平 敬氏による『ピアノ曲 X』の分析にあるように、この曲は「全体を俯瞰すると、クラスターの割合がだんだん減少していくように計画されている。クラスター=ノイズ、和音=楽音、と見れば、ノイズから楽音の移行、というプロセスが計画されている、といえる」。つまりトーンクラスターの役割は一時的なものである。同様に、ブロック・ロジック(=ヘブライ的思考)も、それ自体が神の摂理を俯瞰する究極の視座ということではなく、終末の完成において「完全に知ることになります。」(I コリント13章12節)という秩序と調和へと導かれるまでの、不完全な罪の世界における過渡的な視座ということだ。(だから私は、"ヘブライ的思考"そのものを金科玉条とはしない。) この点については以前の投稿『天路歴程としての<ノクターナル Op.70>』を参照にしてほしい。
 
 
ピアノ曲 X』を大真面目に弾く現代最高峰のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ。トーンクラスター(肘による打鍵)をご覧あれ。
 

2018年5月 3日 (木)

ボストン再訪

 
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高齢の義母の今後をどうするか。妻の実家(米バージニア州)の家族会議に同道してアメリカに行ってきた。少し遅いイースター休暇でもあった。国際線はロンドンーボストン間。往路は妻と一緒だったが、滞在中は別行動。最後の数日は再びボストンで合流して一緒にロンドンに戻った。
 
ボストンを最初に訪れたのは今から40年近く前の留学時代。テネシー州からグレイハウンドバスに乗って38時間かけて着いた。以来、アメリカ嫌い(?)の私としては珍しくお気に入りの街になっている。最後に訪ねたのが3年前だった。日本からだとボストンへの直行便は日本航空(JAL)だけだが(それも13〜14時間かかる)、ロンドンからだと6〜7時間ほどであり、便数も多い。また、ニューヨークの J.F. ケネディー国際空港はマンハッタンまで遠いが、ボストンのローガン国際空港は市内中心部まで地下鉄で20分ほどだ。空港内の国内線乗り継ぎも便利である。アメリカの東海岸はボストンを拠点にするようにしている。妻も、乗り継ぎ便でワシントン D. C.(ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港) に向かった。実家はペンタゴン(国防総省)の近所にある。
 
滞在中はハーバード大学神学大学院(Harvard Divinity School)を再訪したり、ボストン交響楽団の演奏会に足を運んだ。ベルナルト・ハイティンク 指揮、ピアニストはエマニュエル・アックス 。プログラムはオール・ブラームス(ピアノ協奏曲第2番変ロ長調&交響曲第2番ニ長調)。31回目の結婚記念日(5/5)の前倒しで、ボストン名物のシーフードも堪能させていただいた。以下、画像参照。
 
 
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2018年4月19日 (木)

サイモン・ラトルのマーラー9番

 
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暑い、暑い、暑い。きょうのロンドンの最高気温は29℃に達した。BBCの報道によれば、4月でこれほど暑いのは1949年以来らしい(英国での4月の平均最高気温は11.9℃)。天気予報によると、次聖日(4/22)に開催される「ロンドン・マラソン」にも影響しないか心配される。それにしてもつい1ヶ月ほど前に「東からの獣(The Beast from the East)」とあだ名された大寒波に襲われた地とはとても思えない。
 
この暑さの中、きょうからロンドンで「イギリス連邦首脳会議(英連邦サミット、The Commonwealth Summit 2018)」が2日間の日程で始まった。前回の投稿で書いたように、53カ国の首脳が一同に会して重要な議題について協議する他、関連する行事も併せて開催される。もっとも南アフリカ・マフィケングで発生した暴動に対応するため、ラマポーザ大統領は会議を切り上げて緊急帰国した模様。連邦のトップである92歳のエリザベス女王はあいさつの中で「(チャールズ)皇太子がこの役目を務めることが私の願いです」と述べ、69歳のチャールズ皇太子が次の連邦トップになることを要請した。女王様には失礼ながら、英王室は「老老介護」状態だ。実際、国民の多くはチャールズ皇太子をスキップして(理由が年齢だけでないのは察していただけると思う)、息子のウィリアム王子が次の国王になることを望んでいる。
 
 
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この日はサイモン・ラトル指揮のロンドン交響楽団の定期演奏会でもあった。メインはマーラーの交響曲第9番。私の座席はF列で、普段であれば前から6列目の観るによく聴くによい席であるが、うっかりしていた。第9番は大編成のオーケストラを要求するため、舞台の拡張(stage extension)が行われることをすっかり忘れていた。バービカン・ホールでの場合、結局A列〜D列の前4列の座席が取り払われ、5列目のE列が最前列席となってしまうのだ。つまり、F列の私は舞台から2列目の席。指揮者を観るにはよいが、オケ全体を見渡したり音響のバランスの点では残念な座席となってしまった。
 
とはいえ、座席から数メートル先で指揮するラトル氏をよく観察できた。また、オケの配置が指揮者を挟んで第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが向かい合う「両翼配置」で、私の席は舞台に向かってやや右より、即ち第二ヴァイオリン群の前であった。従って、9番の第1楽章冒頭、第二ヴァイオリンが奏でるため息のような美しい第一主題、また第2楽章のやはり冒頭、管楽器に続く第二ヴァイオリンの力強いメロディー等々を堪能することができた。
 
同時にこの席は左斜め上、指揮者の向こうに第一ヴァイオリンのコンマス(コンサートマスター)をよく観察できる席でもあった。コンマスのローマン・シモヴィッチさん、この日は楽器の調子が良くなかったのか(弦を巻き替えたばかりだったのか)、音程を気にして曲中の休符や楽章間の休憩で何度も調弦の微調整を行っていた。コンマスの不調はすぐにオケ・メンバーに伝わる。そのためか第一ヴァイオリン群の音量とアンサンブルがイマイチだった。逆に第二ヴァイオリン群はよく踏ん張っていたと思う。今宵の9番は第二ヴァイオリン群の奮闘に救われたと言ってもよい。
 
 
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コンマスのシモヴィッチさん、音程の不安定だけでなく、音楽監督(指揮者)のサイモン・ラトルさんとの関係はうまく行っているのかな?と少し心配になる様子でもあった(と私には映った)。前の首席指揮者だったゲルギエフさんに可愛がってもらった人だからね。新しい親分に素直に従っているのだろうか。その辺が少し心配になる今晩のコンマスぶりであった。ラトルの棒に応えて第4楽章では弦楽群はマーラーの死生観を豊かにたっぷり表現していたが、アンサンブルの微妙なズレに興を削がれる場面があったのも正直なところだ。ベルリン・フィルのコンマスの樫本さんにしてもロンドン響のシモヴィッチさんにしても、最近の若手のコンマスはどうも身振りが大きく前のめりになる傾向がある。第4楽章の大事なところで指揮者は(テンポを)溜めているのに、第一ヴァイオリンが前のめってアンサンブルに傷が入る。目の前の第二ヴァイオリンがとても落ち着いていたので尚更気になった。
 
全体として、ラトルさんの解釈に異論はない。第3楽章だけ、バーンスタインの快速テンポに慣れていたので、ラトルのテンポ設定には少々違和感が残った。でもこれは飽くまで個人的感想である。それより、つい先週のマーラー1番で、サロネンとフィルハーモニア管の相互信頼に満ちた指揮者とオケの関係に触れたこともあり、ロンドン交響楽団の今後の課題を垣間見た思いであった。ラトルとロンドン響のコンビは今年9月に来日する。機会があればぜひ演奏会に足を運ばれて、ご自分の目と耳で確認していただければと思う。願わくばのらくら者の憂慮は杞憂だった、と。
 

2018年4月15日 (日)

天国の光景

 
日本ではほとんど報道されていないと思うが、オーストラリアのゴールドコーストで開催されている「2018年コモンウェルスゲームズ(XXI Commonwealth Games)」が本日閉会する。
 
コモンウェルスとは英語の Commonwealth of Nations のことで、日本では通常「イギリス連邦」または「英連邦」と訳されている。旧名が British Commonwealth だったからだ。コモンウェルスゲームズとは、イギリス連邦に属する国や地域が参加して4年ごとに開催される総合競技大会のことである。オリンピック競技の他に、英連邦で盛んないくつかの競技(7人制ラグビーやローンズボールなど)も行われる。イギリス連邦加盟国53カ国の他に、いくつかの旧加盟国等が加わって全体で(2018年の場合)70カ国・地域が参加した。尚、本国のイギリスはイングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドが別々にエントリーするので、実際には4カ国となる。
 
ここイギリスでは競技が毎日中継されているが、日本では皆無であろう。逆に例えば、大谷選手のMLBでの活躍など、こちらでのニュースは皆無である。日本ではイギリス発祥のサッカーも、アメリカ発祥の野球も、どちらもプロチームがあるほど盛んだ。幸せな国である。
 
話を戻す。日本では、イギリスと言えば「第二次大戦後の斜陽国」、「欧州連合(EU)の一加盟国」などが一般認識かと思うが、実際には現在も国際社会に隠然たる影響力を持つ国である。イギリス本国(=連合王国、United Kingdom)は、英連邦53カ国(人口は約24億人)の盟主であり、内16カ国はエリザベス女王を国家元首に頂く「英連邦王国(Commonwealth realm)」なのだ。ロンドンとは従って、連合王国6千5百万人の首都のみならず、英連邦53カ国24億人の首都でもある。ロンドン市内では英語はもちろんのこと、実に300の言語が話されているという。
 
私が思うに、天国の光景とは黙示録7章9節「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、・・・」)、日本の日常の光景よりは、ロンドンのそれの方がイメージとしてずっと近いと思う
 
 
尚、画像にはイギリス連邦加盟国54カ国とあるが、2016年にモルディブが脱退しているので、現在は53カ国である。
 
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2018年4月13日 (金)

エサ=ペッカ・サロネンのマーラー1番「巨人」

 
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お笑い芸人・山本高広が俳優・織田裕二のものまねをして「地球に生まれてよかったー!」と叫ぶのがある。エサ=ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団演奏会に足を運ぶ都度、私も「サロネンがーキタァァァ 地球に生まれてよかったー!」と叫びたくなる。今晩も期待に違わぬ素晴らしい演奏会であった。何より、6月に還暦を迎えるサロネンの渾身の指揮ぶりには毎度感動させられる。そして大事なことは、それが空振りに終わるのではなく、オーケストラが全身全霊で応えていることだ。サロネンは作曲家としても一家を成している。作曲家としての透徹した洞察力で作品を把握した自信が指揮ぶりとなって表れるのだろう。指揮者とオケの互いの尊敬と信頼が、演奏を通じて聴覚だけでなく、視覚を通じてもびんびん伝わってくる。そして曲を介して演奏者と聴衆の間に何とも言えぬ「ラポール(rapport)」が生まれるのだ。
 
曲目は、
 
ベートーヴェン作曲 『ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調』  独奏者 David Fray
 
マーラー作曲 『交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 』
 
 
マーラーの1番は、大変ユニークな解釈であった。私の印象を一言で表現するなら「あたかもオルフの『カルミナ・ブラーナ』を聴くような、世俗カンタータの如き」であった。演奏のあちこちで、高尚の中にそれを皮肉るような庶民の「遊び心」がちりばめられている。こんな「巨人」は初めてだ。とはいえ、第4楽章コーダの金管群(ブラス・セクション)の咆吼は圧巻。指揮台の猛獣使いはオケにフルスロットルを要求。怒濤のフィニッシュに聴衆は打ちのめされた。終演後は例によってブラボーの嵐とスタンディングオベーション。サロネンの演奏会はまるでロック・コンサートだ。
 
 
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2018年4月11日 (水)

来年のことを言えば

 
鬼が笑うというが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の公演チケットだけはそうも言ってられない。これは本場ウィーンや東京だけでなく、ここロンドンでもそうらしい。来年2月下旬の公演でも、すでに1階中央席はほぼ完売状態。
 
来年のロンドン公演の注目は単にウィーン・フィル公演ということだけでなく、指揮者がアダム・フィッシャー(Adam Fischer 1949- 、ハンガリー人指揮者。弟のイヴァン・フィッシャーも指揮者)、曲目はG. マーラーの『交響曲第9番』ということもあるからだろう。この曲が現在のマイブームであることは以前のブログで書いた
 
アダム・フィッシャーはオペラの世界で叩き上げてきた指揮者であり(欧州ではオペラが振れないと一流指揮者とは認められにくい)、特にR. ワーグナーの大作『ニーベルングの指環』を知り尽くした指揮者として名声を不動のものとしている。コンサート指揮者としても、J. ハイドンの交響曲全曲(104曲)録音を敢行する偉業を達成している。それゆえヨーロッパはもとより日本の音楽ファンの間でも名匠としてすでに広く認知されている。その彼がマーラーの9番を振るのだ。それもウィーン・フィルで。どういう解釈を聴かせてくれるのか、今から楽しみである。
 
それにしてもこちらのチケットは日本に比べて安い。ウィーン・フィルの日本公演のS席は最高4万2千円の値がついていたことを記憶している(会場や曲目にもよるがだいたい 35,000円〜42,000円の間らしい)。これに対して来年のロンドン公演のS席は80ポンド(£1=150円として12,000円)。日本の約3分の1から4分の1である。日本での趣味だったオオクワガタ飼育(イギリスでは当然無理)もクラシックギター(楽器を置いてきた)もクルマの運転(こちらでは自動車無しの生活)も辞めている現在、唯一の趣味として楽しめる範囲の額である。
 
 
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2018年4月10日 (火)

還暦記念論文集

 
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もう7年前になるが、ウィクリフ・ホールでの旧約聖書の恩師、ゴードン・マコンヴィル先生の還暦を記念する論文集(Festschrift)が出版された(2011年)。私は 1994ー1995年の1年間、先生の薫陶をいただいただけでなく、先生のご家族とは一緒のフラットに住むご近所でもあった。先生ご一家は1階、私たちは3階の住人だった。このことは以前のブログでも書いたことがある。家族ぐるみの親しいお交わりをいただいた思い出は今でも我が家の宝である。先生は学問においては容赦なく厳しい教師であったが(提出したエッセイではいつもダメ出しを受けていた)、根は北アイルランド人らしい親切で情に厚い方であった。
 
この記念論文集は、マコンヴィル先生の恩師(博士論文指導教官 Doktorvater)であり後にグロースターシャー大学での同僚となるゴードン・ウェナム博士が記念論文寄稿と編集者の一人としての役目を買って出られた。実はウェナム博士の最初の博士論文指導学生がマコンヴィル先生であった。その点でマコンヴィル先生は、東京基督教大学の木内伸嘉教授や故人となられた遠藤嘉信牧師(元聖書宣教会教師)の兄弟子にあたる方でもある。
 
マコンヴィル先生のご専門は申命記である。従って本論文集のタイトルも申命記32章4節の聖句中の「主は真実な神(a God of faithfulness、エル・エムナーאֵל אֱמוּנָה )」から取られている。ウェナム博士は "It is this God who is always the central focus of Gordon's life, as family man, scholar and churchman.  Gordon's desire to respond to the faithfulness of God is revealed in his own devotion to scholarship and in his desire to fulfil this calling by bringing greater light to our understanding of the Scripture." とマコンヴィル先生の信仰と学識を称賛している。私も短い期間ではあったが、身近で先生の信仰者・学者としての佇まいを見せていただいた者として、ウェナム博士の称賛に心から同意し、また証しする者である。
 
 
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2018年3月31日 (土)

説教に民主主義はない

 

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往年の名車、いすゞ・ピアッツァの内装。ジョルジェット・ジウジアーロ の、人間工学に基づいたデザインによるサテライト・スイッチ&デジタルメーターは運転席というよりまさにコックピットであった。これが1980年代のクルマって信じられるか? ジウジアーロのデザインは「他とは違う!」と思わせる革新性とオリジナリティーに溢れている。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場するタイムマシン・カー「デロリアン DMC-12」だってジウジアーロのデザインだ。
 
そのジウジアーロの名言「デザインに民主主義はない」。彼の常識を打ち破る革新性とオリジナリティーの信念がこの言葉に込められていると言ってよい。デザインとは、コンセンサスからでも、皆で仲良く一緒につくることからも生まれるものではないと彼は言う。デザインとはひとりの人間が生み出すものである、と。
 
「人間の体と頭には "無意識" に多くの蓄積がある。たとえば見たもの、食べたもの、行った場所の記憶から、喜び、悲しみ、怒り、聞いたこと、話したこと、そういうことが蓄積されている。これらの蓄積をカタチにできる個人がデザイナー、放出されたものがデザインです。」
 
ジウジアーロが言う "デザイン" を、「芸術」でも「音楽」でも「説教」でも置き換えてみればよい。実は私がいわゆる「説教塾」に参加しない理由もここにある。ジウジアーロが言うように、デザインを論理化するのはそれが生まれてからである。その逆はない。デザインはひとりの人間が生み出すもの。なぜなら、その人の経験・蓄積すべてがそこに込められるから。
 
説教塾や説教道場が盛んな昨今。レベルは(格段に)上がったと感心する一方、同時に「みんな同じになってきたなあ」とも感じる。そりゃそうだ、皆で仲良く(批評しながら)一緒に作るのだから。でも私は、下手でも欠点があっても、「デザイン(説教)に民主主義はない」の信念で行きたい。 その意味で、ロイドジョンズが拘るように、説教とは sermon というより preaching でなければならないと思う。 
 

2018年3月29日 (木)

ロシアの脅威

 
きょうは3月29日。ちょうど1年後の本日、つまり2019年3月29日にブレグジット(Brexit、英国のEU離脱)は完了する。とはいえ、2020年末まで経過措置としての移行期間(Transition Period)を設けることで双方が大筋合意に達している

この「移行期間」、当初はブレグジット交渉で揉めるのではと予想された。ところが予想に反し意外とすんなりと決まった。背景として、英国ソールズベリーで起こった元ロシアのスパイセルゲイ・スクリパリと娘の暗殺未遂事件が影響していると思われる。日本でも報道で知られていると思うが、英国は23人のロシア外交官を国外追放(その後ロシア側も対抗措置)。英国との「特別な関係」にあるアメリカも歩調を合わせて60名のロシア外交官の追放を発表した。現在ではロシアへの対抗措置を講じた国は26カ国に上り、100名を超えるロシア外交官が放逐される事態となっている。

この事件はブレグジット交渉にも大きな影響を及ぼしたと思われる。離脱完了後の移行期間がすんなり合意に達したのも、ロシアにつけ入る隙を見せられないと英国・EU両者の利害が一致したためではないだろうか。英国内にも欧州大陸諸国内をにも、極右・極左を問わず親ロシア勢力は多数存在する。その意味で、今回の事件はロシアの脅威が英国及びEUの存在意義に再考を促したと言えるだろう。それは、アゴラでの矢澤 豊氏の寄稿にあるように、「いままで経済を基盤として結束していたEU諸国とその政策が、外交・軍事という軸にシフトしていくことになることを意味している」。
 
ところでロシア、特にプーチンのロシアを知る上で欠かせないのが旧KGBを知ることである。ブライアン・フリーマントル著『KGB』(新潮選書 1983年刊)は依然名著だと思う。本書は1978年9月にロンドンで起きた、ブルガリアの反体制作家ゲオルギー・マルコフの暗殺事件から始まっている。今回のスクリパリ父娘暗殺未遂事件を彷彿とさせる。因みに、メイ首相は内務大臣時代、2006年にロンドンで毒殺された元KGB職員で反体制活動家のアレクサンドル・リトビネンコ氏の死因を「プーチン大統領が関与したロシア政府の国家犯罪の可能性」として糾弾した。本書の第10章「裏切り者には死を("To Defect Is To Die")」に次の一文がある。
 
ソ連もしくは衛星国を離脱する者は反逆者となる。かならずしも事務的に片付けてしまうわけではないにせよ、判決文はおしなべて死刑といってよい。(A person who defects from the Soviet Union or any of its satellites is a traitor and although not automatic the sentence is almost invariably death.)

旧ソ連もロシアもこの方針は一貫している。そして彼らが心底恐ろしいのは、世界を敵にまわそうが孤立を招こうが、断固としてかつ冷徹にそれを遂行することである。

 
 
次のようなのことばが私にあった。「人の子よ。メシェクとトバルの大首長である、マゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言せよ。」 
 
それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。「である主はこう言われる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、まさに、おまえは知ることになる。おまえは北の果てのおまえの国から、多くの国々の民とともに来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。」
(エゼキエル書 38章1ー2節;14ー15節  新改訳聖書 2017)
 
 
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2018年3月16日 (金)

光を恐れるのではなく

 
これも先月の出来事であるが、私たちの教会が礼拝の場としてお借りしているイギリス国教会福音主義の教会 Christ Church Kensington(ケンジントン・キリスト教会)で、ジョン・レノンならぬジョン・レノックス博士 (Dr John Lennox, Professor Emeritus of the University of Oxford)を招いての講演会が行われた(画像参照)。レノックス博士はオックスフォード大学の名誉教授。数学者の立場から無神論に対するキリスト教信仰の弁証を英国はじめ世界各地で積極的かつ精力的に行っている方である。この日の講演会に私はあいにく出席できなかったが、妻と教会役員のM兄が出てくれた。大盛況だったそうである。ロンドン大学の学生はじめ多くの学生の参加があったらしい。関心の高さが窺える。
 
ところで理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士 が他界した。もっとも本人は別の世界の存在を信じていない方だったので「他界」ではなく単に「亡くなった」でよいのかもしれないが。。ホーキング博士もレノックス博士も科学者であり理系の人間だが、その世界観は正反対であった。二人の対照的なことばが次のとおりである。
 
ホーキング博士
「天国とは、闇を恐れる人々のためのおとぎ話(架空の世界)である。("Heaven is a fairy story for people afraid of the dark.")」
 
レノックス博士
「無神論とは、光を恐れる人々のためのおとぎ話(架空の世界)である。("Atheism is a fairy story for those afraid of the light.")」
 
 
ホーキング博士の世界観は、純粋に科学者としての考察の帰結というよりは、病に苦しんだ半生とその人生観から発された叫びだったのかもしれない。闇に向かって罵倒するのもひとつの人生かもしれないが、僅かな光に賭けてみるのもまた人生ではないかと思うのだが。
 
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 (ヨハネの福音書 8章12節  「聖書 新改訳 2017」)

 
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2018年3月 7日 (水)

2月の出来事から

 
初孫との対面
Img_0862_4 リディーマー長老教会(NY)での礼拝と交わり
 
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カーネギーホールにて(リッカルド・ムーティ指揮 シカゴ交響楽団)
 
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2017年12月11日 (月)

「恥知らず」の意味

 
聖書 新改訳 2017』でルカの福音書11章8節にある「アナイデイア(ἀναίδεια)」という語がどう訳されるかに関心を持っていた。入手できたので見てみたが「(友だちの)しつこさのゆえなら」と訳されてあった。直訳では「恥知らず」「ずうずうしさ」であるためか、転じて執拗さやしつこさの意味で訳されるようだ。新改訳聖書第3版では「頼み続ける」、新共同訳聖書では「しつように頼む」とそれぞれ訳されている。
 
しかしこのように訳すことによって、このたとえ話のポイントがパンを求めている側にあるように解されてしまう。(『聖書 新改訳 2017 』の脚注にはルカ18:1ー6のたとえ話が参照として紹介されている。) そうなると結局、キリスト教も熱心に求める「行為」によって救われる宗教と誤解される危険はないか。このたとえ話のポイントはむしろパンを求められた友人の側にある。
 
トリニティー神学校の D. A. カーソン教授が指摘するように、英語で shameless とは恥を恥とも思わない「恥知らず」を意味するが、ギリシャ語の「恥知らず」とはその行為によって恥を免れること、つまり shame-less を意味する。従って11章8節のアナイデイアをカーソン教授が提案する私訳「(近所の仲間内で)恥を受けたくないと願う」と訳すことで、渋々求めに応じる友人の姿勢にスポットが当たってくる。つまり、(旅人をもてなすことが当然とされる文化の中で)恥をかきたくないからという情けない理由で重い腰を上げるこの人でなしですら最終的に求めに応じるなら、まして神は・・というのがたとえ話のポイントとなる。こう解釈することで13節のイエスの言葉「それならなおのこと、天の父は・・・聖霊を・・・」に繋がるようになる。やはり神は恵みの神なのだ。私たちは熱心に求めるという「行為・行い」によって何かを得たり救われるのではない。神の恵みを信じて憩いたい。
 
 
画像は私たちの教会が礼拝の場としてお借りしているイギリス国教会の礼拝堂。アドベント第2週の聖日は今年初雪の日となった。
 
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2017年11月28日 (火)

ようやく読了?

 
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6月に行われた私の就任式に列席くださった恩師の P. ジョンストン先生と奥様。お祝いにと、先生が編集者の一人として携われた本をプレゼントしてくださった。ケンブリッジのティンデル・ハウスのプロジェクトによる結婚と家族関係に関する研究論文集である。書名からの印象ではただの結婚や家族に関する本と思われるかもしれないが、ジェンダー問題・同性婚や LGBTQ、更には性同一性障害の問題まで踏み込んだ極めて意欲的な論文集である。先生は編集者として大御所やベテラン学者にも遠慮なく「朱筆」を入れたらしい。若手学者は素直に聞いてくれるが、ベテランほどゴネたそうだ。でも先生はめげなかった。 やはり本は著者だけでなく、優れた編集者を得てはじめて作品となる。
 
編集者の苦労話を伺ったので愛着の湧く本となった。8月の夏休みに一気に読むはずだったが、結局ずるずると年末近くまで来てしまった。ようやくひととおり目を通したものの、内容が非常に高度で咀嚼するには再読が必至。振り出しに戻った感じ。まあ、よい。歳をとったから濫読より精読だ。思えば若い頃は「万をもって一にあたる」の姿勢で手当たり次第読み漁ったものだ。今はむしろ「一をもって万にあたる」が信条。著者の渾身の力作をじっくり読んだ方がずっと益になる。渾身の力作などそう何冊もあるものではない(最近の数少ない一冊が過日のブログで紹介したJohn Barclay の本)。従って、かつてのようにジャーナリスティックに新刊神学書を追いかけることへの関心もめっきり減った。神学界も否応なく資本主義の波に呑まれているので(Publish or perish)、20年どころか10年ももたない(時代遅れとなる)神学書が次々出版されている。
 
読む数(冊数)を減らした分、大事になってくるのが「アウトプット」。インとアウトのバランスが大事なことに気づかされている。最後に「余計なお世話」を書いて終わることにする。
 
説教は神学のアウトプットという面がある。いわゆる教職者と一般信徒の間に(信仰ではなく)知識とスキルの差があるとすれば、それはアウトプットの量の違いである。詰め込んだ知識はアウトプットしなければ真に自分のものとはならない。例えば、もしある教会のすべての教会員が教会学校の先生を担当したら(アウトプットしたら)、その教会の雰囲気は一変し、教会の神学レベルはぐんと上がるであろう。牧師もいい加減な説教はできなくなる。「うちの教会の説教は退屈」ともしあなたが思っているなら、その説教を作っているのは、実はあなたを含む教会員全員でもあるのだ。
 
 
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2017年11月24日 (金)

鄙(ひな)の論理

 
サイモン・ラトルも、今晩のマリス・ヤンソンス(Mariss Jansons, 1943〜 ラトビア・リガ出身)も、キャリアの出発はオーケストラ界の地方オケ&二流オケからだった。ラトルは1980年からイギリスのバーミンガム市交響楽団(当時)で18年間にわたり指揮者を務め、このオケを一流楽団に成長させた。ヤンソンスも1979年から2002年にかけて23年にわたりノルウェーのオスロ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として同楽団を一流オケに育てた。
 
その昔、『鄙の論理』という本があった。著者は細川護煕氏(元内閣総理大臣)と岩國哲人氏(メリル・リンチ元米国本社副社長)。細川氏は首相の前に熊本県知事を、岩國氏はメリル・リンチ社を経て島根県出雲市長をそれぞれ務めた。鄙の論理の「鄙(ひな)」とは、例えば「鄙びた温泉旅館」の鄙である。要するに「地方」ということだ。本の詳しい内容はもう忘れてしまったが、主旨と共に書名はいつまでも記憶に残っている。
 
不思議なことだが、ラトルからもヤンソンスからも、私は匂いのような「鄙の論理」を感じる。それは「素朴さ」であり「逞しさ」でもある。都会で仕事をしても都会ずれしない。そんな純粋さでもある。ラトルは今シーズンをもってクラシック界の「中央」ベルリンを辞して来年には「偉大なる田舎」のロンドンに帰還する。ヤンソンスは望めば恐らく間違いなく「中央」ベルリンに進出できたのに、「地方」のミュンヘンでの契約延長を選んだ。自発的にラトルの後任レースから降りたのである。
 
そういえば牧師・伝道者も、「鄙(ひな)」の匂いをまとった人とそうでない人がいるように思われる。今をときめくKGKの総主事さんも、本格的なキャリアの始まりは雪深い北陸地方であった。反対に「鄙」を全く感じさせない人もいる。私はなぜか本能的にそういう人とは肌が合わない。だから無理して付き合わないようにしている。ストレスが溜まるから。多分、相手も私を田舎っぺと思っていることだろう。仕方がない。
 
今晩の演奏終了後に「ロイヤル・フィルハーモニック協会」から今年の金賞受賞者であるヤンソンスへの祝辞の時間が設けられた。協会会長の他、ピアニストの内田光子氏も招かれて祝辞を述べた。答辞をしたヤンソンスは受賞の光栄を感謝しつつ、「しかしオーケストラ抜きの指揮者は何者でもありません。だから私の受賞はオーケストラのものでもあるのです」とバイエルン放送交響楽団との蜜月ぶりをアピールした。確かに今晩の演奏からも両者の信頼関係はひしひしと伝わってきた。ヤンソンスは今年で74歳。「70歳以上のオケの音楽監督は老害」と断言した過日の拙ブログ文も、このコンビについてだけは例外としなければならないかもしれない。「鄙」を愛したマエストロの面目躍如の一夜であった。
 
 
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